2019年8月17日土曜日

1-39-a オーギュスト・マルモン




オーギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモンは、ナポレオンの元帥の中で最も秀でた出自の持ち主の一人だった。彼の家系は貴族で、古くから軍事において誉れ高かった。マルモンは1774年7月20日にシャティヨン=シュル=セーヌに生まれる。

多くの先祖と同じく、フレデリク少年は子供のうちから将来的な軍属を見込まれていた。彼は15の歳に歩兵連隊に中尉として入隊する。 しかし、砲兵隊の方が昇進がより早いと期待して、転籍した。 トゥーロンでマルモンはボナパルトの目に留まった。 そして、そのボナパルトが国内軍の指揮官に任じられると、マルモンはパリに急行し、彼の副官に任命された。

イタリア、エジプト、シリア戦役の間ずっとマルモンはナポレオンの側で仕え続けた。そして、選ばれた数名の一人としてナポレオンのフランス帰還に伴われた。

過酷なるモン・サン・ベルナール峠越えの時も、バール砦の攻囲戦の時もマルモンは大いに活躍した。マレンゴの戦いでは砲兵指揮官を務め、戦役の最後には中将への昇進を果たした。

続く1805〜7年の戦いにおいても同じように軍功を立てた。そして1809年のドイツ戦役にて彼は元帥杖とラグーザ公爵の称号を獲得した。 この後、彼はマッセナの後任としてポルトガル方面軍司令官に任命される。 だが戦況は彼の手に余る状態となっていた。

サラマンカの戦い
(1812年7月22日)
スペインに到着して間もなく、マルモンはスルトの軍隊と合流し、彼らの連合軍はウェリントンに包囲されたバダホスを救うために進軍した。ウェリントンは彼らに対抗するほど十分な兵力を有していなかったため、サラマンカに向かって後退した。しばらくの間、両者はにらみ合いを続けたが、どちらも最初の一撃を放とうとしなかった。しかし、マルモンの失策によってウェリントンは好機を手に入れることになった。ウェリントンは幕舎の中で夕食を食べていたところ、フランス軍が両翼を伸ばし始め、おそらく側面攻撃を仕掛けてくるだろうとの情報がもたらされた。 「マルモンの才気は鈍ったな!」ウェリントンはそう言って、素早く馬にまたがった。フランス軍はイギリス軍の急襲に圧倒され、陣地から追い出された。そして撤退するフランス軍の混乱の度合いは、マルモンの負傷により早々に制御を失ったため、嫌が応にひどくなった。サラマンカの大戦の顛末はというと、フランス軍の捕虜7千人と大砲11台、鷲章旗2本が英軍の手に落ちた。あまつさえ鷲章旗のひとつはコノート連隊によってラム酒代として売り飛ばされてしまった!

マルモンの負傷は腕の切断が避けられないと見なされるほど深刻なものだった。よって彼は翌年のロシア遠征に向かうナポレオンに同行できなかった。ナポレオンが悲惨な結果に終わった戦役から戻ってきた時にさえも、彼は完全に回復できていなかった。 しかしマルモンは新たに幕を開ける戦いに自分も参加すると言い張った。 彼はライプツィヒ、バウツェン、ルッツェンの戦いで一軍を率いた。 その後、ライン川から首都へと押し寄せてくる敵の恐るべき大軍に対して、足を踏ん張るようにフランスの領土を防衛した。 そしてこの元帥の人生で最も重大な局面が到来する。

ナポレオンはマルモンとモルティエにパリ防衛を命じた。 しかし、連合国の大軍に対し、わずか数千兵を擁するのみで、いかにしてその命令を達成できようか? それでもジョセフ・ボナパルトがマルモンに彼の任意で降伏に向けた条約締結を結べばよいと言い残してパリを捨てて逃亡するまで、両元帥は抵抗し続けた。 こうして、彼とモルティエは抵抗を解き、戦争の惨事からパリを救う旨に同意した。


