2017年5月13日土曜日

1-20-a ユーグ=ベルナール・マレ(3)

ボナパルトがエジプトから帰還するにあたって、マレが不面目な利用のされ方をした既存の権力体制の転覆を支援し、彼を前よりも安泰な境遇へ引き上げてくれた偉大な軍人の意図を助長するに何ら躊躇わなかった事は誰も驚かせなかった。彼は統領の国務長官という重職でもって報われる。この職務はやがて国家の省庁まで引きあげられる。

マレの国務長官用ポートフォリオ

1811年、マレ(この時バッサーノ公爵)はシャンパニィの後を継いで外務大臣になった。この重要な職務に際し、彼は溢れる熱意と前より軽薄な道義心でもってナポレオンに仕えたが、彼に求められた義務は彼の才能にとても釣り合わなかった。彼が公爵となった直後、その爵位に伴って尊大さが増した事を疑いもなく仄かしながら、タレーランはこう述べた。「全フランス見渡しても、マレ以上に厚かましい者は一人しかいない。それはバッサーノ公爵だ」。

公爵の節操の無さがいかなる物であれ、彼のボナパルトに向けた愛着心には一貫性があり、それはほとんど美徳と言っても差し支えなく、もしこれがより優れた人物へ向けられた物ならば一層立派であっただろう。他の連中—没落した皇帝に全てを負っている者達さえも—が手助けを必要としている時に離反して行ったにも関わらず、マレは彼を見捨てることなく、彼がエルバ島に向けて出発するその瞬間まで、職務に衰える事無い熱意と彼への尊敬を示し続けた。それ故、この忠実なる下僕が皇帝の帰還の企みに関与していた事は疑いなく、よって百日天下の間、彼は進んで公職を拝命した。彼の行動への弁明として、彼自身も、彼の親族も、彼の身近な関係者にもブルボンに恩を感じる必要がある者はいなかったと述べておく必要があるだろう。彼らはみな地位も称号も剥奪されており、誰も宮廷から厚遇を受けておらず、それを求めようともしていなかった。

ナポレオンの2度目の治世の間、マレの内務大臣及び国務長官としての采配は素晴らしく穏当だったので特筆すべき物となった。皇帝がマルセイユのアングレーム公爵を釈放する許可証を送るべきか否か迷っていた時、マレこそが自らの責任でそれを発行し、その撤回を不可能な物にした。皇帝が最終的にジリ協定の批准を拒み、ブルボン家を幽閉しようとしていた事に疑いは無く、それを考慮すれば彼は一層勇敢な行動をしたと言えよう。公爵の安全が保証されたと知った時、彼は大急ぎでナポレオンに自らの行動を報告した。彼が勇気ある行動を男らしく言明したことは、皇帝に深い感銘を与えた。「良くやった」と、いくばくかの沈黙の後ナポレオンは述べた。大臣は、「陛下、私はまだお役に立てると思います。そして、私が、まさに忠誠を捧げると決意した方へお渡しした辞任状を撤回したく存じます」。ブルボン家の解放は皇帝の寛大さではなく、マレの剛直さのおかげである事に議論の余地はない。この目覚ましい行為によって彼は後の国外追放を免れる事ができたのではと見る向きもあるだろう。セント・ヘレナのナポレオンはこの時の状況を仄めかして「バッサーノ公は未だに亡命先でさまよっている!」といみじくも叫んでいる。ルイは彼の甥がこの大臣に恩義がある事を知らなかったと信じる余地はある。もっぱら主君の再起に心を砕いていたこの大臣は、その目的に汚名を被せるような行為は何であれ避けようと努め、その成功を確実に成し得るあらゆる事を実施していた。彼はワーテルローにも参加し、大惨事となったこの戦場からの撤退時にはあわや捕虜となりかけた。

パリに帰還した彼はブルボンの復帰は不可避と判断し、彼の頭上に立ち込める波乱に対して備えた。フランスから追放された後、彼は5年間をシュタイアーのグラーツで過ごした。しかしその後に、国王から母国にて残りの日々を過ごす許可を得た。1826年、彼はブルゴーニュの地所に住まい、パリには殆ど出向かず、彼の子供たちの教育と育成に時間を費やして暮らしている。

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