2017年12月26日火曜日

概略 ロシア戦役  -前篇-




1.序曲


アレクサンドル1世とナポレオン
1808年にエルフルトにてフランス、ロシア両国君主間の会談が持たれ、各々の支配領域について合意がなされ、よってそれに基づく平穏が続くかと思われたが、1809年以降フランスとロシアの関係は冷え込んできた。対オーストリア戦にて、ロシア軍がさほど積極的にフランス軍を支援しなかったことは、その指揮官が慎重に行動するよう指示を受けていたと思わせた。同時期、ロシアの港はすべてイギリス商船(アメリカ商船になりすましていた)に開かれる一方、フランス製品は厳しく禁じられる。これにより、ナポレオンはイギリス製品の禁輸を徹底させる目的で、北ドイツ沿岸に支配の手を伸ばし、ロシア皇帝アレクサンドル1世の近縁であるオルデンブルク公国をフランスに併合させた。この処置に対してロシアは強く抵抗し、1811年初頭、5師団をワルシャワに対する位置に配備する。一方、ナポレオンはヴィスワ河とオーデルの砦を包囲させようと大軍を派遣し、またスウェーデン国王カール13世がフランスとの緊密な協調を拒んだことを理由に、スウェーデン領ポメラニアを占領させた。


フランス軍のオーデルへの接近を宣戦布告とみなしたロシア軍は攻勢に出る作戦を採用し、プロイセン領土に軍を進ませ、その国の出方次第で交戦しようとした。しかし、とりわけプロイセンの置かれた状況への政治的配慮により、この作戦は退けられた。フランス側では、オーストリア皇帝含めたあらゆる王侯をドレスデンに集わせたことは、何かしらの示威行為と思わせたが、当時のモニトール紙によると、皇帝の出立は単にヴィスワ河での観兵とされた。おそらくまだナポレオンは、己の目的を断念することなく、大戦争を回避する望みをつなごうとしていたのだろう。そのためにナルボンヌ伯が和平交渉のためにヴィリニュス(ヴィルナ)に置かれたアレクサンドル帝の営舎へ遣わされた。日に日に悪化するイベリア半島での戦況のせいで多大な兵員と資金を費やしており、それはナポレオンにとってロシアと戦うあたり憂慮となっていた。だが彼は、百万近い自軍を擁し、その中に完全に使い捨てにできる新たな国民衛兵80,000を導入したことから、十分に二方面作戦を展開可能と見積もっていた。またフランス国内で厭戦気分が高まっていることを察知したナポレオンは、同盟国にやがて来る戦費を負担させるだけでなく、兵員も供出させた。主にライン同盟諸国からの大量の予備兵(10万)と、そして何よりも同盟国プロイセンとオーストリアが60,000兵を拠出して軍隊の両側面を守り、退路を確保してくれるとあてにしていた。それゆえ、ナルボンヌ伯が成果なしでドレスデンに帰還すると、50万兵(フランス兵、ドイツ兵、イタリア兵、ポーランド兵、スイス兵、スペイン兵そしてポルトガル兵から成る)が1,200以上の砲を携え、ニーメン河とヴィスワ河の対岸にいるロシア軍と交戦するため動きだした。


2.戦略的展開


1812年6月中旬までに、ナポレオンはニーメン河の流れに沿って軍隊を集結させた。最右翼にはシュヴァルツェンベルク指揮下のオーストリア兵(34,000兵)の分遣隊が配備された。次いで、ナポレオンの弟ジェロームの司令部の下に置かれた3つの軍団(19,000兵)がワルシャワを中心に集結した。そして、ナポレオン直下の本軍(22万兵。右後方にウジェーヌ指揮下の8万兵を伴う)。最左翼のティルジット方面には、プロイセンやその他のドイツ兵から成る補助部隊(なべて40,000兵)が置かれた。いずれの軍もとりわけ騎兵を多く擁していた。総勢45万兵のうち80,000兵が騎兵であり、1807年戦役で教訓を得たナポレオンは、すべての支局に対し、補給について極めて細かく詳細な指示を行い、10万兵以上の人員をその目的のために用意した。

