2017年5月30日火曜日

ウジェーヌ 補記

ウジェーヌ・ド・ボアルネ

ウジェーヌの章であるが、初版からは上昇志向はやたら強いものの、ナポレオンの継子であることから、周囲のお膳立によって一人前にやれている残念な人物との印象を受けるが、改訂版では、その辺りフォローがされている。ロシアからの地獄のような撤退戦を懸命に指揮したことをより詳細に描写されており、またナポレオンの退位まで、断固としてオーストリアの進軍を妨げたとして賞賛されている。人柄についても、寛大で、飾り気が無く、義理堅く、気立てがよいとの同時代人の評価を紹介している。後年の優等生的なイメージにより近くなっているのかもしれない。

ウジェーヌはナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの連れ子として、継父ナポレオンから大いに引き立てられる。1804年の帝政の幕開けに伴い、正式に王朝の一員とされ、次いで1806年にナポレオンの養子となる。ただし本書で述べられるようなフランス帝国の後継者としての立場だが、他にもナポレオンの兄ジョゼフや弟ルイの息子なども名を取りざたされており、実際の優先順位は流動的だったと思われる。ジョゼフィーヌの離婚の後、フランクフルト大公の継承権を授与されたが、これは彼が皇統から除外された事を公布するものだと理解されている。

1813年から1814年かけての北イタリア戦役での彼の戦いぶりは、ナポレオンへの忠誠もしくはイタリア王位を確保したいという思いのいずれが動機か色々な見方ができるだろうが、後者に関してはナポレオンはさほど配慮する気はなかったようである。1814年のパリ条約では、ウジェーヌは「フランス国外に相応しい地位を付与される」と簡単に規定するのみで、ナポレオンは彼のイタリア王位継承について保証をしていない。

公式には皇統から外されたが、ナポレオンの退位の後、実子のローマ王と並んで継承者候補に推されたことは、フランス国内外で彼を支持する向きがあったことを示す。また百日天下後の2度目の退位の後も、フーシェらによって擁立を画策されたと伝えられる。実子と競合する継子、そうした視点で、帝国が傾いていく時期の彼の動静をナポレオンとの関係をからめて眺めても面白いのかもしれない。

帝国崩壊後、2,000万フラン以上の価値のあるイタリアの領土は失ったが、ウィーン会議にてウジェーヌはバイエルン王国のロイヒテンベルク公およびアイヒシュテット公の称号を認められる。またロイヒテンベルク公家は、バイエルン王家嫡流が絶えた際に王位請求権を有する旨宣言を受け、ボナパルト家であるよりもバイエルン王家の分流として名実共に列強から認可される。以降、彼の子女は婚姻によって欧州の君主諸侯と一層融和していくのである。

ナポレオンはその遺書でウジェーヌに、モントロン(セント・ヘレナの随行員の一人)に20万フランを譲渡するよう指示したが、ウジェーヌはそれを拒んだため、モントロンから起訴された。ウジェーヌの死後もモントロンは遺族に対し1850年代まで支払いを請求し続けた。

本書ではリンダウとあるが、実際はミュンヘンにて1825年2月21日に没する。

ロイヒテンベルク宮殿(ミュンヘン)
ウジェーヌと家族の居城として1821年に完成。
建設費は1819年のバイエルン王国の建設用予算
総額にあたり、建造当時のミュンヘンで最大級
の宮殿だった。内部のロイヒテンベルク・ギャ
ラリーには、公家累代の芸術作品が所蔵されて
いる。

2017年5月28日日曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(1)



ウジェーヌの父、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵は、西インド諸島のマルティニーク生まれだった。彼はまだ若いうちから共和主義に深く傾倒し、北米の独立戦争に身を投じた。その戦争が成功のうちに終結したことが引き起こした興奮は欧州を駆け巡り、彼はフランスにおいても同じ事が出来ないはずは無いとの望みを抱くようになった。彼の若い妻ジョゼフィーヌと共に先祖の土地へ帰還すると、1789年にブロワ貴族によって三部会の代表とされた。その後、国民公会の一員となる。革命の大義に示した熱意によって、彼は2度に渡って国民公会の議長に選ばれ、ついには重要なライン方面軍の指揮権を委ねられた。しかし、パリの民主主義者らが貴族出身の将校を罷免、さらには追放させる法令を通過させたため、彼は任務を強制的に解かれ、国外退去を命じられた。
監獄のボアルネ子爵と家族

妙にのぼせ上がった彼はその命令に従わず、兄のボアルネ侯爵の地所に引退した。もし彼が、自分が潔白だと思う以上に、自由という大義に向けた己の努力が、邪魔者から政府当局の怪物たちまで、あらゆる者を狩りたてる血に飢えた猟犬から身を守ってくれると期待したのならば、彼は直ちに哀れなまでに現実に気づかされる。彼は逮捕され、投獄されると、彼を裁く者たちにとってさえ取るに足らないような罪状で有罪とされ、1794年7月23日、ギロチン刑に処された。