ラグーザ公爵は降伏後、約12,000兵とともにエソンヌにて待機した。 ここで彼は、ナポレオンはもはや統治者ではないとする、連合国の宣言および元老院の議定書を受理した。こうして、彼は暫定政府とシュワルツェンベルク公の両方と交渉を開始した。 そして、連合国軍の宿営地内に兵を移動させる旨合意し、 それにより戦争を継続する可能性を一切放棄することとなった。 マルモンは彼の軍隊がノルマンディーへ平和裡に撤退ができるよう明文化し、またナポレオンが連合国の手に落ちた場合における、本人の身柄の自由と名誉ある待遇の保証を得た。

パリの明け渡し(1814年3月31日)

しかし、マルモン指揮下の軍隊が行軍を開始する前に、マクドナル、コーランクールおよびネイがパリへの途上にあるマルモンの本部にやってきた。 彼らはナポレオンの退位宣言書の運び役であり、彼らが属する代表団にマルモンの名前を追加する権限を与えられていた。 彼らの目的は、フランスの国益全般ととりわけ元帥連(ネイが主たる代表を務めた)の両方にとって、可能な限り最上の条件を手に入れること、そして何よりも、皇后の摂政の下でのナポレオンⅡ世の即位について、連合国の承認を得ることにあった。 マルモンは難しい立場に置かれた。彼はフォンテーヌブロー城にて元帥たちの立会いのもと皇帝が退位宣言書に署名した席に呼ばれなかった事を不服とし、彼らとは別の協定が既に進んでいる事を告げた。マクドナルはマルモンに向かって、このような重大な局面において高位の将官の間で内輪もめを起こす事の愚を説くと、3名と共にパリに急行し今まさに開かれようとしている重要な会議に登場して、その協定の執行の停止のため働きかけるよう請願した。マルモンは同意してネイの馬車に足を踏み入れると、部下で他の将軍(2名を除く)同様にこの協定の機密を知らされていたスアム伯爵に、さらなる指示があるまで軍隊を留めておくよう命令した。だが、彼が首都に辿り着くより先に、想定外の出来事によって協定の執行は急がれる事になった。ナポレオンがスアムを面前に呼び出したのである。皇帝の耳に秘密協定の件が漏れたのだろうか?当然ながら、 そんな疑問がスアムの頭に浮かんだ。危機を感じた彼は慌てて内密に協定の事を知らされていた他の将軍らを集めた。そして、戦線を越えて軍隊ごと敵軍に投降する旨即決した。戦意を失っていない兵士たちは、命じられている行動の意味するところついて何も知らず、連合国軍への側面攻撃が意図されているのだろうと推測し、いそいそと進軍した。よって、連合国軍の真っ只中に置かれていると気づいた時の彼らの怒りは、暴動となって表出したが、すぐに鎮静化させられた。

ルイ18世によって、ラグーザ公爵はフランス貴族ならびに親衛隊長に任じられた。 ナポレオンがエルバ島から上陸したとき、かつてのナポレオンの退位劇における彼の役回りにより、裏切り者として非難を受けた。 彼は国王に伴ってゲントへ退避し、その後養生を理由としてエクス・ラ・シャペルの温泉に向かうと、2回目の復位までそこに留まり続けた。

1817年、王の副官であるラグーザ公爵は特命を帯びてリヨンへ派遣された。 その街とグルノーブルの両方で暴動が勃発して以降3ヶ月たっても鎮圧は困難を極めていた。 相当の不満が依然として住民の間でくすぶっていた。 住民が暴動という誤った手段を用いたことについては大目に見つつ、住民を手荒く扱い、容赦ない抑圧を加えていた地方当局に対しては厳格な態度で臨んだことで、マルモンは上手いこと平穏を取り戻した。 その時以来、彼は貴族院議員の職務と、彼が非常に愛好している農業研究を交互に営んでいる。 とりわけ彼は羊毛改良において成果を上げている。

将帥としてのマルモンの技量は一流だったとは言えないが、優れた砲兵士官であるとは万民の認めるところである。一個人として、彼は横柄かつ見栄っ張りと言われていたが、略奪や残酷な振る舞いでその名を汚すことはしなかった。