ウジェーヌ
 
ジェローム
シュヴァルツェンベルク

しかし、ロシア軍に関する情報にはまるで無頓着だった。ヴォルコウィスク周辺にバグラチオン公指揮下の約33,000兵が、ヴィリニュス(ヴィルナ)周辺に陸軍大臣だったバルクライ・ド・トーリ指揮下の約40,000兵が、そしてオーストリアの国境付近にトルマソフの小さな軍団が集結しており、遠くトルコの国境にて、チチャーゴフ指揮下の50,000兵が露土戦争に従軍しているとだけ認識していた。敵の計画についてナポレオンは何も知らなかったが、彼のいつもの習慣通り、即座に行動をとれるよう軍の配置は行われた。ナポレオンの戦略は何としてでもロシア軍を会戦に持ち込み、徹底的に殲滅したのちに、首都モスクワに急行し講和を迫るというものだった。

バルクライ
バグラチオン
ドクトロフ

対するロシア軍は3軍に分かれキエフ、スモレンスク、リガに至る戦線を押さえていた。第一西方軍(12万7,000兵:6つの歩兵軍団と2つの騎兵軍団で構成)は、バルクライが率い、その下にウィトゲンシュタインがついた。第二西方軍(48,000兵:4つの歩兵旅団と一つの騎兵旅団で構成)はスモレンスクとキエフの間に配置され、バグラチオンがそれを率いた。ドクトロフ将軍は第三軍を率い、他の2軍の間の連絡線を維持する役割を担った。物資も連絡もこうした奥地では伝達に時間がかかった。リガやスモレンスクなどは要塞化され、ドヴィナ河(ダウガバ河)に沿って陣営が伸ばされた。トルマソフ指揮下のヴォルィーニ軍は2歩兵師団、1騎兵師団からなる20,000兵を擁した。クールラントのリガはエッセン将軍が1万兵と共に守備した。予備兵団のひとつはノヴゴロドにてミロラドヴィチ将軍に、もうひとつはスモレンスクにてオルテル将軍によって組織された。さらにフィンランドのシュタインハイル指揮下の16,000兵がサンクトペテルブルクからの第25歩兵師団と共に、ウィトゲンシュタイン軍を補強した。9月には、対オスマン帝国戦に従事していたクトゥーゾフ下の85,000兵がトルマソフ軍と合体する。
フランス軍と戦うロシア民兵
フランス軍の侵攻が開始されると、ロシア全土で民兵の徴兵が行われた。こうした民兵からなる部隊はボロディノの戦いでも活躍し、1813年のドイツ戦役にてもいくつかの民兵師団が活躍した。この戦役におけるロシア軍の戦略は、後退を続け、敵軍が補給基地から引き離されるまで決戦に持ち込まず、荒れ果てた土地を行軍させて弱体化させること、並びにロシア軍が優勢であるよう兵力を保ち続けることだった。ロシア軍の両翼に配備された軍団は敵軍の伸長を妨げ、かつ敵軍が敗れた際に、その殲滅を行うよう意図された。またオスマン帝国との講和によって、チチャーゴフ下のモルダヴィア軍を加勢に寄越せるとの算段もあった。


3.戦役の開幕


ロシア軍の退路=の破線、 フランス軍の進路=の実線







ロシア国境まで近づいていたナポレオンは再度交渉を試みて、かつて駐サンクトペテルブルク大使だったローリストン伯をアレクサンドル帝のもとに遣わしたが、両者の見解が合致することはなかった。ナポレオンはいつもの調子で「征服された者は征服者のやり方を受け入れる。彼らは破滅に赴くのだ。その運命を叶えてくれよう」と述べた。

ニーメン河を渡るフランス軍

6月24日、欧州の支配者たるかのごとく36万3,000もの兵を率い、ナポレオンはニーメン河を渡った。この大軍のおよそ3分の2はドイツ兵、オーストリア兵、ポーランド兵もしくはイタリア兵だった。渡河は酷暑を伴い、それは数日間続いた。戦闘時の規律は保たれていたが、野営や行軍時の規律は次第に悪化していった。自らの意思ではなく、行軍を強制された軍隊は、やがて戦場に向かう意思を失っていった。その結果は機動力の減退に顕著に現れ、あらゆる局面での時間厳守の緩みが戦役の動向に深刻な影響を与えるようになった。その一方、祖国を侵略されたロシア軍は、熱狂の域に達した精神的昂揚で満たされていた。加えて軍人らのトップへの従順さは過度なほどであり、また彼らは従軍の辛苦に十分すぎるほど慣れきっており、撤退しようとも士気を失わなかった。