彼の息子ウジェーヌは1780年9月3日にブリュターニュ地方にて出生し、そして14歳の時、父の死に直面した。未亡人となった彼の母がボナパルトと結婚すると(1796年)、かの将軍の幕僚としてイタリアやエジプトに伴い、将軍の運勢が上昇するとその分け前を得るようになった。若くして統領の近衛旅団の指揮を委ねられ、マレンゴの戦いでは何度か目覚ましい働きをした。彼の継父が権勢の頂点に到達したことは、彼の野心にとってさらに好都合だった。彼は帝国の皇子とされ、大法官の任命を受け、そして1805年の6月、北イタリアの副王位に据えられる。

ウジェーヌ

ウジェーヌはそれでもまだ繁栄の絶頂には至っていなかった。1806年が明けると、ナポレオンの養子と公表され、ナポレオンによってバイエルン国王の娘のアウガスタ・アメリアと縁組された。同年ヴェネツィアがイタリア王国に併合されると、数か月後にヴェネツィア公に叙爵され、ロンバルディアの鉄王冠の継承者との宣言を受ける。
バイエルン王女との婚礼
子のいない皇帝の養継子にして国王の義理の息子、そして立派な領土の正式な継承者である彼は、自身の光輝溢れる運命に心から満足したことだろう。そして、あたかも希望と幸福以外の未来は想定できないと安心しきっていた。彼はこの素晴らしき地位がどれほど不安定な地盤の上に組み上がっているか気づくにはあまりに若すぎた。他の者たち同様、彼は皇帝を無敵で、更には、たとえフランスのでなくとも、少なくともイタリア王位継承者の地位は確実と信じていた。彼は自分の母親が、実の世継ぎを諸国の支配者としたい夫によって離婚を画策されている事さえ知る由もなかった。

1809年、フランツ皇帝によって新たに戦端の火蓋が切られ、ヨハン大公が指揮するオーストリア軍がイタリアに侵入すると、副王は危険な状況に置かれた。6万以下の兵力しかない彼はあえて危険を冒そうとしなかった。相当な被害を受けつつヴェローナまで撤退したが、塹壕で囲まれたカルディエロで地歩を固める事で、敵軍の猛攻に対抗できるようになった。しかしながら、ふたつの出来事によって安全が確保されなければ、彼は降伏を余儀なくされただろう。そのひとつはマクドナル将軍が軍の作戦を指揮するために到着したこと、もうひとつはフランス軍のウィーン入城である。それまで優勢だったオーストリア軍にこの情報がもたらせるや否や、意気消沈した彼らは戦闘の継続は無理と判断して撤退を開始し、逆に追われる身となった。マクドナルはトリエステを押さえ、ウジェーヌはクラーゲンフルトを占領した。ウジェーヌがオーストリア領内を進軍している時、偶然にもヨハン大公と合流しようと八千の兵と共にレオーベンに向かっているイェラチッチ将軍と遭遇した。副王はこの小さな集団を攻撃すると、たやすく勝利を収めた。彼は行軍を続けたが、優勢の敵軍からの襲撃を懸念する必要はなかった。不安にかられたナポレオンは、彼を探すためにローリストンを派遣した。5月26日に両者は出会うと、副王はボナパルトの司令部があるエベルスドルフへ向かい、そこにて多いに満足の意を受けた。皇帝は彼の軍事的才能を激賞し、彼がこの戦役にて偉大な指揮官の資質を存分に発揮したと明言した—が、これはその対象には過度な評価であった。

ラーブの戦い(1809年)

彼はすぐさまオーストリアの皇子たちの招集軍隊を追い散らすためにハンガリーに送られた。あたかも運勢が彼の継父に2度目の賞賛の機会を与えようとしたかのように、6月14日、彼はラーブにてヨハン大公を相手に重要な勝利を収めた。しかしながら忘れてはならないのは、彼はより優れた将軍たちに補佐されており、兵力もかなり優勢で、彼が指揮していた兵員のほとんどはベテランのフランス兵だった。あまりの偶然のため述べておくが、この戦いの間、彼はおよそ1世紀半前にモンテクッコリがトルコを破った場所と同じ地にいた。この善戦が繰り広げられた場所より、彼は勝者として皇帝の元へ帰還した。皇帝から彼に浴びせられた賛辞はヴァグラムでの彼の勇敢な戦いぶりによって更に増大した。

ジョゼフィーヌの離婚
しかし、この勝利を収めた戦役が幕を閉じる頃、ウジェーヌが長いこと楽しみに思い描いていたおとぎ話がぶちこわしになる。パリに召喚された彼は、オーストリアの皇女が彼の母に成り代わって皇后の位に据えられるとの屈辱的な情報を知らされる。この状況はふたつの面で痛ましかった。この縁組は彼が愛着を感じていた両親の幸福を永遠に破壊し、そして彼自身の壮大な望みを消滅させた。しかし、彼はどのような異議も通らないと理解すると、ジョゼフィーヌに倣って服従を決めた。ウジェーヌは彼の家族の繁栄はひとえにナポレオンひとりに懸かっており、おそらく不当な仕打ちをすることなく、かつて気前良く授けてくれた寵愛の幾ばくかを再びもたらしてくれるのではと思い直した。そのうえ彼は、この途方もない帝国の領域、もしくはフランスの意のままに支配者を受け入れる状況に置かれた多くの国々のいずれかの、独立した国家の統治者となる希望を引き続き抱くことができる立場に据え置かれた。

