2020年4月30日木曜日

1-12-a ジョゼフィーヌ(2)

この時期(1810年)から皇后は、時にはマルメゾン宮殿で、時にはナバラの宮殿で、隠棲生活を送っていた。彼女がひっそりと暮らしていた傍らで、ナポレオンはマリア・ルイーザが跡取り息子を産んだことに歓喜した。その出来事を聞いたときの彼女の気持ちは想像がつくだろう。表現できないほどの苦しさだったが、気をしっかり持って、辛さを克服した。彼女はその知らせを伝えに来た使者を労うと、皇帝を祝福する手紙を書いた。その手紙の内容を紹介すると、
「陛下へ、ナヴァールにて。
ヨーロッパ中の国々、フランス中の町、軍の全連隊から沢山の祝福を受けていることでしょう。その中でこの女のか細い声が埋もれずに届いているでしょうか? あなたの悲しみを慰め、 心の痛みを和らげてくれた女が、貴方に待ち望んだ幸福が訪れたことを喜んでいる、その言葉に 耳を傾ける余裕はありますか?
もう妻ではない私が、貴方が父親になったことに喜ぶとお思いでしょうか? もちろんです、 陛下! 私の心はあなたの心に常に寄り添っています。貴方の心がそうであるのと同様に。私がこの慶事にどんなに感動しているか、貴方はすぐに分かってくれると思っています。私達は離れていても、今回の件について共感で結ばれているのです。
ローマ王の誕生を他でもない貴方から伝えられた事に嬉しく感じてます。しかし、貴方の配慮がまずは各国外交使節たち、貴方の家族、そして何よりも、貴方の最も大切な希望を実現したばかりの幸せなお姫様に向けられていることは、よく承知しています。彼女は私以上にあなたに愛情を注ぐことはできないでしょうが、フランスの国益を保証することであなたの幸せのためにより寄与する事ができたのですから、彼女が誰よりも先に貴方の心遣いを得るのは当然でしょう。糟糠の妻の私は、マリア・ルイーザが独り占めしている貴方の愛情のほんの僅かばかりを主張する権利しかありません。私に返信するよりも、ベッドの彼女を見守り、皇子を抱き上げたりで忙しい事でしょう。待ってるわ!
それでも、この地上の誰よりも、私はあなたの喜びを分かち合っていると伝えずにいられません。万民の安寧のために自らを犠牲として、それが実現できた事に喜び、ただ一人苦しんでいると伝えたら、貴方は私の誠意を疑わないでしょう。苦しんでいるですって。いいえ、私の唯一の心残りは、貴方が私にとってどれほど親愛なる存在であったかを証明するにまだ十分なことをしていないことです。」
マルメゾンの温室
 しかし、彼女を待っていたのは、より酷いとまではいかないまでも、深刻な悲報だった。ロシア遠征の惨禍、さらにはドイツ戦役での壊滅を聞いて、ジョゼフィーヌは彼の悲運に身震いした。彼女の彩り豊かな庭園には、世界の最も遠い地域から破滅的な費用を投じて取り寄せた花々が植えられていたが、もはや彼女の心の慰めにはならなくなった。邸内では舞踏の歓声ももはや聞かれず、遊戯用のカード類も傍に置かれ、彼女は身繕いさえおろそかにして、すべてに無関心になった。 彼女は、彼女が捨てられて以来、ナポレオンの運勢が衰退していることを認識せずにはいられなかった。ジョゼフィーヌはナポレオンの運勢に自分の運勢が重なり合っていると恐怖した。ナポレオン自身も同様だった。フォンテーヌブローでの退位を聞いた時、彼女の悲しみは言葉にならないほどのものだった。

「私の可哀想なエル=シド!私のアキレス!」この頻繁に聞かれた嘆きの言葉は、彼女のナポレオンへの愛情と賞賛を物語っていた。その頃から彼女の健康は衰えていき、彼女はのエルバ島に追放されたボナパルトを慰めることができないことを嘆き続けた。

事実、彼女の心は粉々になっていたが、それでも説得されて大事な訪問客に応対をした。その中にはロシアとプロイセンの君主がいて、彼らは彼女に細心の注意を払い、彼女の苦悩を深く慰めてくれた。ある日、重度の体調不良にもかかわらず、彼女は医師の助言に反して、ロシア皇帝を出迎えるために身を起こしたが、彼女はすぐに退出せざるを得なくなった。アレクサンドル帝は自身の侍医を遣わしたが、心因性の病気には手を施しようがなかった。 彼女の容態は絶望的だった。彼女は3日後の1814年5月29日に「エルバ島、ナポレオン」との言葉を残して息を引き取った。
ロシア皇帝アレクサンドル1世を
応対するジョゼフィーヌ

