2020年5月20日水曜日

プロイセン 軍人(10)ヨハン・アドルフ・ティールマン(1765-1824)

ヨハン・アドルフ・ティールマン(Johann Adolf Thielmann )は、ザクセン王国の首都ドレスデン生まれのプロイセン軍人である。1782年にザクセン連隊に入隊し、ライン方面の戦いで活躍し、1806年のイエナの戦いではプロイセン側についた。その後、ザクセンからナポレオン1世の大使として派遣され、ナポレオン1世の熱烈なファンとなり、フランコ・サクソン同盟の実現に尽力した。1807年にはフランス軍に少佐として仕え、同年にはフリードランドで戦い、少将としてザクセンでオーストリア軍と戦った。1812年のロシア遠征では騎兵旅団を指揮し、ボロディノの戦いでの並外れた勇敢さが評価されて男爵に任命された。1813年初頭にトルガウの司令官だった際、対仏連合側と連絡を持ち、ザクセン王からフランスに町を明け渡すよう命じられたとき、司令官を辞任して対仏連合側についた。彼は1814年のフランス侵攻に参加したサクソン軍団の指揮を任された。続いてプロイセン軍に入隊(1815年)し、リニーとヴァーブルの戦いで第三軍団を率い、ワーテルローの勝利に大きく貢献した。

=参考文献=
The New International Encyclopædia(1905)

2020年5月19日火曜日

プロイセン軍人(9)フリードリヒ・ルートヴィヒ、ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯 (1746–1818)


ホーエンローエ侯(Friedrich Ludwig Fürst zu Hohenlohe-Ingelfingen) は1746年に生まれ、1806年のプロイセン戦役において、プロイセン軍の司令官としてナポレオン率いるフランス軍に対抗したことで知られる。 1792年の対仏戦争では師団を指揮し、1793年にはオッペンハイム、ピルマーゼンツ、ホルンバッハの戦いで優秀な成績を収めた。1794年にはカイザースラウテルンで勝利を収め、エムズ川中立線の指揮を執り、1804年にはフランケン公国の総督、ブレスラウの総司令官となった。1805年にプロイセン軍がフランケン地方に接近すると、サーレとトゥリンジアの森の間で軍団を指揮し、1806年の戦争では、ルイ・フェルディナンド王子の指揮下にあった先衛軍を率いてサーフェルトで敗北した。イエナの戦いでフランス軍に負けた後、彼は退却を指揮し、マグデブルクで彼の下に集結したプロイセンの大軍の残党をオーデル川に導いた。しかし、ブリュッヒャー将軍の陣地から遠く離れていたため、両軍は合流できなかった。騎馬隊もなく、歩兵も疲労困憊していたため、1806年10月28日、プレンツラウで17,000人の兵力で降伏することを決意した。 その後1818年2月に死去した。

2020年5月18日月曜日

プロイセン軍人(8)クライスト・フォン・ノレンドルフ(1762 – 1823)


フリードリヒ・エミール・フェルディナンド・ハインリッヒ・グラフ・クライスト・フォン・ノレンドルフ(Friedrich Emil Ferdinand Heinrich Graf Kleist von Nollendorf )は、1762年にベルリンで生まれ、1778年の戦いに従軍し、その勇気と軍事的才能によって出世し、1803年にはプロイセン国王への報告役を務める副将に任命された。シルの蜂起の後、ベルリンの司令官に任命されたが、これは当時は才能と技術が必要なポストと見なされていた。1812年のロシア遠征では、クライストはナポレオンの大陸軍の予備軍であるプロイセンの軍団の一つ指揮した。1813年5月20日のバウツェンの戦いでは傑出した活躍を見せ、その後の休戦協定を締結した全権交渉者の一人となった。ドレスデンの戦い(8月26日)でナポレオンに負けて、対仏連合国軍がドレスデンからボヘミアへの撤退を余儀なくされると、クライストは撤退に従ったが、フランス軍のヴァンダム将軍率いる4万の兵力にクルムで追いつかれた。クライストは軍を降伏させるか、生死を賭けた戦いをするしかなかった。彼は大胆な策を取ることにして、山からヴァンダムの背面に身を投じ(8月30日)、ノレンドルフの村で勝利を収めた。彼の成功により、ナポレオンに押されていた連合国軍を救うことができた。その後、クライストはノレンドルフの名で知られるようになった。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収めた。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収め、3月29日のクレーでの交戦では、旅団を率いて自ら直接攻撃を行った。1821年に死去。

The British Cyclopedia of Biography: Containing the Lives of Distinguished Men of All Ages and Countries, with Portraits, Residences, Autographs, and Monuments, 第 2 巻

2020年5月17日日曜日

プロイセン軍人(7)カール・フォン・グロルマン(1777-1843)



カール・ウィルヘルム・ゲオルグ・フォン・グロルマン(KARL WILHELM GEORG VON GROLMANN)はプロイセンの軍人で、1777年7月30日にベルリンで生まれた。13歳で歩兵連隊に入隊し、1795年には旗手、1797年には少尉、1804年には中尉、1805年には大尉補となった。下士官としてシャルンホルストの側近となった彼は、1806年のドイツ戦役以前より、その精力的で大胆不敵な性格で知られ、イエナの戦いからティルシットの和平に至るまで参謀として従軍し、戦功により少佐の称号を得た。ティルジットの和約とプロイセンの崩壊後は、軍の再編成(1809年)でシャルンホルストの助手の一人として活躍し、トゥゲントブント(※1)に参加し、フェルディナント・フォン・シルの失敗に終わった蜂起(※2)に参加した後、オーストリア軍に参謀少佐として入隊した。その後、ナポレオンとの戦いでスペイン軍を助けるためにカディスに渡り、1810年にはヴィクトル元帥との戦いで義勇兵を率いて同港を防衛した。アルブエラの戦い、サグントゥムの戦い、バレンシアの戦いに参加し、そこで降伏して捕虜となった。しかし、すぐにスイスに逃れ、1813年の初めに参謀本部の少佐としてプロイセンに戻った。1813年の戦役では、ドルフス大佐とクライスト将軍の下でよい働きをし、またロシア軍のバラクライ・ド・トーリー将軍の司令部付として派遣された。クルムの戦いではクラインストとともに勝利に貢献し、ライプツィヒの戦いでは重傷から回復して出陣した。1814年のフランスでの戦いでは目立った活躍をし、その後少将に任命された。そして、ブリュッヒャー元帥の補給担当将軍となり、1815年のワーテルローの戦いでのプロイセン軍の指揮において、ブリュッヒャー、グナイゼナウに次いで、グロルマンは最も大きな役割を果たした。1815年6 月18 日のワーテルローの戦いの最終局面、プロイセン軍内でウェリントン軍の支援に向かうべきか意見が割れた際、グロルマンは積極的に同意した。プロイセン軍がワーテルローに近づくにつれ、ブリュッヒャーとグナイゼナウは一瞬ためらいを見せたものの、グロルマンが自ら前進命令を出すことで戦況を変えたと言われる。1815年の和平後、グロルマンは陸軍省と参謀本部で重要な地位を得た。彼の最後の公務はポーランドでの総司令官職で、実質的にはポーゼン県の行政管理だった。1837年に歩兵大将に昇進し、1843年6月1日にポーゼンで死去した。彼の二人の息子はプロイセン軍の将軍となった。プロイセン第18歩兵連隊は彼の名を冠している。
フォン・グロルマン将軍は、フォン・ダミッツの『Gesch. des Feldzugs 1815』(ベルリン、1837-1838刊)や『Gesch. des Feldzugs 1814 in Frankreich』(ベルリン、1842-1843刊)などの多くの書物を監修し、世に出した。