2017年5月26日金曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(2)


イタリア副王 ウジェーヌ

数週間のうちに、彼はこの独裁者の意向に即座に服従した事への報酬の抵当のようなものを受け取った。じきに彼はそこから収益を得ると見込まれていた。彼はフランクフルト大公国における首席君主の継承者との宣言を受ける(1810年3月3日)。よしんば彼の期待がそれ以上の地位を望まなかったとしても、ヴェネツィアとフランクフルトの統治権—両方とも世襲されるーはこの上なく甚だしい野望を満足させるに十分だった。これらの領土によって彼は欧州で最も富める王侯となった。

ロシア遠征時
ロシア遠征では、副王は大陸軍の第4軍団を率い、極めて厳しい状況下でも優れた働きを見せる。ナポリ王[ジョアシャン・ミュラ]が突如大陸軍を離脱すると、彼にその指揮が押し付けられた。マグデブルクにて駐軍し、かつて巨大な軍勢だった物の方々に散らばった残骸を掻き集めると、皇帝が約束した補給を待った。連合国軍によって追撃された為、思い切って撃って出るが、完膚なきまでに打ち負かされる。しかしこの敗北はフランス軍の公告では微塵も言及されなかった。こうした文書のみならず、帝政下の国史に関したフランスの書物のほとんど全てに共通した欺瞞を上回るものは存在しなかった。戦勝は念入りに誇張されたが、逆の場合は注意深く隠匿されていた。のみならず、最も決定的な敗北さえもしばしば相当な成功へと置き換えられた。ルッツェンで彼はフランス軍の左翼を率いたが、オーストリア軍の攻撃を引き付けておくだろうと予想した皇帝によってイタリアへ送還される。

実のところ、鉄王冠を確保するには良い潮時であった。
ロンバルディアの鉄王冠
オーストリアのヒラー将軍がイリュリアに向けて進軍中だったのだ。8月、副王はフランス=イタリア軍とともに戦場に行く。それと同時に、全イタリアの民衆に向けて、彼が本気で述べるところの、「不統一の国家の上に長年君臨し続けた敵」に対して蜂起するよう布告を発した。しかし、民衆はその呼び出しに微塵もなびかなかった。たとえ彼らが外国の支配に屈せざるをえないとしても、実のところ、そうなるのは不可避だと彼らは身に沁みて学んでおり、また彼ら自身の度胸の無さ、そして団結力の欠如はおそらく未来永劫変わらないので、オーストリアの穏やかな統治の方が、コルシカ人がかける鉄の軛よりもずっと好まれたのだった。ヒラーは前進し、何度か小競り合いが発生したが、決め手となる物はなんら行われなかった。対峙し合うふたつの軍勢は互いに単なるにらめっこをしたがっているようで、時たま大したことない行動をしてみせていた。両方ともこの戦役の決着はここではない場所でつき、よって彼らの奮戦がその運命に多少も影響しないことを良く分かっていた。しかしオーストリア政府はこの将軍が遅々として前に進まないのを不満とする。彼はベルガルデ元帥に取って代わられた。これはウジェーヌにとってまだ最悪な出来事では無かった。イタリア軍はかなりの人数が脱走しはじめていた。そして、それまで中立を装っていたミュラが公然と連合側に付くと宣言したのだった。危険を察した副王はミンチョに後退すると、強固に防御を固める。だが、物事の様相が脅威に満ちていたにも関わらず、敵二人からの本気の攻撃を怖れる必要性は生じなかった。片方はフランスへの敵意ではなく、ただ単に新たな友軍の味方であると示す目的で戦場に赴いており、もう片方は自国の軍隊がパリの門にたどり着いていることを察知して、前者に倣ってほとんど何もしないでいた。こうした暗黙の停戦期間中には、それぞれの陣営の指揮官の間で時たま親善の挨拶が交わされることもあった。ベルガルデは敵の宮殿を訪問し、副王の生まれたばかりの子供を洗礼の水盤から引き上げる役を務めた。ウジェーヌはこの格別な客を可能な限り慇懃に遇している。両者とも西方で起きている重大な出来事の行く末をハラハラしながら見守っていた。

ミンチョ川の戦い(1814年)

2017年5月25日木曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(3)