亡くなる数週間前にジョゼフィーヌが当時エルバにいた彼女の不実な前夫に向けて書いた手紙は、彼女の人柄が好ましい光彩を放っている事を他のどんな記録よりも伝えている。だが、彼女の申し出をナポレオンは断った。

「陛下へ、マルメゾンにて。
私たちの離婚に伴う悲しみの全容を今日に至って理解できるようになりました。今の私はただの友人として、、貴方の途方もない苦境に対してただ 嘆くことしかできません。貴方は私の同情を感じてくれるでしょう。この同情は貴方が王座を失ったから事に対してではありません。その喪失への埋め合わせはすぐにできると 私は経験から知っています。栄光を共にした戦友との別れの苦悩を哀れんでいるのです。将校だけでなく、一般の兵士たちの顔、名前、戦果を思い出せるはずです。その数が多すぎたため、全員に報いることが出来なかったと貴方は言ってました。苦労を共にした主君から引き離された兵士たちを置き去りにするのは心痛に違いありません。私は 痛切に感じています
かつて頼りにしていた仲間の裏切りと離脱はさぞかし辛いでしょう。ああ 陛下、なぜ私はあなたの元へ飛んでいけないのでしょう? そうすれば、追放生活は卑しい者だけにとって恐ろしく、誠の愛情は消え去っておらず、逆境は新たな力を与えてくれると証明してみせます。私に課せられた義務を果たさねばならないと確信できれば、何も私をここに留めることはできません。
私にとって 唯一の幸福がもたらされるところへ向かいます。それは孤立して不幸な陛下を慰められるところです!ただ一言だけください。それさえあれば、私は飛んでゆきます。
さようなら 陛下。これ以上の言葉はもはや不要でしょう。 私の決意は言葉ではなく行動によって証明されるべきものです。貴方の許可、それだけが欲しいのです。 ジョゼフィーヌ。」
『愛らしいジョセフィーヌ 』とブーリエンヌはよく呼んでいたが、彼女は威厳と誇りに満ちた女性だった。彼女は自分の役割をよく果たしていたので、ナポレオンは彼女の贅沢三昧を大目に見ていた。皇后は貧しくて、孤独で、苦境にある人々に心配りをしていたので、彼女の欠点ははさほど非難を受けなかった。

ジョゼフィーヌの石棺
(聖ピエール・聖ポール教会、
リュエイ=マルメゾン)
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2020年4月19日日曜日

1-12-a ジョゼフィーヌ(1)


やがてその名を広く知られるようになるこの女人は、貴族の入植者タシェ・ド・ラ・パジュリ卿の娘として1763年6月24日にマルティニーク島にて生を受ける。
若い時分、彼女はフランスに連れて来られ、ボアルネ子爵と結婚した。この若くて美しい花嫁は、哀れな運命をたどったマリー・アントワネット(やがて彼女もその後継者として后となる)を取り巻く集いに引き合わされた。そして機知と快活さでもって、彼女はすぐに宮廷の華の一つと見なされるようになった。このような経験は実際のところ有難いものではなかった。こうして彼女の移り気な性格が形成され、その後大変な苦労をするという経験をしてもなおこの性質は矯正されず、やがてナポレオンの許容範囲を超えた浪費癖として表出するようになる。

アレクサンドル・ボアルネ子爵
(ジョゼフィーヌの最初の夫)

ボーアルネ子爵が断頭台の露と消えたことで、彼女は金銭的窮地に陥る。夫の財産が没収されてしまったのである。しかし、バラスの影響で、その一部は彼女自身と2人の子供のために取り戻された。それでも状況は厳しかった。彼女の息子ウジェーヌは自身の教育費をパリのある慈善機関から借り受けていたとさえ伝えられる。彼女はあらゆる面で欠乏に陥っていた。フーシェの言葉を借りれば、この時の彼女は「とても王冠に得るに相応しくなかった。」
ジョゼフィーヌとその子供、
ウジェーヌとオルタンス
ボナパルトと彼女の出会いは、偶然の出来事によるものだった。総裁政府に動揺を与えたヴァンデミエールの反乱の後、パリの住民は武装解除するように命じられた。ある朝、15歳くらいの育ちの良さそうな若者がボナパルト将軍の宿舎に現れ、彼の父親の剣を返還してくれるよう求めた。若者の風貌と気構えに感じ入ったボナパルトはその要求を直ちに承知した。
翌日、ボナパルトはボアルネ夫人の突然の訪問を受ける。彼女は息子が受けた丁重な扱いに感謝を伝えるために来たのである。ボナパルトは彼女の魅力と、それ以上に才気に魅了され、彼女に求婚をした。