※1ナポレオンに敗北したプロイセンの国民精神を復活させるために、1808年6月に設立された準フリーメーソンの秘密結社
※2プロイセン軍のシル少佐率いる義勇軍「シル猟兵団」らによる、シュトラールズンドにおけるナポレオンの支配に対する武装蜂起。鎮圧されシルは戦死し、また部下の士官らは処刑された。

=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 12巻(1911)

2020年5月16日土曜日

プロイセン軍人(6)ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(1759–1830)


ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(Johan DAVID LUDWIG YORCK VON WARTENBURG)は、1772年にプロイセン軍に入隊したが、7年間の務めたのちに、不服従のため罷免された。3年後にネーデルラント軍に入隊し、1783年から84年にかけての東インド諸島に向けた遠征に大尉として参加した。1785年にプロイセンに戻ったヨルクは、フリードリヒ大王の死後、ようやく軍務に復帰し、1794年にはポーランド戦役に参加し、特にシュチェコチニの戦いで活躍した。その5年後、ヨルクは軽歩兵連隊の指揮官として名を馳せ始め、散兵の訓練に力を入れた最初の一人となった。 1805年には歩兵旅団の指揮官に任命され、悲惨に終わったイエナの戦いでは、後衛の指揮官として特にアルテンザウンで目立った活躍をした。 彼はリューベックにおけるブルヒャー軍団の最後の戦いで重傷を負い、捕虜となった。ティルジットの和約後に始まったプロイセン軍の再編成では、ヨルクはその中心人物の一人となった。最初は西プロイセン旅団長、後に軽歩兵総監を務め、最終的にはグラーヴェルト将軍の副官に任命された。彼は1812年のロシア遠征にてフランスによりプロイセンが派遣させられた予備軍団の指揮官に任じられていた。グラーヴェルトはフランスとの同盟を公然と支持し、ヨルクは熱烈な愛国者であったため両者は衝突したが、間もなくグラーヴェルトは引退し、ヨルクが指揮を執ることになった。リガへの進撃では、ロシアのシュテインゲル将軍に対抗して、彼は一連の戦闘で優れた技術を発揮し、敵軍をリガへの撤退に追い込んだ。この戦役を通して、彼はロシア側の将軍たちから何度も誘いを受けた。ずっと拒否していたが、やがてフランス軍が劣勢にあると気づく。彼の直属のフランス軍上官であるマクドナルド元帥は、ロシアのディーピッチュ軍団の前から退却し、ヨルクは孤立していた。軍人としての彼の義務は包囲を突破することにあったが、プロイセン愛国者としての彼の立場はより複雑だった。ドイツ解放戦争を引き起こすに有利なタイミングを見計らわねばならず、下士官たちの熱意がどうであれ、ヨルクは勝手なことをしては自分の首が無事で済むと思っていなかった。12月30日、将軍は決心した。タウロゲン条約をロシア軍と締結してプロイセン軍を「中立化」したのである。このニュースはプロイセン国内で熱狂を引き起こしたが、プロイセン政府はまだ表面的には素知らぬ風で、ヨルクを指揮官から停職処分とし軍法会議を待つ旨命令を発した。ロシアのディーピッチュはヨルクを自分の陣地を通過させることを拒否したが、カリシュ条約によってプロイセンが対仏連合側につくことが確定したため、ヨルクは最終的に無罪放免となった。 ヨルクのこの行動はプロイセンの歴史の転換点となった。彼の元に古参兵たちが東プロイセン軍の核となり、ヨルク自身が公にの軍の司令官として宣言することで決定的な解放戦争への一歩を踏み出したのである。1813年3月17日、ヨルクは愛国心に溢れた歓喜の中、ベルリンに入国した。同じ日にプロイセン国王はフランスに宣戦布告した。1813年から14年の間、ヨルクは古参兵を率いて大成功を収めた。バウツェンの戦いの後のブリュッヒャーの退却を援護し、カツバッハの戦いでは決定的な役割を果たした。ライプツィヒに向けて進軍する間、10月4日のワルテンブルクの戦いで勝利し、10月18日の大決戦にも参加した。フランス戦役では、ヨルクはモンミライユの戦いでロシアのサッケン軍団を壊滅から救い、ランの戦いで勝利に決定的な役割を果たした。パリ攻撃が彼の最後の戦いだった。 1815年の戦いでは、ブリュッヒャー軍には年長者は一人も採用されなかった。これは、プロイセンの将軍の中で最も優秀なグナイゼナウが、ブリュッヒャーが戦死した際に、気兼ねすることなく指揮を執ることができるようにするための措置であった。ヨルクはプロイセンの予備軍に任命されたが、自分が必要とされなくなったと感じ、軍を退役した。プロイセン国王はしばらく辞表を受け取らず、1821年にヨルクを陸軍元帥に任命した。彼は1814年にヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵になっていた。彼の人生の残りを、国王から贈られたクラインエールズの所有地で過ごした。彼は1830年10月4日にそこで死亡した。1855年にベルリンで彼の像(ラウチ作)が建立される。

2020年5月15日金曜日

プロイセン軍人(5)カール・フライヘル・フォン・ミュフリング(1775-1851)



フリードリヒ・カール・フェルディナンド・フライヘル・フォン・ミュフリング( FRIEDRICH KARL FERDINAND Freiherr von MÜFFLING)は1775年6月12日に生まれ、1790年にプロイセン軍に入隊する。1799年にはライプツィガー中尉が編集した軍事辞典に寄稿し、1802年から1803年の冬には下士官として、新たに結成された参謀本部の 「主計大尉」に任命された。ミュフリングは天文学者F.X.フォン・ザッハ(1754-1832)の下で測量を任されることになった。1805年、フランスとの戦争に備えて軍隊が戦時体制に入ると、ミュフリングは大尉に昇進し、フォン・ワルテンスレーベン将軍、ホーエンローエ公、ブリュッヒャー将軍の参謀に相次いで任命された。1806年には、ザクセン・ワイマール公、ホーエンローエとブリュッヒャーに仕え、ブリュッヒャー軍団と共にフランス軍の捕虜となった後、ワイマール公の下で民政官となった。1813年に解放戦争が勃発すると軍に復帰し、シレジア軍の司令部に配属された。ミュフリングの仕事ぶりと堅実な判断力は高く評価された。とはいえ彼とグナイゼナウの間には性格の違いからしばしば摩擦が生じた。とりわけ彼がイエナの戦いの大敗北の原因となった古風な「地形学」的アプローチを行なう戦略家の代表であったことも摩擦の要因となった。パリ占領から百日戦争までの間、ミュフリングはロシアのバークレイ・ド・トーリー将軍とクライスト・フォン・ノレンドルフ将軍の参謀長を務めた。ワーテルローの戦いではウェリントン公爵の司令部付として派遣され、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍との連絡役となった。ナポレオンの再退位後は、フランス占領軍の参謀を務め、数ヶ月間はパリの軍事総督を務めた。ライン川では測量の仕事に従事し、フリードリヒ・ウィルヘルム3世の外交使節団にも採用された。1821年にはベルリンの参謀長に就任した。彼は軍事訓練を脇に置いて地形学の仕事に没頭していたと非難されたが、参謀システムの組織化をやりとげ、かつ精緻で実用的な測量成果をあげたので、無駄にはならなかった。1829年、ロシアとトルコの和平交渉に関連して、コンスタンチノープルとサンクトペテルブルクを訪問した。その後もプロイセンの民政と軍事両方で功績を残した。1838年から1847年まではベルリンの総督を務めたが、健康を害して引退し、1851年1月16日にベルリン近郊のリングホーフェンの自宅で亡くなった。