ウジェーヌ

パリ降伏の報がもたらされると、副王はこれ以上の抵抗を望まなかった。それまで有していた権力の支柱は彼の足元から取り外され、イタリアの王冠を継承する望みは崩れ去った。それでも副王は依然として、たとえ国王の高位は無理としても、副王位もしくは少なくともヴェネツイア公爵位を連合国の君主らに認可してもらえるのではと期待した。実際、彼が請求権を有すると思っている物を手にいれる為に、公使を派遣してそれが議会の意向であると喧伝しようとし、欧州の調停者ら対し、そう主張する文書へ署名するよう将校達に指示した。しかし、議会、軍隊ないし民衆から多大な好意を得ていると思い込んでたとしたら、彼は直ちに現実に気づかされる。彼はその三者全てから嘲弄され、憎悪されていた。嘲弄、それはフランスの支配者の傀儡であったせいであり、憎悪は彼があの独裁者の命令を執行した際のやり方と、土地の住民らに向け頻繁にとった侮蔑的な態度のせいである。彼が己の地位を確保する陰謀に着手しているとの疑惑は暴動を引き起こし、その渦中で彼の大臣のプリナは虐殺され、また彼の考えに同調していると思われた数名の議員達は呪詛と脅迫の対象となった。まっとうな反応であるが、彼は自分の命が部下のそれ以上に尊ばれていないだろうと恐れおののいた。そしてかねてより集めていた最も大事な貴重品をマントゥアにて回収し、彼の首都[ミラノ]を夜間のうちに抜け出して、バイエルンの宮廷を目指して逃亡しようと決意する。しかし彼の目論見は人に漏れたか、少なくとも疑いを持たれた。軍隊への莫大な金額が未払いのままになっており、軍人達は代表数名を遣わしてその金を請求した。フランス軍の擲弾兵からなる代表団は、彼の心情に微塵も配慮すること無く与えられた任務を遂行した。実際のところ、彼は国家の負債のために支出されるべき金を国庫から盗み取っており、敬意を払うに値しなかった。軍人達は彼を「ムッシュー」と呼び、大声で即座に金を支払うよう主張した。彼らの不遜な態度を罰しようにも状況がそれを許さなかった。彼が長年統治を任されたこの街のただ中で、捕縛されかねなかったのだ。彼は軍人達に彼らが自由に使える金を手一杯振舞うと出立した。もはや一刻の予断も許されなかった。家族および選ばれた随行員を伴って、彼は内密にマントゥアに急行すると、彼の財宝を確保した。

ミラノ民衆による大臣プリナの虐殺(1814年)

ミュンヘンに向かうには、皇子はチロルを横切る必要があったのだが、ローヴェレドに差し掛かった時に思いもよらぬ難局に出くわす。そこの司令官であるオーストリア人の大佐から、「皇妃はチロルを何も心配すること無く通過できるが、皇子は命の危険なしに大ぴらにそう出来ないだろう」との脅しを受ける。チロル人は数年前に彼らが最も崇敬する同郷人[アンドレアス・ホーファーと思われる]をウジェーヌがスパイとして逮捕の末に銃殺したことを記憶しており、よって血を血で贖わせる気概にいやというほど満ちていた。状況はのっぴきならなかった。ミラノに戻れば、彼が給金を掠め取った軍人と、抑圧してきた民衆の憤怒に身を晒すことになるからだ。オーストリア人司令官は彼に制服、馬車、記章そして従者を提供し、この窮地から救い出した。司令官は、この国を全速力で通過すること、そして何よりもフランス語を決して口にしないよう迫った。ウジェーヌはこの親切な助言に従い、無事ミュンヘンにたどり着いた。

アンドレアス・ホーファー
(フランスの支配に抵抗した
チロル人リーダー)

皇子がミュンヘンに着くや否や、母が死去したためにパリに呼び戻される。ルイ18世は彼を良く遇し、本来のボアルネ将軍ではなく、「皇子」と呼びかけた。会議にて寛大な処置を懇願するため、彼はパリからウィーンへ足を向けた。そこにて彼が君主諸侯から受けたもてなしは、彼の懇願がおそらく完全に失敗したわけで無いと立証し、且つ、彼が今まさにエルバ島から大陸に戻ったナポレオンに、セント・ヘレナに身柄を移送させようと連合国君主らが考えていると告げたとの深い疑惑が実は存在しないのではと思わせた。この疑惑—おそらく疑惑以上だろうーは、彼を新たなフランス貴族の一覧に入れたナポレオンによって確定される。もはや君主らの恩情は期待できないので、彼はまずバイロイトに、次いでミュンヘンへと身を退くと、事の成り行きを見守った。1816年4月、彼のより高みを目指そうとする夢が潰えた時、彼は家族と妹のオルタンスと一緒にコンスタンツ湖[独:ボーデン湖]の側のリンダウの街に住居を構え、1825年にそこで死去したとされる。

リンダウ、ドイツ・バイエルン州

ウジェーヌの才能は他よりも劣っていた。彼はもっぱら甚だしい虚栄心に満ちており、冷静沈着で堅実な判断を必要とする状況における慎重さが全くもって欠落していた。兵士としても勇気がかけており、将軍としてもフランス軍の中でほとんど最下位にいた。彼を最優秀の元帥たちと肩を並べさせようと望んだボナパルトの桁外れの賞賛は、何の驚きももたらさなかった。なぜならば、この尋常ならざる人物の判断は、偏見とえこひいきと気まぐれによって頻繁に歪む事が良く知られていたからだ。実際のところ、皇帝は自身の派手派手しい賞賛を反証するかのように、若き副王がオーストリア軍からの猛攻撃によって危険に晒されている時、必ず熟練した将軍をイタリアに派遣していた。