2019年8月1日木曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (1)




元帥の中で最も優れていたアンドレ・マッセナは1758年5月6日にニースに生誕した。幼くして孤児となり、財産も残されていなかった彼は十分な教育を得ることができなかった。少年だった彼は、商船の船長だった親族を介して船乗りになったが、すぐに海上生活にうんざりして、別の親族が大佐を務める連隊に兵卒として入隊した。

アンドレ・マッセナ
軍務を滞りなく果たしていたアンドレ青年は、そのうちに伍長に昇進した。これよりはるか先、フランス元帥に任命された際に、彼はこの時の昇進の方がずっと満足感を覚えたと述べている。数年のうちに軍曹を経て少尉に昇進したが、中尉には到達できなかった。この王国の軍事力を蝕む要素となっていた旧体制の下では、功労者とはいえ、出自にも後ろ盾にも恵まれていない者には将校の肩章は与えられなかったのである。1789年、14年もの軍隊生活ののちに、希望を失ったマッセナは、失意のうちに退役すると、結婚し、生まれ故郷に居を構えた。だが、精神を突き動かすような革命の波に誘われ、再び軍務へ戻った。 兵卒らは上官を選ぶことを許された。 そして彼は驚くほど急速に昇進を重ね、 1793年には中将に到達した。 またこの時点にて、勇敢さと高いスキルの持ち主だとの評判を確立していた。

これより、彼の軌跡はナポレオンと分かち難いものとなる。彼はイタリア方面での重要な軍事作戦に常に参加しており、この途方もない戦役の間ずっと司令官のナポレオンと上手く協働していたので、ある時ナポレオンは「貴官の軍は他の将軍の軍より強力で、また貴官ひとりの働きぶりは6千の兵士にも匹敵すると言っても差し支えないだろう」との手紙を送っている。オーストリア皇帝との和平締結についてパリへの伝達役に選ばれたマッセナに向けた総裁政府のもてなしぶりは、これ以上ない程であった。

表向きにはデュパ将軍暗殺への報復措置として、実際にはカトリック教会の力を削ぐ目的で、共和国軍はローマを占領した。現地政府はベルティエの監督下のもと数ヶ月の間はとどめ置かれたが、ローマ市民の反発を押さえつけるため、より強固な統制力が必要となり、マッセナが派遣されることになった。しかしながら彼の着任はローマに駐留している軍人たちとって、好ましいものではなかった。フランス軍の将帥の中で、彼以上に兵士たちから不人気な者はいなかった。彼は飽くなき貪欲さで、征服地の住民だけでなく、彼が指揮する兵士たちからも搾取していた。 彼の強欲を満たす対価なしに、衣服も、ワイン一杯も、一口分の食べ物でさえも兵卒たちは手にすることができなかった。 彼はあらゆる連隊に徴収のための手下を配置していた。手下どもが責務を忠実に果たすたびに、兵たちはマッセナへ呪詛の言葉を浴びせていた。不平不満の声は頻繁に上がったが、ほとんど聞き入られなかった。※ 事実、後にナポレオンは、ありていに言えば、マッセナがお気に入りの横領制度を放棄するのであれば二百万フランを払うと提案した。マッセナは金を受け取った上で、再び忌まわしい振る舞いを再開した。これが他の将軍であれば、言語道断であっただろうが、マッセナの軍才ゆえに完全にお咎めなしとなった。ローマへの途上、兵士たちがパンテオンに集結し、例の搾取構造の廃止を訴える宣言書にサインをしていることを知る。そしてマッセナがローマに入城するや否や、彼の鼻先にその宣言書が突きつけられた。この僭越行為に激怒したマッセナは、宣言書に署名した兵たちに翌日ローマを去るよう強制したが、従う者はいなかった。己の威勢がもはや通用しないと自覚したマッセナは、次席の将軍に全ての指揮権を委譲して退任すると、パリに帰還した。