彼は、以下のような、軍事や歴史に関する重要な作品を執筆した。

・『軍隊 1806年』(ワイマール、1807年)
・『オーストリアの将軍たちのための、カール公の高等戦争術の原則』
・『軍隊および1806 年のホーエンローエ軍の出来事についてのリューレ・フォン・リリエンシュテルンの報告書について』
・『1813年の休戦までのプロイセン・ロシア戦線』(ベルリン、1813年)
・『1815 年のウェリントンとブリュヒャーの下での従軍記』(シュトゥットガルト、1817 年)
・『1813 年から 1814 年の軍事的展開:休戦終了からパリ征服までのシレジア軍の戦役』(ベルリン、1824 年)
・『1813 年から 1815 年の主要な作戦と戦闘についての考察』(ベルリン、1825 年)(原題:Armee 1806)
・『ナポレオンの戦略 1813 年』(ベルリン、1827 年)
・『ライン川下流のローマ街道に関する小稿(』ベルリン、1834年)

ミュフリングは、地図の暈おうの発明者でもある。彼の回想録『我が人生より』は1851年にベルリンで出版された。

=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 18 巻(1911)

2020年5月12日火曜日

プロイセン軍人(4)ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(1757-1807)

ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(Heinrich von Bülow)は1770年にブランデンベルクのファルケンベルクで生まれた。彼の兄はプロイセン軍人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ビューローである。彼はベルリンの陸軍士官学校で学び、その後プロイセン軍に入隊する。だがすぐに退役し、ポリビウス、タキトゥス、J.J.ルソーの研究に没頭し、その後、ネーデルラントに短期間赴任した。その後、劇場の設立に着手したが、すぐにその計画を断念し、アメリカを訪問した。金欠ながらも経験を蓄えた彼は帰国すると著作に取り掛かる。彼の最初の仕事は「戦争術」に関するもので、その中で彼は並々ならぬ才能を発揮した。貨幣に関する本を書き、ムンゴ・パークの旅行記を翻訳し、1801年には1800年の戦役についての本を出版した。1804年には『近代戦争論』(Lehrsätze des neuern Krieges)を書き、他にもいくつかの兵学書を書いているが、その中に『あるべき近代の戦術』がある。前者では、彼は戦略と戦術の区別を指摘し、三角形をすべての軍事作戦の基礎としている。彼のこの原則は、ジョミニをはじめとするフランスの著者たちによって反論されている。1805年の戦争史を書いたことで、ロシアとオーストリア政府の要請でプロイセンにて投獄された。1807年、神経性の熱病でリガの牢獄で死去。スヴェーデンボリの信奉者であった。

=参考文献=
Encyclopædia Americana: A Popular Dictionary of Arts, Sciences, Literature, History, Politics, and Biography, Brought Down to the Present Time; Including a Copious Collection of Original Articles in American Biography; on the Basis of the Seventh Edition of the German Conversations-Lexicon, 第 2 巻

2020年5月11日月曜日

プロイセン軍人(3)フリードリヒ・ヴィルヘルム・ビューロー(1755-1816)


フリードリヒ・ヴィルヘルム・ビューロー(Bülow, Friedrich Wilhelm Bülow)は1755年、父の所有するアルトマルクのファルケンブルクで生まれた。14歳でプロイセン軍に入隊し、 1793年にはプロイセンのルイ・フェルディナンド王子の監督者に任命され、ライン川の戦いでは優秀な戦績を収めた。1795年には大隊指揮官に任じられた。1806年の戦争ではトルン包囲戦で中佐を務めるなど、様々な戦いで活躍した。1808年には少将と旅団長に任命された。1813年にフランスとの戦争が勃発すると、4月5日にメッケルンで最初の戦いを成功させ、5月2日にはハレを奪取し、6月4日にはルッカウで勝利してベルリンを危機から守った。休戦後、スウェーデン王太子ベルナドットの下で第三軍団を指揮し、8月23日のグロスベーレンの記念すべき勝利でベルリンを救った。彼はデネヴィッツの大勝利によってベルリンを三度救い出した。この功績により、プロイセン国王は彼を大鉄十字章を数少ない受賞者とした。ドイツ戦役の終了後、彼にデンネヴィッツ伯爵の称号を与え、この称号は彼の子孫にも同じように継承されるようにした。10月19日のライプツィヒの戦いでは、彼は重要な役割を果たした。彼はヴェストファーレン、オランダ、ベルギー、ライン川、ラン、ソワソンとラフェールで際立った働きを見せた。和平後は東プロイセンとリトアニアで総司令官を務めた。1815年の開戦時には、プロイセン軍第4師団指揮官に就任し、ワーテルローの勝利に大きく貢献したため、国王から第15連隊の指揮を任された。 1816年1月11日、ケーニヒスベルクの駐留軍指揮官に復帰し、1816年2月25日に死去した。ビューローは市民としても人としても高く評価されていた。彼は若い頃から科学的に兵学を学び、軍人としての道を歩んでいた間も、絶え間ない努力を続けていました。また、文学と芸術にも熱心であった。音楽は特に彼を魅了し、多くのモテット、ミサ曲、第51詩篇と第100詩篇を作曲した。

=参考文献=
Encyclopædia Americana: A Popular Dictionary of Arts, Sciences, Literature, History, Politics, and Biography, Brought Down to the Present Time; Including a Copious Collection of Original Articles in American Biography; on the Basis of the Seventh Edition of the German Conversations-Lexicon, 第 2 巻(1840年刊)

2020年5月10日日曜日

プロイセン軍人(2)ヘルマン・フォン・ボイエン(1771 – 1848)



ヘルマン・フォン・ボイエン(Hermann von Boyen)は、プロイセンの歩兵大将と陸軍大臣を務めた。またボイエンは「ラントヴェーア」の最初の提案者であり、それまで使用されていたものよりも穏当な規律システムを提案した。また、ティルジット和約後の軍の再編では、シャルンホルスト将軍とうまく協働した。1812年のロシア戦役でナポレオンに仕えることを嫌った彼は、祖国を離れてロシアに渡った。しかし、プロイセン国王がロシアと共闘としてフランスと戦う意思を示すと、彼は急いでかつての仲間と再会し、ビューロー軍団の参謀長として、1813年と1814年のほとんどの重要な戦いに参加した。パリ講和の後、陸軍大臣に任命され1819年まで務めたが、国王がラントヴェーアについて講じた措置が、当初それが組織された際の原則から外れた事に不満を感じ、職を辞して引退する。年金を得て引退した彼は、在任中には得られなかった望みを達成する。ボイエンは幅広い教養を持った人物で、21年の間、余暇の多くを著作に費やした。彼はシャルンホルスト将軍についての解説書(Beitrdge zur Kentniss des Generals von Scharnhorst)と、ハウグヴィッツの回想録への返答を書いた。プロイセン人の間では、「Der Preussen Losung 」と題された国民的な歌の作者としてよく知られている。1841年フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位したとき、ボイエンは主君の招待を受け入れ、歩兵大将の地位を得て軍隊に復帰し、その後すぐに再び陸軍大臣を担当することになった。


=参考文献=
Encyclopædia americana: a popular dictionary of arts, sciences, literature, history, politics and biography, 第 14 巻(1850年刊)

2020年5月9日土曜日

プロイセン軍(1)クリスティアン・フォン・マッセンバッハ(1758-1827)