統治者としては、ウジェーヌはより好まれていた。しかしながら、彼は身の回りを、彼の名前をおそらく抑圧の道具として利用した貪欲かつ無節操な廷臣たちで固めていたので、民衆の不満の矛先となった。1813年から1814年の戦役中、彼はイタリアの臣民を臆病者と激しく非難して、許しがたいまでに彼らを立腹させた。確かに彼らは臆病者であったが、統治者である彼はそれを言ってはいけなかった。もし彼が賢ければ、憤慨させることなく、あらゆる手を使って彼らの勇気を奮い立たせただろう。こうして、ウジェーヌはあらゆる者からの憎悪の対象となった。その中には、ウィーン会議にて彼の鉄王冠の請求権を申し立てたることになっていた数名の議員さえ含まれていた。彼らは進んで憎しみを犠牲にしても利益を確保しようとしており、かくも弱々しい統治者の下では、彼らの権勢と強欲さはひたすら放埓となっていた。

ウジェーヌの娘のひとり、ロイヒテンベルク公女は現在ブラジル皇后になっている。もうひとりはスウェーデンの王位継承者オスカル・ベルナドットと結婚している。

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2017年5月21日日曜日

ジュールダン 補記

帝政期よりも革命戦争で活躍した人物であるが、初版ではいまいちその辺りが伝わらない。他方、改訂版では加筆されており、司令官として有名なワッチニーやフリュールスの戦いで勝利を収めたことが触れられている。また議会では熱烈なジャコバン派軍人として、王党派や宗教界よりのピシュグリュやカミーユ・ジョルダンに対抗し、フリュクチドール18日のクーデターにおいては「剣にかけて」共和政に忠誠を誓ったことが述べられている。そして何よりも重要な、国民皆兵への道を開く画期的な『1798年の徴兵令(ジュールダン法)』の制定に彼が関わったことを書き漏らしていない。オーストリアのカール大公にシュトックアハの戦いで打ち負かされたが、それは総裁政府の軍事作戦の無知によるものとの彼自身の意見も紹介している。

フリュールスの戦い(1794年)

個人的に興味深かったのは、改訂版におけるブリュメール18日の出来事として、セント・ヘレナのナポレオンが当時を振り返って、
「ジュールダンらは私に軍事独裁を取るよう勧めた」
と発言したことに対し、ジュールダンの
「ボナパルトは16日に私を晩餐に招待した。席を外した際に我々は話をした。その内容はいずれ他のブリュメール18日に関連する文書とともに出版されるだろう。その時にわかるだろうが、あれから数日後の追放者リストに私の名があるとしたら、それはあの将軍が最高権力を濫用すると予測し、私は決して彼の手助けはしないと宣言したからだ。彼が曖昧な口約束でなく、民衆の自由を積極的に保証しない限りは。もし軍事独裁を勧めていたのなら、私はもっと良い扱いを受けていたはずだ」
との反論を紹介している箇所である。

元帥任命以降の描写は大きくは変わらないが、1830年に七月王政が樹立されると、ルイ・フィリップ(かつてジュマップで共に戦った)から廃兵院の長官に任命されたことが追記されている。

実際のところ、軍指揮官としての彼は政府上層部にかなり翻弄され続けた。北方軍司令官の時には公安委員会に目をつけられ、あわや逮捕されそうになるわ、サンブル・エ・ムーズ軍司令官の時はカルノーやサン・ジュストに尻を叩かれるわ、1796年の戦役が失敗に終わった根本的な原因は政府から押し付けられた無茶苦茶な作戦にあるのに、スケープゴートとして責任を取らされるわ、散々である。ジョセフ・ボナパルトの軍事顧問として共にスペインに行ったが、他の元帥連中はナポレオンからの直接指示を仰ぐ一方、ジョセフにも彼にも注意を払わなかった。ただし人柄は寛容で、生涯にわたって自由主義者であり続けたと言われる。それをナポレオンも認識していたのか、セント・ヘレナにて「私はこの人物をひどく扱った。彼こそ真の愛国者だ」と(珍しくも)改悟している。

老ジュールダン

2017年5月18日木曜日

1-32-a ジャン=バティスト・ジュールダン


ジャン=バティスト・ジュールダンは1762年4月29日に、リモージュに出生する。16の歳に軍隊に入隊するとアメリカ独立戦争に従軍した。フランスに帰還すると、中尉の将校任命辞令を受け、1790年には地元の国民衛兵の猟兵大佐となった。その翌年、彼は大隊の隊長としてデュムーリエの指揮する北方軍に派遣された。

この時以降、1797年まで、彼はベルギーやドイツ方面の戦線に絶える事なく従事し、連合国軍との重要な戦いのほとんどに参加した。以降の彼の昇進は急速で、1793年には将軍まで昇進を果たし、サンブル・エ・ムーズ軍の司令官として、いくつかの成功を収めた。彼は数多くの砦を攻落し、たびたびオーストリアの軍団を打ち負かした。だが、ラティスボン[現在のレーゲンスブルク]近傍にてカール大公に翻弄され、ライン川まで手ひどい潰走を強いられた。

続く2年間、ジュールダンは総裁政府から召還され、五百人会の議員となった。しかし1799年、彼は再びかのオーストリア大公と矛を交えに向かう。シュワーベンで対峙したが、2度目の敗戦を喫し撤退を強いられ、マッセナと交代させられた。
帝国元帥 ジュールダン