第2次チューリッヒの戦い (1799年9月25日)
ボナパルトがエジプト遠征で不在の間、マッセナは主として東部戦線に駆り出された。彼はドナウ軍およびヘルヴェティア軍の二つの大軍の司令となり、よって彼の指揮範囲はイゼールからデュッセルドルフまでに及んだ。しかし戦況は一転しようとしていた。ロシアのスヴォーロフが他の将軍が指揮するフランス軍をイタリアから一掃せんとする傍らで、マッセナ自身もオーストリアのカール大公に手ひどくあしらわれたため、スイス側からフランスへの敵軍の侵略を許す瀬戸際に追い込まれた。幸運なことに、連合国軍の指揮官の間に意思疎通の齟齬が生じたことで、チューリッヒにてオーストリア=ロシア連合軍の片翼に大打撃を与えることができた。連合国軍の足並みがより揃っていれば、もしくはスヴォーロフの狙いが阻害されることがなければ、ロシアとオーストリアの軍隊はフォンテーヌブローの退位より15年も早くパリ入城を果たしていただろう。

オーストリア軍に投降するマッセナ
ナポレオンの帰還は戦局を様変わりさせる。ナポレオンがアルプス越えを行う一方でマッセナは、陸からはオーストリア軍に包囲され、海からはイギリス海軍によって封鎖されたジェノアの防衛を任じられた。彼は何度か決死の突撃を試み、うち一つは成功を収めたが、悲惨のうちに終わるものもあった。物資が枯渇し、住民の降伏を求める声が高まるに及んで、マッセナはついに投降した。だが、あと数時間持ちこたえれば、マレンゴの勝利者が救援にやってきたという事実を一層の屈辱とともに知ることになる。これより3、4年の間、彼はパリもしくはリュエルにある壮麗な居城で日々を過ごした。この城はかつてリシュリュー枢機卿が建設したもので、マッセナが購入できたのはひとえに略奪で得た富による。共和主義者であった彼は、第一統領の政権には好意を持っておらず、立法院議員となっても、政府の方針に対して賛同するよりも、反対する方が多かった。マッセナは間違いなくボナパルトを嫌悪しており、また彼からも嫌われていた。だが、政治的判断によって両者は互いに何食わぬ顔をしており、やがて自論も遠慮も打ちやったマッセナは、ナポレオンが皇帝即位を宣言した同日に、フランス元帥に任命された。

帝国元帥マッセナ
※しかしながら、ある時皇帝はマッセナを罰したことがあった。彼の指揮権を剥奪するのではなく、悪辣な方法で得た金を法的に取り立てるのでもなく、ナポレオンはマッセナが得た金の中から 2~300万フランを渡すよう、マッセナの金庫番に請求した。その金庫番は皇帝の命令に逆らいたくはなかったが、主人の許可なしにそれをする気になれなかった。かの独裁者は「金を払え。もしあいつがそのつもりなら、いくらでも悪あがきをさせておけ!」と言った。当然のごとくマッセナはみじんも抵抗することなくそれを許した。

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2019年7月31日水曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (2)


カルディエロの戦い(1805年)
1805年のオーストリアとの戦争にて、マッセナはカール大公の侵攻を受けているイタリアの防衛を命じられた。マッセナの戦力は敵のそれよりも勝っていた(少なくともフランス軍自身以外からはそう言われていた)ので、彼は即座に攻勢を取った。10月、ヴェローナにてアディジェ川渡河を敢行すると、サン・ミケーレ村を制圧した。フランス軍によるウルムの攻囲を知った彼はより展開を広げることで、カルディエロ付近に勢力を張っているオーストリア全軍を圧倒しようと決めた。オーストリア兵たちは敬愛する指揮官に率いられ雄々しく戦ったが、マッセナは完全に敵を圧倒した。カール大公は大きな損害を受けて押し返され、イタリアから撤退した。こうしてプレスブルクの和約が締結され、ナポレオンは哀れなフェルディナンド4世からナポリをもぎ取ると、兄ジョゼフに与えた。