ロシア軍後衛部隊

ミュラと騎兵隊によって援護された皇帝率いる本軍は、ロシア軍が方面軍同士の間をガラ空きにしたミスをうまく利用し、ニーメン河を素早く渡河し、ヴィリニュスに向けて急行した。右後方のジェロームはひとたびバグラチオンを脅かして、皇帝の外側面を防護した。しかし、当初から、巨大な軍隊に内在する弱点と、不適切なタイミングで進軍を開始したことは、その弊害を露呈させた。農作物は依然として熟しておらず、馬の飼料となるものは他に何もなかった。また、疝痛の流行が兵士間に発生し、10日間で軍隊は兵力の3分の1以上を失った。多くの兵士は日射病で死亡し、おびただしい落伍者が発生し始める。巨大な軍隊はドイツとの連絡線を覆い尽くして、敵軍の補給を困難にさせ、軍事行動を阻害するだろうと意図された。しかしナポレオンは、北イタリア戦役の時同様、軍需品なしにロシアで戦うという過ちを犯した。彼は自分が征服し支配する国々は比較的小さい国ばかりだという事実を見落としており、よって、彼は物資が手にあるうちに敵国から引き上げる必要があった。それでもロシア軍の総司令部の置かれたヴィリニュスのみを目指して軍を進めた。左側面を流れるヴィルナ河もフランス軍に渡られたので、バルクライの第一西方軍はドヴィナ河に至るまで包囲され、バグラチオンの第二西方軍と完全に切り離される形になり、兵力が分断された状態で決戦に臨むか、素早く後退するか対応を迫られた。ロシア軍は後退を選び、右翼への補給とされるはずだった大量の軍需品を犠牲にした。6月28日、アレクサンドルの司令部の置かれていたヴィリニュスは代わってナポレオンの司令部となり、そこで彼は(この戦争の二次的な目的であった)ポーランドの再興を果たした。ナポレオンがこの地に逗留した理由の一部はこの目的にあったが、他方で弟のヴェストファーレン国王ジェロームが司令官を務める右翼軍(指揮下にポニャトフスキ、シュヴァルツェンベルク、レニエ)の動きについて情報を得るためでもあった


7月5日にグロドノ(フロドナ)に到着したジェロームは攻勢を仕掛け、バグラチオンを引き続きバルクライと引き離しておき、その後方で両軍が合流するのを妨げよとの命令を受けた。ジェロームの左側面に加わったダヴー元帥はこの命令をよく果たし、ドクトロフの軍はバグラチオンの軍勢およびバルクライの軍から分断され、ほとんど包囲されるところだったが、36時間も降り続けた雨によって道が通行不可となり、また堪え難い暑さだった天気が急に冷え込んだためフランス軍の馬が斃れ、さらに必需品も枯渇したため、ドクトロフはわずかな被害のみですり抜ける事ができた。他方ジェロームは、その地位に釣り合わない才能の持ち主であることを露呈する。部下の物資や賃金を求める苦情を聞き入れる一方で、彼は皇帝の叱責にもかかわらず、いたずらに4日間を費やした。バグラチオンは慎重さ、大胆さ、そして勇敢さによって、そしてジェロームの軍事的才能の欠如も助けとなって、敵の作戦をうまくくじいた。さらに彼は後退する際にロマノフのポーランド軍を急襲し、6,000兵からなる軍団を叩きのめした。こうして、ロシア軍はうまく後退し、バルクライはドヴィナ河沿いのドリッサの陣地に、バグラチオンはモギリョフ(マヒリョウ)に撤退した。モギリョフにてバグラチオンは全軍でもってダヴーに戦いを挑んだ。ダヴーはうまく防衛したが、バグラチオンがジェロームによる側面攻撃に気をとらわれなかったら、大損害なしに逃げる切ることはできなかったと言われる。またヴォルィーニに配置されたトルマソフ将軍は、フランス軍の最右翼にずっと対抗していただけでなく、7月27日にはコブルィンにてザクセンの旅団を丸ごと捕虜にした。

モギリョフの戦いで第7軍団を率いるラエフスキー将軍

こうして皇帝のはじめの策略は失敗する。ヴィリニュスにこの知らせが届くと、ナポレオンはドヴィナ河に集結している自軍のもとに急行した。フランス軍は対岸で長々と布陣しているロシア軍を監視しており、それまでにロシア軍の突撃によって相当な損害を被っていた。ロシア軍の布陣は高台の右岸にあり、左岸を見下ろせるので、地理的にも戦術的にも顕著な強固さを備えていた。しかしナポレオンは分遣隊をポロツクに向かう道より敵陣に向かわせた。ジェロームはダヴーに取って代わられ、バルクライを囲い込んで圧倒する狙いで、軍隊は再度進軍を開始した。