しかし、以下にあげる彼女が友人に書いた手紙からの抜粋が示すように、ボアルネ夫人はこの尋常でないコルシカ人と連れ添うことに恐怖心に近いものを抱いていた。
「私は将軍の勇気やあらゆる物事に関する知識の広さ(どんなことでも、彼は上手に語ることができます)に感心しています。彼の洞察力は、他者の考えを表に出る前に察知するのを可能にしています。しかし私は彼が周囲の全てを己の支配下に置くような様子を見て恐怖を拭い去ることができません。彼の人を測るような目つきには普通でないところがあって、うまく説明はできませんが、総裁たちさえもそう感じています。こうした面に女として怯えずにいられましょうか?(中略)バラスは私にこう言いました。もし私が彼と結婚すれば、彼にはイタリア方面軍の総司令官職が与えられると。まだこの地位は授けられていないのですが、昨日この昇進について口にしたところ、彼の同輩軍人らは陰で不平を言い交わしました。ボナパルトは私に、『総裁たちは私が己の栄達のために彼らの保護を必要としていると思い込んでいるのだろうか?いつか全員が進んで私の庇護を受けるようになるだろうさ!私にとって身に帯びた剣こそが最上のパトロンなのだ。貴女は、私が成功を確信している事についてどう思いますか?過度の自己愛から生じた、身の程知らずな自信の表れだと思ってませんか?一介の旅団長が政府の長を守ってやっている!つまるところ、これが全てでしょう。時折、こうした馬鹿げた確信が、この非凡な人間が思いつく非現実的な企てがたとえどんなものだろうと可能性があると見なす原動力になっている。そしてそう考える頭の中で、制止しようとする者は現れようか?』」(1829年発行のジョゼフィーヌの回顧録より引用。匿名で世に出たが、書き手は正真正銘ブーリエンヌである。)

ジョゼフィーヌは並外れた女人であった。 後年、魅力という点で彼女を上回る人物は多く現れたが、ナポレオンの心を捉えて影響力を保ち続けたのは彼女だけだった。 ナポレオンの身を思ってあえて彼に反対することができたのは彼女だけだった。 彼女だけがナポレオンをうまく宥めるタイミングと方法を熟知していた。ジョゼフィーヌの名誉のためにも、彼女が常に人道と正義心に基づいて影響力を行使したと言わざるを得ない。 彼女は慈悲深い心の持ち主だった。何千もの人々が彼女の計らいによって今も命を繋いでいる。 彼女の夫とは異なり、彼女は党派・思想・信条で人を分け隔てることはせず、その恵みはあらゆる人に行き渡った。 ナポレオンの「私が戦勝を得るならば、ジョゼフィーヌは人心を勝ち取っている!」との言葉は言い得ていた。

だがこうした賛辞に水をかけるような、浮気癖と甚だしい浪費癖を有していた。前者について、ボナパルトは一度は嫌悪感を抱いて離婚を凄んだが、恐らく彼女の嘆願と、さらにはその子供たちの存在がなければ、それを実行したであろう。
彼女の軽率さは度々ナポレオンの激しい怒りの的となったが、悪癖は治ることがなかった。やがて彼女はどう返済したら良いか考えあぐねるほどの借金地獄に陥った。
統領政府期のある時、ジョゼフィーヌの債権者達が返済を求めて度が外れて騒ぎたてるようになった。閣僚たちは誰もボナパルトにこの事実を知らせる勇気がなく、また債権者らへの支払いを行う術もなかった。そんな状態が続いたが、ある夜のこと、タレーランは意を決してこれ以上ないほど慎重に言葉を選んで、この事実を切り出した。その結果、ナポレオンの秘書であるブーリエンヌが、ジョゼフィーヌから借金の額を聞き出すために派遣された。彼女は120万フラン以上の借金を負っていたが、夫の激昂を恐れて、ブーリエンヌにその総額の半分以上の金額を夫に伝えるのを許可しなかった。

「第一統領の怒りは想像に難くない。 しかしながら、彼は妻が何かを隠しているのではないかと疑っていた。 だが彼はこう言った。『60万フランを返済にあてろ。だがそれ以上はくれてやるな。私が彼女の借金のせいで悩まされるのはこれまでだ。 借金取りどもが莫大な金利を得ようとするのを辞めないならば、奴等の口座を凍結するぞと脅すまでだ。』
ボナパルト夫人は勘定書を私に開示した。 それらの法外な金額は信じられない程で、おそらく債権者の、非常に長いこと金を貸し与えることになる恐れ、もしくは最終的にかなりの減額を強いられることへの恐れ、そのいずれかによるものと思われた。
  私はまた架空の請求書が多くあることに気づいた。 たとえば、ある請求書では、一月の間に非常に高額な38個もの帽子が注文されたことになっていた。帽子につける羽だけでも1,800フランもした。 私はジョセフィーヌに1日に帽子を2つもかぶっていたのか尋ねた。 彼女は『それは間違いでしょう』と言った。価格面でも製品面でも法外なレベルで供されているのは、ほとんど収奪と言ってよかった。私は統領の言葉に従って処理を進めたが、非難や脅迫を免れる事はなかった。だが多くの商人が請求額の半額の返済で満足したのはみっともなかった。そのうちの1人は元の請求額の80,000ではなく35,000フランを受け取ることで同意し、私の面前で図々しくも良い利潤を得たと自慢をしたものだった。」