クリスチャン・カール・アウグスト・ルードヴィッヒ・フォン・マッセンバッハ(CHRISTIAN KARL AUGUST LUDWIG VON MASSENBACH)は、1758年4月16日にシュマルカルデンで生まれた。ハイルブロンとシュトゥットガルトで教育を受け、主に数学を専攻した。1778年にヴュルテンベルク軍の将校となり、1782年にはそこを去ってプロイセン王国のフリードリヒ大王に仕えた。彼の階級の給料は少なかった上に、主計総監付参謀に任命されたことにより、2頭の馬を飼う必要があったため、余暇に数学の学校の本を書いてその費用を捻出した。彼は戦争に係る技能習得をないがしろにしていたが、このように早期に彼は理論家としてだけでなく、数学者として頭角を表そうとしていた。若いルイ王子の数学教師の役を務めた後、彼はオランダ遠征軍に加えられ、プール・ル・メリット勲章を授けられた。プロイセンに戻った彼は軍事工学校で数学の教師になった。1792年、教職を辞し、参謀将校としてフランスとの戦いに向かう。彼のヴァルミーの戦いにおける地形工学者としての働きに対して、ミンデンの聖職禄が授与された。1793年と1794年の戦役に従軍した後、彼はその際の軍事的な出来事に関する多くの回想録を出版した。しかし、彼は主に、当時放置されていたプロイセン軍参謀本部の再編成の計画を練ることに専念しており、彼の提案の多くは受け入れられた。ブロンサルト・フォン・シェレンドルフは著作『参謀本部の任務』の中で、マッセンバッハの仕事について次のように述べている。「彼が提案し、実行した組織は、1806年から1807年の大惨事【訳注:フランス軍に大敗したこと】にも耐え、現在も元の大枠を守ったまま存在している。」あの大敗の責任がどれほどマッセンバッハの言説に起因するかを考えれば、これは結構な賛辞と受け止められよう。彼の努力により参謀システムに、形式的なものより大きな利点がもたらされる。それは参謀将校に一貫した忍耐強い個人努力を求める伝統を定着させたことである。しかし大佐になったマッセンバッハが教えた実際の教義を要約すると、おかしなまでに過剰に「配置」を強調していた。 彼の主張によると、参謀将校の役割とは平時からケースに応じた作戦計画を用意しておくことにあった。作戦の立案は戦時に軍の指揮官に課せられるものであったため、この考えは責任ある立場の将官たちからは嘲笑された。また、特定の政治的状況に合わせた作戦計画案についての回想録は、非常に不必要な詳細で作成されていた。注目すべきは、彼が提案した作戦計画のどれもがフランスを敵と見なしていなかったことである。

1805年、ナポレオンとの戦いの脅威がプロイセン王国に迫ってきたが、マッセンバッハはこれに強く反対していた。彼はホーエンローエ公の主計総監(参謀長)として仕えることになったが、すぐにホーエンローエ公より上位に立って影響力を及ぼすようになる。アウステルリッツの戦いでフランス側が勝利を収めたことにより、普仏間の戦いは一時的に回避されたが、1806年10月に本格的に戦争が勃発した。1806年のマッセンバッハの采配は全プロイセン軍の動きを鈍化させる。

イエナ=アウエルシュタットの戦いで敗北し、ホーエンローエ公軍の降伏が交渉された。背信行為として咎める声も上がり、マッセンバッハは軍法会議にかけられそうになったが、ホーエンローエ公がマッセンバッハの行動の全責任を総司令官として自らに課したたために未然に終わった。マッセンバッハはその後、ポーゼン県に蟄居し、小冊子や回想録などの執筆に没頭した。領地がワルシャワ大公国に移った後もプロイセンの領内に留まり、解放戦争が始まると、プロイセン軍に参謀として士官しようと熱心に懇願した。ナポレオンの没落後、ヴュルテンベルクの政治に関わり、シュトゥットガルトとハイデルベルクから追放された後、すぐにフランクフルトで逮捕され、プロイセン当局に引き渡され、回想録で国家機密を公表したという疑惑から14年間の禁固刑に処せられた。彼は1826年まで獄中にいたが、フリードリヒ・ウィルヘルム3世が事故から回復した際に、恩赦を受けて解放された。彼は1827年11月21日にポーゼンのビアロコシュツにある所有地で死去した。

=参考文献=
Encyclopædia Britannica, Volume 17(1911年刊)

2020年5月5日火曜日

1-23-a ピエール・オージュロー


ピエール=フランソワ=シャルル・オージェローは、パリ郊外の貧しい果樹農家の息子として、1757年11月11日【10月21日という説もある】に生まれた。幼い頃から武術に傾倒していた彼は、ナポリ軍に入隊したが、誇れるような成果はほとんどなく、1787年にはまだ二等兵だった。出世の見込みがほとんどないことを知って、嫌気がさして軍を去った彼は、ナポリに住みつつ、大得意の剣術を教えながら生計を立てていた。しかし、1792年、革命への同調を疑われたフランス人は皆ナポリ領を追われることになったため、オージュローは祖国に戻り、南部共和国軍の志願兵となった。

通常、35歳にして一般的な兵士よりも高い階級に達していない者が、その職業で成功しようとすれば、確かに楽観的だと見なされるだろう。しかし、オージェローは優れた洞察力に恵まれていたわけではないが、フランスとヨーロッパの君主国との間に大戦争が迫っていることを予感せずにはいられず、その中で大活躍しようと決意した。彼はすぐさま彼のその後のキャリアを特徴づける、激烈な大胆さを発揮する機会に恵まれた。「敵はどこにいるのか」さえ知れれば、彼は相手の数が多かろうが、自分の位置が不利であることすら気にせず、猛牛のように敵地に向かって突進した。彼はそれゆえに、彼が熱望していた名声と、それによる揺るぎない報酬を手に入れた。 1794年には准将になり、さらに2年後には中将になったのである!4年という短い期間で、一番下からほぼ最高位まで昇進したのは、並々ならぬ功労と比類なき幸運の両方のおかげに違いない。

1796年にイタリア方面軍に加わった後のオージェロー将軍の敢闘ぶりを列記すると、2、3、押し返しがあったぐらいで、ほとんど成功続きと言ってよかった。うち最も印象的なものを紹介する。

カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
2日間の強行軍の後の、オージュローの最初の任務は、ミレシモの前哨基地を攻撃し、それを守る要塞を制圧し、2,000兵でもってしてロヴェラをオーストリア軍の本隊から切り離すことだった。彼はすぐにセヴァの要塞陣地を襲撃し、アルバとカサーレを抑えた後、ロディ橋を大勢で守備している敵軍に遭遇した。その橋を通過しようとしたら敵からの砲弾の雨を覚悟せねばならなかった。彼は他の将校と一緒に前に向かって突撃した。軍隊はそれに続き、こうして橋の奪還作戦が開始された。オージュローの後方を指揮していた将校たちが反撃を受けたため、彼は決死の覚悟でカスティリオーネの敵陣地を急襲した。血みどろのせめぎ合いを経て、彼はうまくやり遂げた。オージュローがカスティリオーネを得たことでフランス軍は優位に立つことができ、やがてその地名にちなむ公爵の称号が彼に授けられる。彼はプリモラーノ、カヴェロ、ポルト・レガーニョ、聖ジョルジオ砦を奪取し、優勢のオーストリア軍の隊列をバッサーノにて壊滅的な撤退に追い込んだ。短期間だが重大なこの戦役における、オージュローの最後の活躍はアルコレの戦いであった。フランス軍の戦列が敵の凄まじい砲撃により崩れかけているのを察知した彼は、旗手から軍旗を奪い取り、高く掲げて前進して見せることで兵士らを鼓舞して後に続かせ、ナポレオンの勝利に大きく貢献したのである。
 アルコレの戦いでのオージュロー
   (1796年11月15 日〜17日)