他方、ロシア軍の戦線は先のナポレオンの巧みな策による分断から元どおりになっていなかったため、よって二つの西方軍は合流できておらず、バルクライは全軍の半数を戦闘で失うか、陣営を引き払ってドニエプルに向かいバグラチオンと合流するか二者択一を迫られる。サンクトペテルブルクへの進路を守り、リガの包囲を防ぐためにウィトゲンシュタインのみが留まった。ウディノ、マクドナル、サン=シール指揮下の3軍団はリガを封鎖し、サンクトペテルブルクへの進路を確保しようと奮闘した(それにより数多くの決着のつかない血みどろの戦いが繰り広げられる)。


コサックから襲撃されるフランス軍
フランス軍が前進しようとも、ロシア軍は着実に後退を続ける。ミュラの追撃を受けてバルクライ軍はヴィリニュスからドリッサを経由し、ヴィーツェプスクへ、バグラチオン軍はヴァウカヴィスクからモギリョフに移動した。フランス軍のマクドナルはエッセン将軍をイェルガヴァ(ミタウ)まで後退させ、ウディノはウィトゲンシュタインをウクメルゲまで追いやった。とりわけ騎兵における機動力の不足は、フランス軍に不利に働き始める。伝染病から回復したばかりの騎馬は、すべての方向から押し寄せるコサック兵に対し太刀打ちできなかった。コサック兵は決して交戦しようとしないものの、常に警戒しておらねばならず、フランス軍にとってこのような経験は以前になく、構えの施しようもなかった。


フランス軍の主力は、ある一方はドヴィナ河を渡り、また一方は河沿いにロシア軍の後衛と頻繁に交戦しつつ追撃し、そして7月の26日から27日にかけ、ヴィーツェプスクにて相構えた。ナポレオンにとって会戦の火蓋を切るチャンスが到来する。ミュラの騎兵隊の後ろについた「前衛部隊」が敵を攻撃し補足する一方、本軍並びにバグラチオンとバルクライを分断させるためのその間を攻め進んでいたダヴーは敵後方に回り込もうとしていた。しかし、ナポレオンは敵方の心理を全く読めていなかった。ロシア軍は人命の犠牲にまったく無関心で、前衛や後衛部隊の援助に引きずり込まれるのを拒否し、フランス軍が接触を図ろうものなら、どこであれ持ち場をさっさと引き払った。このようにロシア軍は戦闘を放棄すると、スモレンスクへと撤退した。一方で、暑さと物資の欠乏はフランス軍の状況を悪化させたため、その場で10日間止まらざるを得なくなり、その間に二つのロシア軍はとうとうスモレンスクの城壁の下で合流を果たした。8月8日には、12,000の騎兵でフランス軍のセバスティアニ将軍を襲い、損害を与えて、2.5km後退させた。

ヴィーツェプスクの戦い

こうして、ヴィーツェプスクで敵を殲滅させる作戦は再び失敗し、ナポレオンは戦役開始時よりもはるかに悪い状況に置かれる。 その時の彼は42万兵を率いて260kmを進もうとしていたが、今や22万9,000兵のみ伴って220kmを進んでいた。 彼は敵を木っ端微塵にする3つもの大きな機会を失ってた。彼が5週間かけても320kmしか移動できていないと気づいた時には、軍隊の兵数は当初の3分の1まで減少していた。 さらに悪いことに、彼の軍隊は当初のような戦闘集団としての質を失っていた。


4 スモレンスク


一方、ロシア軍はひとつの砲も失っておらず、兵の士気は敵との多くの小競り合いによって向上していた。さらにバグラチオンとバルクライの合流が果たされたスモレンスクに向かってフランス軍の進軍が再開されると、合流した13万兵のロシア軍を率いる指揮官たちは、応戦のために軍を進めた。しかし、ここで、ロシア軍の参謀団の不手際によって、彼らは被るであろう破滅から、実際のところ救われることになる。ロシア軍は2つに分かれて行軍していたが、相互の行方がわからなくなった。片方のみでフランス軍と戦うのはほとんど不可能だったので、両方とも再び前衛部隊が配置されたスモレンスクに向かって撤退した。スモレンスクには古めかしいレンガ造の城郭があり、それは野戦砲による損傷を受けていなかった。ロシア軍は合体すると戦いに向けてドニエプル河の背後に陣を張る。