1806年、マッセナはジョゼフ・ボナパルトのナポリ行きに、軍を率いて随行した。しかし、カラブリアの堅牢な要塞の住民たちを除き、抵抗するものはほとんどおらず、現地住民らは侵略者に大人しく帰順した。この時の状況についてネルソン卿曰く、「住民らはさほど屈辱を感じていなかった。失うほどの名誉心をもとから持ち合わせていなかったのは誰もが知る話だが。だが、わずかばかりにある面目を失っていた。」

1807年、ナポリのマッセナはポーランドにてロシア軍に対抗するため大陸軍に召集された。アイラウの戦いが終わった直後にオスタオーデに到着すると、即座に右翼に配置され、これまで通り軍才と勇壮さでもって軍を指揮した。この戦役の終盤に、マッセナはリヴォリ公に叙爵され、その地位が格上感をもたらすための大金を与えられた。彼とナポレオンとの間の長きにわたる不仲を知る者らは、このような好意の証を幾分驚きつつ眺めていたが、ナポレオン本人は、彼が想像していた以上に敵対国がしぶといのを見て、優れた指揮官をうまいこと己に縛り付けておきたかった故のことだった。

新たに公爵になったことで、廷臣のうちに数えられるようになったが、マッセナは宮廷生活を唾棄していた。お作法なぞ彼の知ったことではないし、華燭の宴も退屈極まりない。お世辞や追従の類も彼は門外漢であった。ある日、ベルティエを始め大勢の軍人らと狩猟をしていた時、主任狩猟官の銃から放たれた弾丸が運悪くマッセナの左目に当たり、失明させてしまった。マッセナは50もの戦場で己の身を曝し、何頭もの乗馬を撃たれてきたが、これが彼にとって始めての負傷だった。

「悲運は足音もなく去来し、安穏のうちにこそ現れる。 
地揺れが髪一本で首吊りし男を救うこともあろう。」

1809年の戦役中、マッセナはプファフェンハウゼンにてオーストリア軍の側面を陥落させるという輝かしい戦果を挙げた。 ランツフートとエックミュールでは、皇帝本軍を見事に支援した。 だが何よりも彼が持ち前の豪胆さを発揮したのは、単独で戦ったエーベルスベルクにおいてである。この強固な砦を備えた村は急峻で岩の多いトラウン川の縁に位置し、そこから川にかけては難攻不落であった。3万以上のオーストリア兵と強固な砲列で村は防衛されており、ただ一つある橋のみが村に通じていたため、フランス軍にとって攻略は一層困難かと思われた。だがしかし、この性急な元帥は 一気呵成に攻めたてると村を奪い取った。その模様はナポレオン本人さえも驚嘆させた。

エーベルスベルクの戦い(1809年)

アスペルンとエスリンクの村は、ドナウ川の岸辺に広がる平野の両端に位置していた。5月21日にオーストリア軍が進軍してきた時には、両村ともフランス軍が押さえており、仏墺双方の間で日没まで続く血なまぐさい戦いが繰り広げられた。翌日、マッセナは小規模の兵力を率いてアスペルンの防衛にあたった。あっという間に村は燃え、あらゆる街路は屍体で埋め尽くされた。市場、教会、尖塔、家屋、街角、燃え盛る廃墟、何もかもが幾度となく奪い合いを繰り返された。マッセナの副官らはみな負傷するか命を落としたが、前線にいたにも関わらず銃撃も砲弾も刃も彼の身に掠ることはなかった。ドナウ川岸のフランス軍が多少なりとも自陣を保てたのは、マッセナの不屈の抗戦に依るところが大きい。彼に与えられた新しい称号エスリンク公(アスペルン公の方が相応しいのだが)は、ナポレオンがマッセナの傑出した働きに感じ入った様を見せつけた。「これぞ我が右腕よ!」マッセナの肩に寄りかかりつつ、ナポレオンはこう言ったものだった。