彼の勇敢さは確かに立派だったものの、彼の恥知らずな貪婪さがそれに汚点を与えていた。彼はこの戦役で莫大な富を得たが、その大部分は、彼が無情にも3時間の略奪に晒したルーゴの町で得たものだった。彼の金に対する貪欲な渇望は相当だったので、この略奪者だらけの軍隊においてさえ、こんな言い回しが生まれたぐらいだ。金のない兵士がいると、同僚たちは決まって「お主はオージュローの火かき棒を持ってないのかね?」と囃した。これは、彼らの将軍が隅々まで隠れた宝を探し回っていた事を表している。多くの点で、我々が恐れる通り、オージュローは革命期の大悪党の一人とみなされている。彼は民家同様に教会も略奪し、最低でも無力で罪のない人々への暴行という重い罪を働いた事で非難されている。不運なルーゴの町が略奪された時に、逸脱行為の多くが行われたのは確かだ。何よりも人間性を持つ者には信じがたいことに、「この将軍の確かな承認によって、妻や娘たちは夫や父親の目の前で暴行された」という。

1797年の始め、ナポレオンによってオージェローはパリに派遣された。マントゥア陥落前に獲得した数々の戦利品を政府に献呈するというのがパリ派遣の口実だったが、実際のところ、三人の総裁たちが他の二人の総裁を排除しようとしており、その秘密の企てへの支援が本当の目的だった。軍人としてのオージュローの名声は当然高く、総司令官の手紙の中でも非常に褒め称えられていたので、総裁たちは彼に良い印象を持った。総裁たちは豪胆で忠実な男、分別があるというより、血の気が多い男を必要とており、彼らはこの恐れ知らずの、無節操な軍人にそれを見出した。オージュローはそうすることで己の得する所の見当がつけば、なんであろうと「権力者」の下で働くのに躊躇いはなかった。更に総裁たちは、オージュローの鈍い思考力では、とても権力を手にすることはできないと思えたので、より道具として適任と判断したのだった。

オージュローの置かれた状況として、計画を漏らせば、必然的にそれを頓挫させることになるので、細心の注意が必要とされた。普段と違う何かが企てられているのではないかという不確かな疑念がすでに存在していたが、オージュローがパリ防衛隊の指揮官に任命されたことで、その疑念は増した。今やすべての視線が彼に注がれ、皆あらゆる手を使って彼の口から何か聞き出そうとした。とある元老院議員は議会にて、オージュローにお世辞ついでに鎌をかけた。彼は政府の意図をあれこれ推測して言ってみて、首都の安全が懸念されるものの、オージュローのような愛国心のある軍人がいれば何も危害が及ばないと確信していると告げた。この鎌かけは実に巧妙だったが、この狡猾な軍人からは「パリが俺を恐れる必要はない。俺もパリ生まれだ!」とのつっけんどんな返答以外に得るものはなかった。決行の日(フリュクティドール18日)、オージュローは武装した部隊の先頭に立って立法府の会議場に突入すると、名高くも目障りな軍人であるピシュグリュの肩から肩章をもぎ取り、彼と他の約150人の議員を逮捕して、議会をめちゃくちゃにした。こうして勝利を収めた側から、オージュローは祖国の救世主と称されたが、彼はそれ以上に実利のある報酬を期待していた。彼の雇い主は、彼がどんなに才能に欠けていようとも、主義主張と野心があることに気がついた。総裁らがオージュローを一員とするのを拒んだところ、彼は抗議し、更には脅迫という手段に出た。総裁らは身の危険を感じたが、運が良いことに、やがて彼がライン=モーゼル軍の司令官職を引き受けてくれたことで落着した。

フリュクティドール18日のクーデター
(1797年9月4日)
この見栄えはするものの、実働を伴わない役についていた間、オージェローは生活様式を非常に華美なものにしており、一層服装や身だしなみを飾り立てていた。こうした華やかさと彼の作法や習慣の下品さとのコントラストは際立っており、滑稽ともいえるものであった。やがて総裁たちはオージュローを恐れ始める。シュヴァーベンに革命を起こすとの彼からの馬鹿げた報告を耳にしたことで、総裁たちは自分たちをひどく煩わしかねないポストからオージュローを穏便に追い出そうとした。総裁政府は、ポルトガルに向けた遠征の指揮を執るという口実で、彼を第10師団(在ペルピニャン)の司令官に任命した。このようにして、フリュクティドール将軍(以降そう呼ばれるようなった)は、かつてその道具として仕えた連中からカモにされたのである。

1799年、上ガロンヌの地方政府により五百人会の代表に選出されたので、オージュローは益体もない司令官職を放り出すと、パリへ急行した。ボナパルトはすでにエジプトから帰還していた。ジュールダンは彼の有名な「祖国は危機にあり!」の決意表明をしており、オージュローも彼に倣っていた。彼はまたサン=シュルピス教会でのイタリア方面およびエジプト遠征の英雄を讃える催しにも顔を出さなかった。だがジュールダンは孤立しており、ベルナドットでさえも沈黙を守っていた。ミュラ、ランヌ、ベルティエ、ルフェーブル、ベシエール、そしてイタリア方面軍の主要な指揮官たちのほとんどが旧主の元に集結していた。もはや一刻の猶予もない。ボナパルトの元に駆けつけると、抱擁し、優しく咎めるような声音でこう言った。「なんと!あんたの可愛いオージュローをお忘れですかい?」

オージュローはこのタイミングのいい転向のおかげで、いくつかの重要な指揮権を与えられ、帝国が成立した後は、元帥杖と公爵の称号を授けられた。1805年にはオーストリア、1806年にはプロイセンを相手に活躍した。イエナの戦いでは、それまでの多くの戦場で勝利に寄与した猛勇ぶりだけでなく、誰にも負けない機動力を発揮し、彼の評判をさらに高めた。血みどろとなったアイラウの戦いでの彼は、あたかも騎士道の時代を思い起こさせるようなヒロイズムを見せた。戦いが始まったとき、彼は熱病で重度の体調不良に陥り、まっすぐに座ることができなかった。彼は従者を呼ぶと、彼を馬に乗せて、鞍に体を固定するように命じた。 こうしてオージュローは自分の軍団を招集すると、激戦にすぐさま身を投じたのである! 彼は腕に傷を負って、後退せざるを得なくなった結果、彼の部下は混乱に陥り、深刻な被害を受けた。彼の体が衰弱していたことは酌量されず、他に類を見ない努力をしたのに賞賛さなかったのは、軍団が敗北したために皇帝の不興を買ったせいだろう。征服の旗を得意げに掲げていたナポレオンは、その戦いが決着がつかなかったことに憤慨し、オージュローに怒りをぶつけた。オージュローは失意のうちに帰国した。

アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)

カスティリオーネ元帥・公爵が主人の寵愛を完全に回復するまでに時間がかかった。しかし、1809年には、サン・シールに取って代わってジェローナの包囲戦を指揮し、強硬な抵抗の末に勝利を収めた。しかし、バルセロナの近くで敗戦し、呼び戻された。その後、2年以上もの間、屈辱的な活動休止状態が続いた。 ロシア遠征の間、彼は第11軍団とともにベルリンに駐屯し、ドイツ戦役ではライプツィヒの戦いにて際立った働きを見せた。

次いでリヨンの防衛を任されたが、これは最も重要な任務であった。ナポレオンの命令は、「貴公の以前に収めた勝利を思い出せ!自分が劣勢にいることは忘れろ!」というものであった。オージェローは、オーストリアのブブナ将軍をジュネーブに退却させたが、ビアンキの堅牢な要塞とヘッセン・ホムブルク公が指揮する数で勝る敵軍の前に身を翻した。4.5万の敵兵はオージュローを追ってリヨンの門まで迫って来た。