スモレンスクの戦い

8月16日の朝、ミュラとネイは 「前衛部隊」となってスモレンスクの町を攻撃する。17日、ロシア軍の主力は、可能ならば通常の会戦に持ち込むべく進軍してきたフランス軍に向けて対抗姿勢をとる。ロシア軍の右翼を包囲する自分の作戦が失敗したとわかったナポレオンは、自軍の右翼率いるポニャトフスキに、ただちにオルシャの道を急行し、ロシア軍とモスクワとの間を分断せよとの命令を出した。この行動を完成するには17日の丸1日が必要となり、ロシア軍はその目的を十分に察知すると直ちに夜の闇に紛れて撤退すると決定した。バグラチオンはこの道を確保しようと急ぎ、そしてバルクライは可能な限り敵の進軍を遅らせようとした。17日の深夜になってようやく、兵数千を失ったのちに、フランス軍はほとんど残骸と化したこの要衝を獲得したが、ロシア軍の撤退作戦は完全に成功し、その後、後衛しながら夜間の撤退を続け、うまいことフランス軍を根負けさせた。古くからの町であるスモレンスクは、往時は強固な砦であり、ドニエプル河の配置全てもロシア軍に好条件であった。


ロシア軍元帥クトゥーゾフ
スモレンスクを押さえたフランス軍は三角形の態勢(左の一角をリガの手前に置き、右の一角をブーク河に置き、頂点をドニエプル河沿いのスモレンスクに置いた)を成した。左側面と後方はそこそこ足場を保っていたものの、右側面ではロシアのトルマソフが引き続き攻撃を仕掛けており、危うい状態だった。8月19日、ナポレオンはスモレンスクを発ち、ロシア軍を追撃する。ヴァルチノにて、ロシア軍の後衛とネイ元帥下の前衛が遭遇した。ロシア軍の主力が急いで後衛に救援を送った時には、ジュノー将軍が、既にこの後衛に追いついていた。大きな損害を出しつつも、なんとかロシア軍は50kmに及ぶ隘路を抜け出すことができた。ロシア軍は道中の街を焼きながら大急ぎで撤退する。同じくらい急いでナポレオン軍は、物資の欠乏と天候に苦しめられながら、ロシア軍を追いかけた。スモレンスクからの撤退は成功していたものの、ロシア政府はその事実を見誤り、バルクライの代わりにちょうど露土戦争が終結して凱旋していたクトゥーゾフ元帥を司令官として前線に送った。クトゥーゾフの狙いは強固な拠点を押さえて、モスクワ防衛戦を行うことにあった。民兵と予備兵で自軍を補強すると、彼はモスクワに至る大街道を横切るカラッチャ河に沿った場所で敵を待ち構えると決意し、自陣の強化のため、時間が許す限り塹壕を構築し続けた。

5.ボロディノ


ここにてクトゥーゾフはミュラとネイに追いつかれたが、フランス軍の隊列はひどくバラバラになっていたため、皇帝が戦いに向けて軍隊を集結できるようになるまでに4日が経過した。その時フランス軍は12万8,000兵まで減少しており、対してロシア軍は11万兵を擁していた。9月5日、フランス軍は対する位置に布陣し、同日夜、凄まじい殺戮ののち、ロシア軍の陣地の一部シェヴァルジノ角面堡が奪われた。翌7日の午前6時、ある一方は窮乏と苦痛を終わらせるために、もう片方は祖国を防衛し首都を守り抜くため激突し合う、かつてないほど血にまみれた会戦の火蓋が切って落とされた(ボロディノの戦い)。この戦いの最中、ナポレオンは以降の彼の運勢に重大な影響を与えることになる病気や鬱の発作に見舞われる。 正午頃まで彼はいつもの鋭敏さで指揮をとっていたが、その後、一種の人事不省に陥り、配下の元帥たちに自己判断で戦うことを許可した。ワグラムの戦いのような決定打は放たれず、親衛隊は投入に呼ばれることさえなかった。結局、25,000のフランス兵と38,000のロシア兵が命を散らした戦場に日が落ちて戦闘は終結するが、前者の士気の虚脱は後者よりもはるかに大きかった。ロシア軍の中央はネイとウジェーヌの怯まない攻撃によって崩されたが、右翼と左翼では優勢を保っていた。そして、砲に大きな損害を得ることなく、またわずかな捕虜を取られたのみで、彼らはモスクワに向け撤退した。