ブリュメール18日の政変時、ジュールダンはボナパルトに荷担しなかった。よって彼は五百人会から除外され、更には政府からも追放された。けれども、彼には幾ばくの軍事的名声が無いわけではないので、ゆくゆく恩典のようなものを受けるようになる。1800年、彼はピエモンテ軍の司令官となり、1802年には国務院の議員となった。翌年にはイタリア方面軍の司令官となる。そして1804年の記念すべき年に、元帥に任命された。しかし、オーストリアとの戦争が勃発した時(1805年)、再びマッセナに取って代わられた。彼はこの不面目な仕打ちに不平を言ったが、効果は無かった。1806年にジョゼフ・ボナパルトの下でナポリを統治した。そして1806年、ジョゼフに伴って副将としてスペインに同行した。

ジュールダンは他のフランス軍の将帥の誰よりも頻繁に敵から叩きのめされたと言われる。あだ名の『かな床』は彼の不成功を十分に表現している。彼は置かれた状況が彼の身に余ると即座に判断した。彼とジョゼフは相互に文句を言い合った。意欲を失い、うんざりさせられた彼は1809年の終わりに辞任を求め、受理された。

ロシア遠征が決定された時、この元帥は嫌々ながらもスペインに無理やり戻され、マドリードからの無残な撤退を指揮し、しまいにはヴィットリアの戦いにて大敗北を喫した。この決定的な敗北は彼のこれまでの戦績を曇らせてしまった。この戦場から撤退する際に、彼は元帥杖を取り落とし、それを見つけた英国兵によって晒し物にされてしまう。ジュールダンはパリに帰着するまで気が休まることがなかった。パリにて彼は主君の没落を静かに観察し、その退位の後、ルイから軍隊の指揮権を与えられる。

 ボナパルトがエルバ島から帰還すると、ジュールダンは田舎に引きこもった。彼はしばらくの間どの進路を取るべきか決められなかったが、最終的に貴族院の議員となる旨同意した。戦場での失態ぶりは周知の事だったので、ワーテルローでは用いられなかったが、ブザンソンの統治を任された。ナポレオンの2度目の退位の後、彼はルイの復権を誰よりも先に受け入れた。1817年に第7師団を任され、翌年には一新された貴族制の一員に加えられた。

「ジュールダンはまずい指揮官だった」とナポレオンはセント・ヘレナにて述べている。また「彼は愚かだ」とも付け加えた。しかし彼の心は頭脳より優れていた。1800年の彼のピエモンテ統治はとても穏当だったので、その16年後、サルディーニャ国王はダイアモンドで煌びやかに装飾された彼の肖像画を送っている。

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2017年5月17日水曜日

マレ 補記

マレの章だが、初版と改訂版で大きな違いはない。若干加筆されている点として、外務大臣に任命された事について、ザヴァリー(ナポレオンの腹心)の、

「その高みから失墜した前任者(シャンパニィ)と比較して、与えられた新たな機能を担うには適さない」 

およびプラット司教(ナポレオンの秘書・ワルシャワ大使も歴任)の、
「彼は順番も分類もわからず、保管箱と書類を果てしなくごちゃまぜにしていた。そのため、私はこれがあのマレ氏かと悲鳴をあげた。革命の全ての時期、すなわち国民公会の記録係控室から、帝国の至高の大臣職まで登りつめた人物が、今では人々をその問題行動で当惑させている。これが新聞記者固有の資質の持ち主を国家の大臣に転換させたらどうなるかという事か!」

との厳しい意見を紹介し、マレの行政管理能力に疑問符を投げかけている。

おそらく、ナポレオンの書記官としてその指示を各部局に的確に伝達する能力に優れていたのだろう。軍事における参謀長ベルティエの役割と似ているのかもしれない。ただ反面、本書の描写によるならば、自ら物事を采配・管理する能力は十分に備わってなかったらしい。

その後のマレだが、七月王政が樹立すると、ルイ・フィリップにより隠居の身から登用される。そして1839年にパリで死去する。


2017年5月16日火曜日

1-20-a ユーグ=ベルナール・マレ(1)

マレ
ユーグ=ベルナール・マレは1763年の7月22日にディジョンにて地位のある家の子として出生する。

若い頃の彼は軍事に興味を示し、もし家庭の事情が彼の意思を妨げなければ、軍隊を志したことに疑いは無かった。彼は法曹の仕事に就く為、法学を学んで学位を取得したが、彼に外交官の道を進んで欲しいと願った父親の意向に従ってそれを断念した。従って彼はパリに移ると、著名なるブショーによる自然法と国家法の講義に出席し、また社交界にも知遇を得た。しかし彼のパトロンであったヴェルジャンヌ伯爵の突然の死去により、彼は三たびキャリアを断念せざるを得ず、海図もコンパスも待たない状況で人生という大海の中に置き去りにされた。将来の計画を固めるのにこれらの境遇がどれほど役に立っただろうか!