この「フリュクティドール将軍」の変わり身の早さについては、前例があるので読者の知るところである。オージュローはここで、自分の血の最後の一滴までリヨンを守るとの決意を表明し、兵士と住民に向けて全力で抵抗するよう促し、ナポレオンへの強い忠誠心を公言した。しかし、事態は予想外の速さで進行する。帝国の運勢は刻一刻と暗転していき、元帥にとっても無関係ではいられなくなった。オージュローは何年もとは言わないまでも何ヶ月かは守るだろう予想されたリヨンを明け渡したのである。なおも彼はヴァランセに後退すると、そこで兵士たちに向けて、「アンリ4世の正統なる後継者にして、全フランス人の敬愛の対象」とのルイ18世を持ち上げる布告を出しした。凋落した皇帝についてはこう述べた。「全フランスが排除したいと願っていた忌まわしき独裁者にして、軍人として死ぬことが出来なかった姑息な臆病者だ!」

この後すぐに、フリュクティドール将軍と元皇帝は、エルバに向かう途中のヴァランセの近くで偶然にも出くわした。二人は抱擁しあったが、前者は明らかにぎこちなく、後者は冷然としていた。「王宮に行くつもりか?」とナポレオンが尋ねた。「ずいぶんと愚かな布告をしたものだな! 私を罵倒したいのか?国民が新君主を支持したのだから 軍隊の義務はそれに倣って ルイ18世万歳と叫ぶのだ、とだけ言えばよかったのではないか?」 それ対して元帥は、彼の旧主の圧政とフランスを破滅させた野心を非難すると、彼は落ちゆく主に背を向けて立ち去った。

オージェローは報酬を受け取るためにパリに急いだ。そして、聖ルイ十字勲章が与えられた。より高い恩恵を受けようと辛抱していた彼は、ルイ16世を偲んで祝われた葬儀で司会を務め、信心深い人々を仰天させた。これを機に、彼はフランス貴族となった。7月、リヨンの国民衛兵駐屯軍のための催しに出席していたオージェローは、「私たちの愛する国王であり父であるルイ18世」との祝辞を述べる役を果たし、その後すぐにノルマンディーの第14師団の司令官に任命された。

オージュローがノルマンディーにて師団とともに駐留している時、ナポレオンのカンヌ上陸の報がもたらされた。彼はナポレオンの布告のうち2つで、自身が公然と裏切り者呼ばわりされているのを知った。カスティリオーネ公爵は沈黙を保った。かつて総裁政府のために働いた彼は、状況の経過をじっくりと窺うことにした。ナポレオンがパリに到着し情勢は決したと見た彼は、兵士たちに布告を発する時が来たと考えた。「皇帝は首都にいるぞ!戦勝の証たるその名前を聞くだけで、敵は駆逐されるだろう。幾ばくかの間、彼は運勢に見放されていた。祖国の幸福のためという崇高な思いから、自分の栄光と帝冠を犠牲にすることがフランスへの義務だと信じていたのである。彼の王権は無効化できるものではなく、彼はそのこの上なく神聖な権利を取り戻しにやって来たのだ。かつて幾たびも諸君を栄光へと導いた不滅の鷲の旗を頭上に掲げ、いま一度進軍せよ。」しかし皇帝は、数ヶ月の間に二人も主君を裏切り、しかもその際に、背信が常であったその時期においてもセンセーションを巻き起こすほどの無礼な布告を行なった人物をもはや信用することはできないと考えた。軍の指揮官にも貴族院の議員にも就けなかったオージェローは、田舎に引きこもることを余儀なくされ、ルイ18世が再度復位すると、再度国王に向けて熱烈な支持者である旨アピールした。しかし、国王は彼に耳を貸さず、以前同様に軽蔑と笑いの対象となった彼は再び田舎に逃げ込み、1816年6月12日に死去するまでそこにいた。

この元帥の軍歴を見ても、燃えるような不屈の勇気以上に称賛すべき点はほとんど見当たらず、彼の個人的性質は、あらゆる面から見ても忌まわしいものであったように思われる。

2020年5月2日土曜日

1-17-a アンリ・クラルク




アンリ=ジャック=ギョーム・クラークは1765年10月17日、ランドルシーで生まれた。父はアイルランドの冒険家であり、フランス軍の大佐だった。幼少に、陸軍に入隊し、パリの陸軍学校で教育を受けた。

1784年には大尉となり、1792年には騎兵連隊の大佐となった。1784年には大尉、1792年には騎馬連隊の大佐になっているが、どのようにして彼がその地位に上り詰めたのかは不明だがはっきりと言えるのは能力のおかげではない。彼の部下が彼の無能が引き起こした惨事から連隊を救っていなければ、彼の連隊は何度も全滅していたであろう。1793年に旅団長に任命され、その新ポストで失態を繰り返す矢先に、貴族であることを理由として投獄された。しかし、すぐに解放されたクラルクは、可能なら復職を、少なくとも同程度には高い地位を得ようとパリに急いだ。

彼はカルノーに、激烈な革命思想の提唱者だと自己アピールをした。平等と国民主権を支持しないものには、炎と死だけをお見舞いしてきたと告げた。彼が出世するには、他にどんなチャンスがあっただろうか?戦争はからっきしなので、欲しいものを手に入れるには口を上手く使う以外になかった。カルノーはクラルクの血の気の多さを優しくたしなめると、その熱意に慎重さを足すよう促した。それでも、この誠の市民クラルクのために何かをしてやらないわけにはいかなかった。こうしてクラルクは地形委員会に配属された。彼の唯一の目的は、「権力者」にすりよって生きていく事にあり、上の立場の者の意に沿うためならば、己の意見を曲げるのに躊躇いはなかった。よって彼はあの凶悪な公安委員会ともうまくやっていた。

政権をめぐる波乱が近づいてくると、それが収まるまで身を伏せた。やがて総裁政府が樹立する。この時になってクラルクは初めて最初の革命政府の形態はあまりにも急進的で、その過激さで自らを落としてめていたと声を上げた。そして「しかし、最も優秀で高潔な5人の総裁の下でフランスは理想国家になるだろう」と言い始めたのである。

またしても、変わり身の早さが功を奏した。懐が温まっただけではなく、クラルクはウィーンへの極秘任務に派遣され、帰国後にはボナパルトへのスパイ行為という極秘かつより重要な任務を任された。

当初から総裁たちはナポレオンを警戒していた。あいつは政府転覆してその席に収まろうと目論んでいやしないか、念入りに見張って置かねばならん、と。クラルクは、オーストリアが幽閉しているラファイエットらの釈放交渉という口実でミラノにやって来たが、ボナパルトはすぐにこのスパイの本性を見破った。この最も節操のない人物を、総裁たちから自分に寝返るよう仕向けるのに言葉はほとんど要しなかった。クラルクはパリからどんな指示を受けたとしても、ボナパルトにそれを見せ、その返信内容はほとんどの場合ナポレオンの指示通りだった。このように総裁どもの間抜けで、不義理で、嫉妬めいた入念な嫌がらせは、ナポレオンにとってこの上なく役に立つ結果となった。

だが、フリュクチドール18日のクーデターによりカルノーが失脚し、クラルクは支援者を失った。クラルクは召喚されたが、カンポ・フォルミオの和約が成立するまでイタリアを離れまいとし、再度命じられるまでパリに戻らなかった。彼が雇い主に裏切りが知られていると疑っていたのは間違いなく、当然のことながらそれによる処分を恐れていた。パリに到着しところ失脚させられたが、予想に反して投獄を免れた。