ボロディノの戦い:ラエフスキー角面堡を巡る攻防

2017年12月18日月曜日

概略 ロシア戦役  -後篇-


6.モスクワ


炎上するモスクワ
を眺めるナポレオン
ナポレオン軍は2日の休止ののち、2師団に分かれモスクワを目指した。師団のひとつはロシア軍の側面を攻撃させるためのものだった。後退を続けるクトゥーゾフはあえてモスクワの前で会戦に臨む危険を冒さなかった。彼は首都モスクワをあえて捨てると決意する。ミュラは疲弊した騎兵隊と共にロシア軍に全力で追いつこうとした。前衛部隊を率いたセバスティアニは、モスクワで避難活動をしているロシア軍に追いつき、彼らが街を引き払うまでの7時間の休戦締結に同意した。その判断は、木造建築物の多いロシアの街中でフランス軍が市街戦を行えば、火事および必須となる宿営先と糧食の焼失が免れ得ない経験からくるものだった。日が暮れる頃、ナポレオンは現場に到着する。ロシア軍は引き払った後であり、モスクワ入城を開始したが、街の片隅で既に火事が発生していることが明らかになった。ナポレオンは西側にある郊外の家で一夜を過ごし、翌朝はクレムリンに乗り込んだ。軍隊は割り当てられた営舎に移ったが、その午後に大火災が発生し、2日間街を焼き続けたため、フランス軍は再び郊外へ追い出され、また物資を得る望みは潰えた。皇帝は最悪の混乱状態に置かれた。クトゥーゾフはモスクワの郊外を逍遥していた。彼の本軍はカルーガに配置され、フランス軍とヴィスワ河の補給基地をつなぐ連絡線を脅かして遮断しようとした。彼のいくつかの部隊は南西部に向かう。そうすることでクトゥーゾフはロシア帝国で最も肥沃な地域との連絡線を確かなものにした。彼のコサック兵はスモレンスクに攻め寄っていた。モスクワの南に位置するウェレーガはフランス軍の防衛拠点となっていたが、9月29日にクトゥーゾフによって急襲される。そのころ、フランス軍のマクドナル元帥の最左翼を援護しているサン=シール元帥にわずか17,000兵の手勢しか残されておらず、それを持ってウィトゲンシュタイン指揮下の40,000以上のロシア兵に対抗しているとのニュースが到着した。南方では、ロシアがオスマン帝国と和平を締結したことで、チチャーゴフ下のモルダヴィア・ロシア合同軍を国境から引き上げさせ、ナポレオンの連絡線を押さえに向かわせることが可能になった。チチャーゴフはヴォルィーニにいるオーストリア軍とザクセン軍に対応させるためいくらか兵力を残すと、残りを率いてベレジナ河に向けて進軍し、ともにナポレオンの連絡線を分断する目的で、トルマソフとブレスト付近で合流し、合わせて10万兵を構成する軍勢となろうとしていた。その一方で、この軍勢に対抗するシュワルツェンベルク指揮下の兵は3万にまで減少していた。

モスクワ占領時の両軍の勢力図

撤退を考案するナポレオン
このように、フランス軍はおよそ900kmの辺長から成る正三角形に配置され、頂点のモスクワでは仏軍95,000兵が露軍12万兵に対抗し、ブレストでは仏軍30,000兵に対して露軍10万兵が、ドリッサでは仏軍17,000兵が露軍40,000兵と睨み合った。 一方で、スモレンスクに置かれたフランス軍の拠点はヴィクトル軍団の約30,000兵が防御した。 モスクワからニーメン河までは890kmの距離だった。 もはやフランス軍が助かる道は、撤退か講和しかなかった。ナポレオンの矜持は撤退を許さず、講和に望みをつなごうとしていた。10月4日、ナポレオンは、ローリストン将軍をロシア軍司令部に送り、交渉を持ちかけた。だが日ごとにフランス軍の窮状は悪化していく。備蓄は底をつき、略奪しようにも、コサックや農民の群れから襲われる危険に苛まれ続けた。アレクサンドルが夏に組織したコサックと民兵によって、クトゥーゾフの兵力があらゆる方面で補強された一方で、フランス軍は同じくらいの兵を失っていった(モスクワで、飢餓、暗殺、襲撃によっておよそ4万の兵が命を散らした)。ローリストンの帰還を待っている間、ミュラはクトゥーゾフから小競り合いを仕掛けられる。皇帝自身は全軍をあげてサンクトペテルブルクに攻勢をしかける方策を練り、そのためにヴィクトルとサン=シールを呼び戻した。ミュラが18日に攻撃され、手痛い目に会うまで(タルッティノの戦い)この計画は実行の俎上にあがっていた。予想外の攻撃を受けたミュラとセバスティアニに率いられたフランス軍は、大きな損害を出して後退する。物資の欠乏に迫られ、ナポレオンはようやく4週間前にすべきだった決断をした。10月19日、ナポレオンはモスクワ撤退を決意する。全フランス軍はロシア軍に応戦するため出撃したが、24日のマロヤロスラヴェッツの戦いで徹底的に痛めつけられる。