馬車に乗って指揮をするマッセナ
ドナウ川周辺にフランス軍は40日間踏みとどまっていた。繰り広げられた数多の戦闘の一部を指揮している最中、マッセナの乗馬がバランスを崩し、彼は突如地面へ振り落とされた。 この事故で怪我をしたので、しばらくの間彼は馬に乗ることができなかった。 その後のすべての戦いで、彼は二輪馬車に乗った状態で戦場に現れ軍団を率いた。 怪我の状況が不安視されていたため、激戦の最中だろうと、至る所に医療スタッフを引き連れていた。 弾丸が馬車の方に飛んで来た時の医者たちの慌てふためきぶりをこの老兵は面白がっていた。

このようにして、マッセナはエンゲルスドルフとワグラム、コルノイブルク、シュトッケラウ、シェーングラーバーン、そしてズノイモで連戦した。 ズノイモの戦いは膠着化し、勝利は難しいかと思われた。 ハンガリー人擲弾兵の部隊へ攻勢をかけると決めたマッセナは、馬に乗ると宣言した。 そして馬車を降りた直後、ひとつの砲弾がさっきまで腰掛けていた場所を直撃したのである。

パリに帰還したエスリンク公爵は、彼がとても懇意にしていたジョゼフィーヌが離婚の辱めを受けたことを不愉快に感じた。彼はジョゼフィーヌの優しい気性、才気、そして何よりも、ナポレオンがこの最良の部下に対してしばしば抱く猜疑心を、彼女が常に解きほぐしてくれた事に尊敬の念を抱いていた。以降、彼は以前にも増して、宮廷に姿を現さなくなった。

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2019年7月24日水曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (3)

シウダード・ロドリゴの攻囲戦
(1810年4月〜7月)
ナポレオンから「勝利の申し子」との格別の呼び名をつけられたエスリンク公は、1810年 、「ウェリントンを海に追い落とす」任務を命じられた。 彼はイベリア半島でのフランス軍の巻き返しを目的として、8万強の軍隊の指揮を執り、ポルトガルにある拠点の一つシウダード・ロドリゴ攻略に向けて戦役を開始した。 そこの守備隊は4,000人弱の兵力しかなかったが、それでも3ヶ月に及ぶ激しい包囲を持ちこたえ続けた。 わずかな兵力で守られた要塞に長いこと手こずっているのは、機嫌を損ねるに十分であったが、マッセナは抜け目ないことに本国に向けては敵の数を実際の3倍で報告していた。彼は自軍の損耗については何も報告していないが、スペイン軍の見積ったところの3,400兵はおそらく大げさな数ではなかろう。これ以外でも、マッセナは自分の名を汚しかねない出来事を報告せずにいた。マッセナは敵の守備隊に名誉ある撤退を約束していたにも関わらず、全員を捕虜にてしまった!彼は住民の自由と財産を保障すると約束していたが、地元の評議員たちを不潔な穴倉に閉じ込め、聖ファン教会の聖職者たちを拘束し、街全体に重い徴収金を課した。