ジャコバン党、モンターニュ派、テルミドール派、そして総裁政府のお仲間だったクラルクは、ブリュメール18日のクーデターの後より統領政府の奴隷となった。彼はただ議会に手堅い席を確保しただけでなく、いくつかの重要な任務を任された。帝政に移行して、彼がさらに出世したのはは想像に難くない。総裁政府の時には、彼は旅団長であったが、今や国務審議官や陸海軍の国務長官等の顕職を与えられていた。だがこうした地位は、彼が他の臨時の役職に就くことを妨げるものではなかった。皇帝は、彼の軍人としての愚かさと臆病さをあまりにもよく知っていたため、彼を戦場で出そうとはしなかったが、いくつかの重要な指揮を任した。1805年にはウィーンを治め、その後、エルフルトとベルリンを治めた。ベルリンでは、彼はその振る舞いの冷酷さと強欲さで名をはせた。彼が莫大な徴収金を住民に課し、その相当額を彼自身の懐に入れたのは、今なおも憎悪の的となっている。それよりも彼のプロイセン王家への仕打ちは半永久的に恨みの対象となるだろう。美しく気の毒なプロイセン王妃は彼によってかなりの侮辱を受けていた。



ティルジットの和約の後、クラルクは陸軍大臣のは最高の地位に昇りつめる。クラルクの能力はこの役目にそぐわなかったが、能力以外の面においては適任だった。彼は決して皇帝の御意に異論を唱えず、またそれを忖度するに怠りはなかった。クラルクはイギリス政府への嫌悪を公言していた。あるナポレオン不在時、フリッシンゲンに上陸しようとするイギリス軍に対し、クラルクは急遽ベルナドットを指揮官とした国民衛兵を収集し、対抗させた。このような迅速かつ果敢な措置については、他の大臣(特にフーシェ)も貢献したが、クラルクだけが褒美をもらった。レジオンドヌール大勲章とフェルトレ公爵の称号を授与されて、クラルクはほとんど真っ当な感覚を失ってしまう。彼は自分が大物だと勘違いし始め、先祖がどうだったとか口走るようになった。他のアイルランドの同郷人たちとは違って、彼は自分の先祖が古代ミレー人の小王と推量するだけでは満足しなかった。なんとこの見栄っ張りの成り上がりはプランタジネット朝の本物の末裔だと称したのである。ナポレオンはこの戯言を笑い飛ばし、ある日、貴顕居ならぶ中で、「なぜ貴公はイギリス王位継承権をもっていることを私に知らせなかったのかね?」とクラルクに話しかけて面食らわせた。この馬鹿なホラ吹きが何も言えなかったのは確実だろう。

ナポレオンがロシア遠征で不在の間に起きたマレ将軍の反乱は、クラルクの決して明晰でない頭脳を吹き飛ばした。彼は反乱を予見できなかっただけでなく、反乱勃発した後のそれを抑え込めなかった。他のより機敏な者たちによって反乱が完全に鎮圧された後になって、俄然クラルクはその反乱者の処罰にやる気を見せ始めた。この腰抜けは、常に卑怯であり、また冷酷だった。この男は血の報復に熱中するあまり、ナポレオンの寵愛を失ってしまった。

クラルクはずる賢い男だった。とは言え自分の利益に関しては知恵が回るが、他のすべてのことには愚鈍であった彼は、恩人ナポレオンの運命の衰退を用心深く観察していた。フランス軍が劣勢との報が入れば、ナポレオンの不在を預かる摂政皇后マリア・ルイーザの前に姿を見せなくなったかと思うと、フランス軍勝利の報がもたらされたら、皇后の前に興奮した様子で馳せ参じた。彼は復位したルイ18世に臣従し、その見返りとして貴族入りした。主人と同様、政治信条さえも軽々と変えていた。ナポレオンの下では、独裁政治を支持しており、ルイ18世の下では、貴族院議員として「王と法は同じものであり、一方が望むことは、他方が望むことである」と高らかに言い張った。1815年にナポレオンがエルバ島を脱出してフランス本土に上陸した時、クラルクはナポレオンはどうしたらよいか途方に暮れた。ルイ18世はスルトを陸軍大臣から罷免し、クラルクを代わりに任命したが、ナポレオンが再び失脚することがなければ、国王との結びつきなど何の役にも立たなかっただろう。 タレーランが国王側についているのを見て、その行く末を疑う者は果たしていただろうか?クラルクはもはや逡巡せず、ルイ18世の後を追ってヘントに向かった。

ブルボンが再度復古すると、フェルトレ公爵は再び陸軍大臣の任に就き、軍部に大きな損害を与えたことで、彼の行政能力の如何を証明した。1817年には解任されたが、フランス元帥となり、ルーアンの第15師団の総督に任命された。しかし、長くその名誉ある地位に留まることはできなかった。相当な財産と悪評を後に残し、クラルクは1818年に死去する。


2020年5月1日金曜日

1-06-a リュシアン・ボナパルト


ナポレオンに続いて数年後、1775年にアジャクシオに生まれたリュシアンは、ボナパルト一族の中で、ナポレオンに次いで有能かつ野心家であった。

若いうちからリュシアンは、革命的な教義に熱をあげており、そして兄ナポレオンの立身によって彼の前にも名誉と富への前途が開かれた。しばらくの間、彼は兵站部の雇われ人をしていたが、 1797年に政界入りし、五百人会の一員へと復帰した。
議会での彼は弁舌巧みにして、そして少なくともたまには健全で高尚な見解を述べていた。 しかし、彼を最も際立たせていたのは、活力に満ちた身振りと、当時の政府への献身ぶりだった。

1798年、熱意にかられたリュシアンは全代表議員に向けて、共和暦3年憲法が覆されるぐらいならば、むしろ死ぬと誓うべきだと声をあげた。 しかし、これは全くもって偽善的だった。 その当時、彼は兄ナポレオンのクーデターの目論見を知っており、ただそれを承認しただけでなく、サポートに回っていた。

ナポレオンがエジプト遠征で不在の間、リュシアンは総裁達の動向を窺うスパイ役となっていた。総裁らは無能で、さらに世論においては強硬派からはその手ぬるさを、善良な人々からは隠しようもない強欲さを軽蔑されているのを見てとったリュシアンは、勇ましい者の手によって彼らをその席から放り出し、最高の権力を掌握する時が来ていると察した。ナポレオンの帰還を急がせたのは彼であり、またその後のクーデターの立役者になったことは論を待たない。ナポレオンが非武装で評議会に入ったとき、リュシアンはナポレオンに対して宣告されようとしている『法の外に置く』判決に断固として抵抗した。ナポレオンは、抗議しても何の役にも立たないことを知ると、首魁としての威厳をかなぐり捨て、馬に飛び乗ると軍隊に号令を発し、議員らを退場させるよう強いたのである。要するに、ナポレオンに統領の座を確保しただけでなく、ギロチンから彼を救ったのはリュシアンだったのである。内務大臣の地位はその成功の報酬であり、その管理能力においても彼は評判を得ないでもなかった。


ブリュメール18日のクーデターにて、軍隊に号令を発するナポレオン

しかし、リュシアンが第一統領にした貢献は素晴らしいものであったが、この二人の兄弟の間の兄弟愛に満ちた関係は長く続かなかった。おそらく二人は同程度に野心家だった。リュシアンの目的は、国家の最高権力をもう一人と共有することであったが、ナポレオンはそそんな魂胆を見破り、妨害した。リュシアンは自分より上の存在に我慢がならず、ナポレオンは己に並び立つ存在を許容できなかった。両者の関係は冷え切り、その溝はボーアルネ家の面々によって入念に広げられた。彼らは縁者のナポレオンの味方であり、リュシアンの巧妙な手管と不敵な性格に常に不信感を持っていた。リュシアンはマドリッド駐在大使に任じられたが、これは体のいい追放でしかなかった。