若い頃のマレ
だが若き野心家はかくも無為に長い時間を過ごす事は無かった。革命が生じると、彼はこの出来事が彼にどのような利益をもたらしてくれるか思案した。そして彼は公務と国際法の分野に戻る以上に良い道は無いと考えた。彼は三部会の動向を間近に見るため、ヴェルサイユに居を構えた。議会に引っ切り無しに出席し、スピーチ原稿の冒頭文を書き上げたが、それは今後の参考の為に役に立つと思われたからである。自分でも気付かぬほど彼はこの仕事に没頭しており、彼はあらゆる名だたる大演説の大要をひとまとめにしていた。能率的な書記官かつ言葉の略書きの専門家として、彼は国民公会の出来事の公平な縮図のような物を作成できるのではと考えた。しばらくの間、彼はそれらの著作物を世に出そうとは思わなかったが、彼の友人の助言と何よりも逼迫した状況に急かされて、ようやくそれらを日々出版することにした。この試みは大成功で、彼がその労作をモニタール紙に掲載したことで、わずか一月のうちに、この新聞の購読者数は10倍となった。


彼がこの仕事を政治の舞台へのデビューに至る前段階とみなしていた事に疑いはない。だが、もたらす儲けは相当な物だったので、国民公会が解体されてこの仕事を失った時にはおそらく後悔しただろう。彼の国内政治の知識を広げる以外にも、この仕事は彼の野心に大いに役に立ち、多くの著名人との知遇を得ることができた。その中にはやがて彼を政務の世界へ誘ってくれるルブランもいた。マレの外交官としてのキャリアはハンブルクへ赴く使節団の秘書官として始まる。その後、より強い権限を与えられてハンブルクからブリュッセルへ移るが、彼の最も重要な任務はロンドンにてイギリス政府と和平交渉にあたる事だった。この件に関して彼はピット氏と会談を持ち、その過程にて、彼はこの任務が上手く行くだろうとの感触を得た、もしくはそのような妄想をしたが、彼の雇い主の政府は彼の提案に対し何ら信用を付与する性質を持ち合わせていなかった。やがて、ルイ16世の処刑によってあらゆる交渉は怒りのうちに立ち消えとなり、マレと駐在大使はこの国から即座に退去を命じられた。



2017年5月15日月曜日

1-20-a ユーグ=ベルナール・マレ(2)

セモンヴィル
パリ帰還の直後、彼はナポリ王宮への全権使節に任命された。1793年の7月、彼はコンスタンチノープル大使のセモンヴィルと共に目的地に向けて出発したが、両人ともオーストリア人に捕まり、マントゥアの牢獄に収容された。これは国家の主権侵害とは見なされなかった。フランスは共和国として認可されておらず、従って彼らは公人の身分を有していなかった。彼らに対する認識はつまるところ、隣国に反乱の火の手をつけて回るゴロツキの一団以上でもそれ以下でもなかった。また、オーストリアがこのような仕打ちをする特別な理由があった。時のオーストリア皇帝の叔母[マリー・アントワネット]は監獄に収容中で、処刑された彼女の夫君と同じ運命をまさに辿ろうとしていたからだ。

マレが収容された牢獄の衛生環境は劣悪で、彼の健康は深刻な被害を受けた。偶然にも、また偶然以上に名誉なことに、彼はより健康的な場所へと身を移すことができた。著名な医者である彼の父は、実証哲学の分野でも際立った成果を残しており、かつては欧州中に名声を轟かせていた。マントゥア学術院の総長であるカステラーニ教授は若きマレが収容されている事を聞きつけ、学術者から構成される代理委員会の議長として当局にかけあい、科学の世界で名を良く知られた人物の息子を解放してもらう許可を得た。彼らの仲裁によって、彼と彼の共連れ達はより空気が清浄で快適な牢獄があるチロルのクーフシュタイン砦へと身柄を移された。以前より厳戒な監視下に置かれたが、彼らの健康は急速に回復していった。


この砦での退屈な時間から逃れるために、マレは日々を著述に費やした。彼には物を書くにあたり必要な材料を持ってなかったが、彼の化学の知識がインクになる素材の生成を可能にした。彼は部屋の隅に古いペン軸があるのを見つけ、また看守から請い受けるか盗むかして紙を数枚入手した。これらの数枚の紙と、使い古したペン軸によって、彼は実際に喜劇を2、3作と、5幕から成る悲劇を書き上げたのである。これだけではない。彼は石炭の端くれを用いて、彼の牢屋の4つの壁を科学に関する論文で埋め尽くしたのである。このような逆境の中で著作が与えてくれる慰めの実例を目にできるとは喜ばしい限りである。