ブサコの戦い(1810年9月27日)
ポルトガルの最重要拠点であるエルバスの隣にあるアルメイダが、次の攻略目標となった。 弾薬庫の爆発により街の守備隊に大ダメージを与えたことで、敵は即座に降伏した。アルメイダの守備隊(ほぼ地元民から構成されていた)がシウダード・ロドリゴのそれと同じくらいに雄々しく戦っていたならば、もっと時間がかかったと思われる。そしてマッセナはウェリントンの追撃にかかる。ウェリントンの兵力はマッセナより劣勢で、しかもその半数はポルトガル兵で、とても当てにできたものではなかった。ウェリントンは勝利の見込みの薄い戦いに兵を投じる余裕はなかった。たとえ勝利を確信したとしても同じ事だった。彼の補給線は遠く離れている一方で、マッセナは手の届く場所にそれを有していたからだ。それゆえウェリントンはゆっくりと、完璧に秩序を保ちつつ、トレス・ヴェドラスに向けて撤退した。一度だけ、マッセナは思い切って撤退するウェリントンを攻撃してきた。ブサコの高地での戦闘で、彼は2千兵を失い、さらに多くの兵を負傷させたが、敵のイギリス兵、ポルトガル兵にはさほどの損害を与えられなかった。撤退する敵軍を大いに勇気付ける戦績を作ってやった後で、マッセナは急いて同じ試みを繰り返すことはなかった。敵はひたすら撤退しているーマッセナは敵軍の船はテージョ川で待機していると予想を立てた。軍を進めていくと、脱落兵に遭遇した。そのポルトガル兵は彼が手に取れる物全て持って軍を離脱していた。マッセナはじきに首都は手に落ちるとの希望的観測に固執していたが、彼の予想を裏切って敵の連合国軍は行軍を停止すると、最悪の形で彼を待ち構えていたのだった!
トレス・ヴェドラス線と対峙するマッセナ
敵軍はマッセナが予想もしない位置に陣取っていた。だがその位置は、優勢の相手から攻撃を受けた場合に、いつでもウェリントンが撤退判断を可能な方向にあった。マッセナはその布陣を偵察すると、ここでの戦闘はブサコの時よりもさらに致命的であると即座に察した。マッセナは憤激した。事実、彼の状況は絶体絶命だった。連合国軍の精鋭部隊がマッセナの側面に張り付いているだけでなく、後方では農民たちが、マッセナが行軍中にした残虐行為に対して報復してやると気炎を上げていた。マッセナの行軍の後には、煙と廃墟が残された。これらは疑いもなく、愛国心に駆られた住民らが逃亡する際に、念入りに糧食がフランス軍の手に落ちないようにした事への報復措置だった。マッセナの手に落ちた脱落者は、殺されるか、死より辛い拷問にあった。フランス軍とスペインをつなぐ連絡線は遮断され、彼の眼の前には敵が隙を見せずに構えており、また小規模ながらも果敢なゲリラの群れが頻繁にフランス兵たちを悩ませた。戦術的な難局、物資の欠乏、病気の蔓延、そのうちウェリントンが補強を得て攻勢を仕掛けてくる恐れ、こうした要因にかられたマッセナは確実な打撃を敵に与えて、可能ならば、己の幸運の星を取り戻そうと切望した。彼はウェリントンを戦線からおびき出そうとしたが無駄に終わる。オポルトへの足がかりを得るため、テージョ川方面に軍を進める気配を見せたが、こうした陽動作戦は全て予測されており、未然にくじかれ成果をほとんどあげられなかった。言葉にならないほどの屈辱を味わいながら、マッセナはサンタレンへの退却を余儀なくされた。そこにて本国に要請した補強を得られるまで、自軍を保全しようとしていた。今や立場が逆転して、ウェリントンがマッセナを追撃していた。サンタレンに逗留して数日のうちに、もし病気の蔓延した生き残りの兵たちを救うならば、スペインまで撤退せねばなら無いと判断するに至る。ウォルター・スコット曰く、

「記憶に残る撤退戦が為されたのは、3月4日であった。マッセナの振る舞いには良い面と悪い面の極端に異なる2点の特徴があった。もし人道性という視点で考慮するならば、マッセナが部下の兵士にさせた悪行について詳らかに記載すると、読者は憤慨のあまり彼の名声を否定したくなるはずだ。俗間の迷信めいて、マッセナは撤退時には悪霊が化けて出ると言われた建物を破壊していた。あたかもフランス軍は、ポルトガルを去るにあたり、彼らが確かにそこにいた証として廃墟のみを後に残してやろうと決心したかのようだった。軍規は箍が外れ、軍隊は醜悪かつ恐ろしい集団と化していた。彼らによる犯罪行為は人類に与えうる恐怖全てを体現していた。だがこのような悪行に目を瞑り、マッセナを軍事指導者としてのみ評価するならば、彼の撤退戦は、彼の名を高めたそれまでの数々の成功と同じくらい、見事なものだったと言って良いだろう。もし彼が幸運の女神の申し子と正しく呼ばれていたとしても、この時の運勢は敵側を利していたことから、彼は女神の恩寵ではなく、自身の軍才によって名声を手にしたと言えよう。ポルトガル北部の荒々しい山間部を通って撤退する間、マッセナは休む間も無くウェリントン卿に追われ続けた。用兵について熟知しており、冷静にそれを行える両指揮官は、まるでチェスのゲームのように、相互に出方を見つつ自軍を動かした。」