リュシアンは大使として兄の意図を全面的に推進した。彼の振る舞いは強権的で横柄かつ腐敗していた。 彼がカルロス4世の愚劣な政府を軽蔑していたのは間違いない。裏切り者で愚か者の平和公ゴドイを、リュシアンはその日の目的に最も適した方法で持て囃したり、小突き回したりして、そうすることで望むものを何でも手に入れた。彼の金銭欲は相当だった。リュシアンは公費から莫大な金額を抜き出し、ポルトガル政府にフランスの侵略から免れる対価として500万フランの支払いを強要したと言われている。彼はエトルリア王国の創設と、パルマ公国、ピアチェンツァ公国、グアスタッラ公国のフランスへの割譲を主張した。その後1802年にパリに戻ると、第一統領と表面的な和解をした。

リュシアンの二度目の妻
アレクサンドリーヌ
はすぐにトリーアの議員に任命され、古代の選帝侯たちが所有していたソッペルズドルフの地所を与えられた。リュシアンはその後、ベルギーとレーヌ地方への使節団に任命されたが、帰国後、第一統領を怒らせる行動に出た。彼はユベルトン夫人と結婚したのである。ユベルトン夫人は派手な生活を送っている女性として知られており、リュシアンは以前から同棲していたと言われている。これはナポレオンの体制にとって打撃だった。口論になり、彼はフランスから離れるように命じられた。1804年4月、統領政府から帝政への政権交代の1ヶ月前に彼はイタリアへ出奔した。この出来事は彼にとってある意味幸運なことだった。彼の不遇の要因は、兄の野心的な政策に反対したことにあるとの印象を人々に与えたからだ(彼もあえて否定はすまい)。

しかし、リュシアンが兄同様に民衆の自由に無頓着であったこと、そして兄同様にあらゆる局面で私利私欲に基づいて行動していたことはほぼ確実である。リュシアンは、コンコルダートを熱心に支持したことでローマ教皇の好意を得ており歓迎された。 彼はティルジットの和約が成立するまでローマに留まっていたが、ナポレオンとマントゥアで会談するよう勧められた。和解するかと期待されたが、実現しなかった。彼はある程度までは皇帝から提案された条件に応じるつもりでおり、その中には長女とオーストリア皇族との結婚も含まれていた。しかし、彼の名誉のために付け加えなければならないのは、妻を犠牲にするのを拒否したことである。離婚の同意がナポレオンの厚遇を得られる唯一の条件であったが、リュシアンは決して応じなかった。実際のところナポレオンの好意など気にする風でもなかった。それから逃げて来たのに、再び足枷を嵌められるつもりはなかった。豪華な所有物と教皇の保護を堪能できるローマでの暮らしは、ナポレオンの厳しい支配下で得られると思しき寵遇よりずっと 充足に感じられた。 彼を誘惑するためにスペインの王位が提示されたことは疑う余地がないが、彼はフランスの臣下として君臨することを嫌っていたし、スペイン王族に係る処置を自分自身に課すのを嫌がった。加えて、彼はスペインのことをよく知っていたので、王位を簒奪して事が上手く運ぶなどとは期待していなかった。両者の間で怒りの言葉が飛び交った。ナポレオンはリュシアンを侮辱し、リュシアンは教皇が虐げられていることに不平を言った。二人は会う前よりも不仲になって別れた。

リュシアンはローマに留まるのを許されなくなり、カニーノに購入した地所に隠棲した。教皇はその地を公国に昇格したので、リュシアンはカニーノ公としてローマ貴族に列することになった。しかし、彼はすぐにイタリアがもはや安全な隠れ家にはならないと察した。彼は密かにチヴィタ・ヴェッキアに逃れ、義理の兄であるミュラが用意した船に乗り、1810年8月に合衆国に向かって出航した。嵐によってカリアリの海岸に打ち上げられあが、サルデーニャ国王は彼の上陸を拒否し、更には英国海軍司令官から身の安全の保証を得られなかった。出航を余儀なくされたリュシアンは、2隻の英フリゲート艦に捕らえられ、マルタに運ばれ、彼に関する英国政府の命令を待つ身になった。その命令に従い、彼はイギリスに移送された。彼は12月18日にプリマスに上陸し、すぐにシュロップシャー州のラドローに移送された。

リュシアンがイギリスで過ごした3年間は、彼の人生の中で最も幸福なものだったろう。ラドローから15マイルほど離れた美しい土地を購入することを許され、家族と一緒にそこに腰を据えた。彼は主に叙事詩の作成に時間を費やした。それは 『シャルルマーニュ、または救われし教会 』と題されている。彼の生活スタイルは極めて質素であり、彼の莫大な財産を考えると、ある意味驚きである。ある日、とある友人が彼にその理由を尋ねてみたところ、彼の答えはあたかも未来を予知しているかのようだった。「私がそのうち4、5人の王様たちを養うようになるという事が分かりませんか?」

1814年の英仏間の停戦により大陸へ帰還する道が開かれたリュシアンは、旧友であり保護者でもあるピウス7世のもとに戻ってきた。二人の兄弟は長いこと不仲であったにもかかわらず、リュシアンが妹のポーリーヌを介してエルバ島のナポレオンと文通していたことは疑いようがない。1815年3月のエルバ島脱出の企てに彼が関与していたかどうかは定かではない。ただ、彼がすぐにパリの皇帝のもとに駆けつけたことだけは確かな事実である。彼のパリ行きの表向きの目的は、ミュラに侵攻されたローマ教皇領から避難することにあった。それが果たされた後、彼はイタリアに戻る準備をしたと言われているが、ナポレオンにフランス出国を阻止された。しかし、それにもかかわらず、彼は貴族院に姿を表すと、かつて帝国が最も繁栄していた時期には決してしなかった、帝国への献身を訴える熱弁をふるった。ワーテルローの大惨事の後、彼は皇帝に帝位にしがみ付くよう促したが、不運に意気消沈している皇帝に自分の活力を注入することはできなかった。ナポレオンの二度目の退位により、リュシアンはニュイユに後退すると、そこでフランスを離れる準備をした。しかしトリノで逮捕され、しばらく拘束されていたが、教皇の執り成しにより、聖下の監視下に置かれることを条件に釈放された。幸いなことに、彼はローマに家族を残していたので、すぐに合流できた。未だに彼はローマ領内に留まっている。

ボナパルトの時代、リュシアンの才能はフランスの学術関係者たちに賞賛されていた。彼は1816年3月21日の国王令によって排除されていた研究機関の会員として認められた。彼の最高傑作であり、ピウス7世に捧げられた『シャルルマーニュ』は、1814年にロンドンで全2巻で出版された。翌年には、バトラーとホジソンによる詩の翻訳が出版された。イギリスとフランスの両国での成功ぶりに差異はない。この重厚な叙事詩の他に、リュシアンは2つの作品を発表している。小説『ステッリーナ(1799年刊)』、詩『Cyrneide、あるいは救われしコルシカ(全2巻。1819年刊)』である。これらの作品はすべて忘れ去られている。

カニーノ公は、才能を有しているが、それ以上に虚栄心が強かった。相当な気骨の持ち主ではあったが、それ以上に無謀だった。私人としては尊敬されていたが、見知らぬ人にはよそよそしかった。彼が妻に忠実でナポレオンの無遠慮な申し出を拒否したことは、彼の名を高めている。しかし、彼の富への飽くなき欲望と、それを得る際の悪どい手口は、彼のどんな美点さえも相殺する以上のものにはなっていない。

リュシアンとその家族