マロヤロスラヴェッツの戦い

7.モスクワからの撤退


落伍し捕虜となるフランス兵
こうして、歴史に名を残す撤退が開始される。気候条件ではなく、フランス軍の行軍に規律が完全に欠如していたことが、その後に起こった大惨事の要因であったことは一般に見落とされている。実際のところ、その年最初の降雪日は通年より遅い10月27日であり、乾いた大気は心地よく、11月8日になるまで、夜の寒さは厳しくならなかった。 11月26日にベレジナ河に到着した時でさえ、寒さはそれほど深刻ではなかった。そのことは、ゆっくりとした河の流れがまだ凍結しきっておらず、そのためにエブル将軍の工兵隊がその水中を丸一日かけて難儀しながら架橋したという事実からもわかる。しかし、フランス軍はもはや完全に制御不可能で、集団パニックによって最も強い自律心を備えた人間でさえもタガが外れていた。河自体は橋なしで渡河が可能で、実際に騎兵は行き来していたにも関わらず、橋に殺到した逃亡兵らが何百人も踏みつけ合っているという有様だった。

ヴィアジマの戦い
実際の出来事に話を戻すと、クトゥーゾフは24日のマロヤロスラヴェッツでの成功を活用するのに出遅れ、全く見当違いの方向に追撃を始めた。しかし、ナポレオンの方も状況を把握するにあたり欺かれたか、もしくは情報不足だったのか、スモレンスクに至る街道を押さえていた自軍をも後退させてしまい、破滅の要因となった。11月2日、ヴィアジマに置かれたフランス軍の司令部にて、コサック兵からの襲撃を脅威に感じたナポレオンは軍隊に(エジプト遠征のように)方陣隊形で行軍するよう命令した。しかし、皇帝が先頭を行く親衛隊のみがこの命令に従っていた。あらゆる局面で騎兵の不足が足を引っ張る一方、ロシア軍はコサック兵によって波状攻撃を仕掛けてきた。それに加えて不毛の地では、あらゆる物資の欠乏によって既に兵の規律の維持は果てしなく困難になっていた。その中で更に増すロシア軍からの攻撃を受けて、何千もの兵士と馬が命を落としていった。

クトゥーゾフはやっとフランス軍に追いついていたが、フランス軍にとって運が良いことに、クトゥーゾフは接近戦を挑もうとせず、ただ側面に張り付いて、コサック兵で妨害するか脱落兵を襲撃するだけだった。こうして、今や5万兵もいない大陸軍の残骸は、9日にスモレンスクに到着し、14日まで休息を取ったが、生き残った兵士たちは休息も、食物も、衣類も望むように得られなかった。

その後、行軍は再開され、親衛隊が先陣となり、ネイが後衛を命じられた。 16日、クラスノイの近くで、ロシアの前衛部隊が隊列を遮ろうとした。ナポレオンは応戦するため全軍を停止させ、かつての活力を漲らせて攻撃し、道から敵を一掃させるのに成功したが、ネイと後衛部隊を置き去りにする犠牲を払った。 比類なき胆力と困苦を伴う一夜の行軍の果てにネイはロシア軍を引き離すことに成功したが、オルシャの本軍にたどり着いた時には、彼の6,000兵のうち残存していたのは800兵のみだった(11月21日)。
殿軍を指揮するネイ