マッセナの見事な撤退戦をウェリントン以上に間近に見て賞賛した人物はいなかった。 しかし、その栄光はネイ元帥と分かち合う物であったことを失念してはならない。この英雄は、フランス軍が危険を免れる場所にたどり着くまで、殿軍を指揮し続けた。 そしてフランス軍が完全な破壊を避けられたのは、大いに彼の働きに依る。 マッセナ自身は嫌気がさし、気落ちしていた。ネイと彼は始終諍いを起こしていたのだ。 そして、さほど成果の上がらなかった取るに足らない戦闘ののち、彼は自身の罷免を要求した。

彼の太々しいほど嘘にまみれた戦況報告にも関わらず、皇帝は彼が敵に損耗を少しも与えることなく、優秀な兵隊の半数を失ったことを知った。1812年の間、マッセナは第8師団長としてプロヴァンスに留め置かれた。皇帝の運勢は沈みつつあったが、彼が再出仕を求められることはなかった。 これほどまでにナポレオンはポルトガル戦役の悲惨な結果に立腹していたのである。

ルイ18世の復位により、マッセナは再び軍の指揮権を与えらた。ナポレオンがカンヌに上陸した時、彼はトゥーロンにいた。「公爵」とナポレオンは手紙で呼びかけた。「トゥーロンの城壁にエスリンクの幟を掲げ、我に続け!」マッセナはためらった。彼はボナパルトから受けた侮辱に憤慨しつつも、ブルボン朝からの冷遇に対しても不愉快に感じていた。彼は成り行きを素知らぬ顔で観察し、ボルドー、トゥールーズ、モンペリエ、そしてその他多くの街で三色旗が掲げられた模様を見て(つまりブルボンの旗色が悪くなったと見て)、それに倣った。

百日天下の間、公爵はナポレオンの軍事行動に何ら関与しなかった。ナポレオンの二度目の退位の後、ルイ18世が帰還するまでの間に、彼はパリの国民衛兵の指揮官に任命された。だがこの時の彼は気乗りしない、曖昧な態度を取っており、王族が再び戻ってくるのを見届けると、現役からの引退を決めた。マッセナは1817年4月4日に死去した。彼の葬儀には大勢が詰め寄せ、盛大なものになった。パリ東墓地[現ペール・ラシェーズ墓地]にある彼の墓石は白大理石で出来ており、『マッセナ』の文字が刻まれている。

セント・ヘレナ島でナポレオンはこう述懐している。「マッセナは卓越した人物だった。炎と戦場の混乱の中にいて、彼は抜きん出て堂々としており立派だった。銃声は彼の思考を研ぎ澄まし、知力と洞察力と 陽気さをもたらした。彼には滅多にない度胸と非凡なる粘り強さが備わっており、彼の才能は危険が最も差し迫った時にこそ発揮されるかと思われた。負けた時にさえ、あたかも勝者であったかのように、常に再度戦いに向かう構えが出来ていた。」ネイ、ランヌ、ミュラのようなヒーローめいた勇敢さを披露する機会はなかったとしても、戦いの趨勢を決する包括的な戦略眼と複雑な集団を組織する能力において、マッセナは彼らだけでなくフランス元帥全員よりも上回っていた。司令官としてのマッセナはナポレオンに次ぐ存在だった。彼の人となりを貶める欠陥は忌まわしいものだった。彼は貪欲にして強欲で、冷酷かつ卑劣だった。

エスリンク公は彼の資産と称号を引き継ぐ息子を残している。
マッセナの息子たち
プロスペロー(左)とフランソワ(右)

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