しかし、彼女の欠点が何であれ、ボナパルトは彼女を愛し、彼女の方でも彼を崇敬した。彼女は戦役の多くを彼と同行し、短い合間でさえ彼から離れたがらなかった。しかし、彼はより若く、身分の高い花嫁を得る目的で、ジョゼフィーヌのありったけの愛情に対し離婚を告げるという形でひどい報い方をした。 幾度も抵抗したのち、ジョゼフィーヌは離婚に同意した。なぜならば、彼女が愛し、共に暮らし、そのためならば死ぬ事も厭わないと思っているナポレオンの意思であったからだ。しかし彼女はその後の日々を孤立と悲しみの中で過ごした。まだ低い身分だった頃から連れ添い、立身に不可欠な役目を果たした妻を捨てた事は、野心に駆り立てられたナポレオンが犯した罪の筆頭だった。

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2020年4月13日月曜日

1-46-a ニコラ・ウディノ


ニコラ・シャルル・ウディノは1767年4月2日、バル=シュル=オルマンに生まれた。他のほとんどの若者たちと同様に、彼は革命が生んだ新体制に最初は夢中になったが、それがすぐに過激へと転じたことには承服しかねた。 彼の町は略奪され、もし若いウディノらが武装して荒ぶる暴徒を追い払っていなかったなら焼き尽くされるところだった。 この武功に自信を持った彼は兵士になろうと決意した。 彼は軍務にありつくと、その勇気によって、その時期でさえ異例なスピードで兵士階級から急速に昇進を重ね、中将になった。ウディノは、オッシュ、ピシュグリュ、モロー、マッセナ、ボナパルトの指揮下で、ライン、スイス、イタリアの各方面で優れた働きをしたので、1804年に帝国元帥の称号が設立された際に、その中に彼が含まれなかったことに軍人らは疑問を呈した。 ただし彼には帝国伯爵に叙爵され、100万フランが与えられた。 ワグラムの戦いでの敢闘ぶりによって、彼はレッジョ公爵という一層高位の称号を手にした。 1809年に彼はとうとう元帥杖を手に入れ、ロシア遠征で第12軍団を指揮した。 その過程で彼は多くの重傷を負ったが、それにも関わらず危険で困難な撤退戦をやり遂げた。

パリに生還してしばらくの間、ウディノは戦傷のため安静を強いられた。 やがて身を起こせるようになるとすぐにナポレオンの衰退した運勢を支えるために、ドイツでの戦いに急行した。 彼はバウツェンの勝利で大いに名を挙げた。 しかし、グロスベーレンでベルナドットに敗北したことは、皇帝の激しい怒りを買い、彼はすぐにネイに取って代わられた。 この屈辱にもかかわらず、彼はネイの下で仕えることを拒否しなかった。 その後すぐにデネヴィッツの戦いで同じ有能な指揮官によって、この勇者の中の勇者と呼ばれたネイでさえも敗退を余儀なくされたのは、おそらくウディノの自尊心にはいくらかの慰めとなっただろう。

ナポレオンの独裁を長く嫌悪しており、皇帝の退位によって服従の義務から解放されたウディノは、ルイ18世に進んで奉仕を申し出ると、それによって彼は擲弾兵隊の上級大将の地位を与えられ、メスの軍政という重要な任務を任された。 ナポレオンが再びフランスに混乱を引き起こしに舞い戻った際、ウディノは立派にも引き続き王家に忠実であり続けた。 ウディノがナポレオンと一戦交えようとしようにも、彼の軍隊は公然と旧主の方につくと宣言した。

百日天下の間、彼はボナパルトの誘いすべてに断固と抵抗した。 決して宮廷に顔を出さず、田舎で時間を過ごしていた。 ブルボンの二度目の復位にあたり、彼の忠誠心はパリ国民衛兵の指揮権、聖ルイ騎士団及び聖霊騎士団の勲章、フランス貴族院の議席、そして閣僚の席によって報われた。

ウディノの最後の軍務は、アングレーム公の指揮下における1823年のスペイン侵攻だった。 そしてマドリードの知事であった間、立憲主義者への攻撃に躍起となっている専制政治の狂信者たち(主に僧侶に扇動されていた)を捕縛するという人道的な振る舞いをした。