8.ベレジナ


架橋するフランス工兵隊
フランス軍はダヴーとネイ指揮下の2旅団を丸ごと失いながら、南北から攻撃を仕掛けてくるロシア軍の機先を制そうと急いだ。11月18日のクラスノエの戦いののち、理由は定かではないが、クトゥーゾフは追跡を止め、ナポレオンは運良くドヴィナ河沿いの無傷の自軍と合流でき、それによっていくらか騎兵の損失を賄うことができた。またナポレオンは、ヴィクトルあてに、ベレジナ河沿いのボリソフにて合流するよう命令を出した。寒さは今や過ぎ去り、雪解けによってこの地方は泥沼のようになっていた。南から進軍してきた露将チチャーゴフがボリソフに到着したという報が届く。ナポレオンは、ヴェセロヴォを渡河地点として選び、23日午前1時にウディノに命じて、そちらに向かって架橋させようとした。この命令の実行中、ウディノはボリソフ近くでロシア軍の前衛部隊と遭遇し、混乱させて後退させたが、そこにある既存の橋を彼らが破壊するのには間に合わなかった。この唐突な攻撃再開はチチャーゴフを混乱させ、本当のベレジナ渡河地点を見誤らせた。それによって、ヴィクトルは到着するまでの時間稼ぎができ、ウディノも上記の場所の近くにあるスタディエンカで架橋する余裕ができた。しかし、渡河地点が一箇所である方が多くの点で目的に適していた。したがって、ナポレオンはエブレ将軍下の架橋部隊をそちらに送ったが、彼らが到着した時には何も準備されておらず、多くの時間が失われた。一方、ヴィクトルは本当にそこが渡河地点か疑念を感じて、スタディエンカへ至る道を無防備にしており、露将ウィトゲンシュタインはその道を猛追した。

ベレジナの戦い

26日午後4時までには橋は完成し、渡河が開始されたが、徐々に近づいて来るロシア軍による抵抗は免れなかった。渡河は橋の崩落によって時々中断されたが、一晩中継続された。 27日の丸一日中、落伍兵らが渡り続ける一方で、規律を十分維持している者らが戦闘員として用いられ、彼らを防護していた。 28日の午前8時、ロシア軍のチチャーゴフとウィトゲンシュタインは河の両岸から攻撃しようと前進したが、ネイ、ウディノ、ヴィクトルの下に残っている数少ない部隊の素晴らしい犠牲によって食い止められ、午後1時頃には常備軍の最後の集団が橋を渡り切り、わずか数千兵の落伍者が河の対岸に取り残された。


その日にフランス兵が軍のどれ程を占めていたかは定かではない。 ウディノとヴィクトルの兵は比較的損耗されておらず、計2万兵ほどいたかと思われるが、ネイが指揮下において戦った兵の数は全軍見渡しても6,000兵を超えることはなかった。 殺された兵の数はさらに判明しないが、3日後に軍務を遂行可能と報告された兵の総数は8,800にしかならなかった。

9.終幕


しかし、ヴィリニュスへの道程は長く、日に日に増す寒気、身の毛もよだつほどの飢餓、規律の混乱により、苦痛と絶望は最高潮に達する。それゆえに、軍隊の撤退は実質的に蜘蛛の子散らす逃亡と成り果てた。もはや中隊レベルでさえも体をなしていなかった。誰もが助かることしか余念がなく、我先にと同僚や見知らぬ者らから衣類を剥ぎ取っていった。彼らはみな散り散りとなって、行く先々で疫病を撒き散らかした。12月5日にスマルホニに到着し、そこでこれ以上彼の手では何もできないことを知ったナポレオンはミュラに軍の残骸の指揮権を投げ渡すと、翌年に向けて新しい軍隊を編成するためにパリに向けて極秘に出発した。全速力で彼は移動し、ワルシャワ、ドレスデンを経由した312時間の旅の後、18日にテュイルリー宮殿に到着した。

皇帝が去った後、寒気は激しく増加し、気温は-5℃に下がった。12月8日にミュラはヴィリニュスに到着する。一方、ネイの約400兵とウレーデのバイエルン兵2,000は依然として後衛を務めていた。 ナポレオンが指示したヴィリニュスでの冬営を実行するのは不可能だったため、10日に撤退は再開され、12月19日にミュラと親衛隊400騎および馬を失った騎兵600がようやくケーニヒスベルグにたどり着いた。

ヴィリニュスにたどり着いたフランス軍

他方フランス軍の最右翼ではシュヴァルツェンベルクと彼のオーストリア軍が自国を目指して移ろっており、そしてヨルク将軍のプロイセン軍はリガ付近でマクドナル元帥の指揮下にあったが、タラウゲにてロシア軍と交渉を持っており、そのためフランス軍の左翼の押さえは失われた。こうしてケーニヒスベルグも安全とは言えなくなり、ミュラはポズナンに後退すると、1月10日、そこにてウジェーヌ・ド・ボーアルネに指揮権を渡してパリに帰還した。

ロシア軍の追撃は事実上ニーメン河までで停止する。彼らの軍隊もひどい手傷を負っていたため、休息期間が絶対的に必要だった。

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