オーストリア軍に連行される2人
22ヶ月に及ぶクーフシュタインでの収容生活の後、マレとその仲間、そしてデュムーリエが明け渡した共和政府の代表団たちは、マリー・テレーズ王女(後のアングレーム公爵夫人)との捕虜交換によって解放された。これは1795年の12月の出来事で、翌年早々にマレとセモンヴィルはパリへ帰還した。前者は疑いもなく、3年近くにも及ぶ収容生活の後なので、何らかの見栄えが良く実入りの良い地位に即座につけるのではないかと期待した。しかしながら、総裁政府はこの二人の大使が勇気と節度で持ってしてフランスの名声を高めたとの判断を行うにあたり対応に苦慮させられた。彼は国王殺しに手を下した者達からの感謝もしくは正義を求めた愚直さによって当然のごとく処分を受けた。1年半もの間彼は無職で過ごし、あまりに貧乏なため然るべき必需品にも事欠くようになった。もし総裁政府が、彼がイギリス政府関係者数名と知己を得ている事を思い出し、それゆえ計画中のリールでのマルムスベリー卿との交渉に彼が役に立つと気づかなければ、彼の苦境はより長引いた事だろう。よって彼はリールに向かったが、フリュクチドール18日の政変は、イギリス政府に1日も安定したところない政府と交渉する事の不可能さを確信させたのみならず、総裁政府内の反和平派をより強化させた。彼は呼び戻され、再び無職となった。しかし彼の不遇は、ミラノ評議会が捕虜生活による損失の補償として付与した15万フランによって慰撫された。この結構な贈り物はボナパルトの勝利の賜物であり、フランス・イタリア政府のいずれからの好意に因るものではなかった。

クーフシュタイン砦

2017年5月13日土曜日

1-20-a ユーグ=ベルナール・マレ(3)

ボナパルトがエジプトから帰還するにあたって、マレが不面目な利用のされ方をした既存の権力体制の転覆を支援し、彼を前よりも安泰な境遇へ引き上げてくれた偉大な軍人の意図を助長するに何ら躊躇わなかった事は誰も驚かせなかった。彼は統領の国務長官という重職でもって報われる。この職務はやがて国家の省庁まで引きあげられる。

マレの国務長官用ポートフォリオ

1811年、マレ(この時バッサーノ公爵)はシャンパニィの後を継いで外務大臣になった。この重要な職務に際し、彼は溢れる熱意と前より軽薄な道義心でもってナポレオンに仕えたが、彼に求められた義務は彼の才能にとても釣り合わなかった。彼が公爵となった直後、その爵位に伴って尊大さが増した事を疑いもなく仄かしながら、タレーランはこう述べた。「全フランス見渡しても、マレ以上に厚かましい者は一人しかいない。それはバッサーノ公爵だ」。

公爵の節操の無さがいかなる物であれ、彼のボナパルトに向けた愛着心には一貫性があり、それはほとんど美徳と言っても差し支えなく、もしこれがより優れた人物へ向けられた物ならば一層立派であっただろう。他の連中—没落した皇帝に全てを負っている者達さえも—が手助けを必要としている時に離反して行ったにも関わらず、マレは彼を見捨てることなく、彼がエルバ島に向けて出発するその瞬間まで、職務に衰える事無い熱意と彼への尊敬を示し続けた。それ故、この忠実なる下僕が皇帝の帰還の企みに関与していた事は疑いなく、よって百日天下の間、彼は進んで公職を拝命した。彼の行動への弁明として、彼自身も、彼の親族も、彼の身近な関係者にもブルボンに恩を感じる必要がある者はいなかったと述べておく必要があるだろう。彼らはみな地位も称号も剥奪されており、誰も宮廷から厚遇を受けておらず、それを求めようともしていなかった。

ナポレオンの2度目の治世の間、マレの内務大臣及び国務長官としての采配は素晴らしく穏当だったので特筆すべき物となった。皇帝がマルセイユのアングレーム公爵を釈放する許可証を送るべきか否か迷っていた時、マレこそが自らの責任でそれを発行し、その撤回を不可能な物にした。皇帝が最終的にジリ協定の批准を拒み、ブルボン家を幽閉しようとしていた事に疑いは無く、それを考慮すれば彼は一層勇敢な行動をしたと言えよう。公爵の安全が保証されたと知った時、彼は大急ぎでナポレオンに自らの行動を報告した。彼が勇気ある行動を男らしく言明したことは、皇帝に深い感銘を与えた。「良くやった」と、いくばくかの沈黙の後ナポレオンは述べた。大臣は、「陛下、私はまだお役に立てると思います。そして、私が、まさに忠誠を捧げると決意した方へお渡しした辞任状を撤回したく存じます」。ブルボン家の解放は皇帝の寛大さではなく、マレの剛直さのおかげである事に議論の余地はない。この目覚ましい行為によって彼は後の国外追放を免れる事ができたのではと見る向きもあるだろう。セント・ヘレナのナポレオンはこの時の状況を仄めかして「バッサーノ公は未だに亡命先でさまよっている!」といみじくも叫んでいる。ルイは彼の甥がこの大臣に恩義がある事を知らなかったと信じる余地はある。もっぱら主君の再起に心を砕いていたこの大臣は、その目的に汚名を被せるような行為は何であれ避けようと努め、その成功を確実に成し得るあらゆる事を実施していた。彼はワーテルローにも参加し、大惨事となったこの戦場からの撤退時にはあわや捕虜となりかけた。

パリに帰還した彼はブルボンの復帰は不可避と判断し、彼の頭上に立ち込める波乱に対して備えた。フランスから追放された後、彼は5年間をシュタイアーのグラーツで過ごした。しかしその後に、国王から母国にて残りの日々を過ごす許可を得た。1826年、彼はブルゴーニュの地所に住まい、パリには殆ど出向かず、彼の子供たちの教育と育成に時間を費やして暮らしている。

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シャンパニィ 補記

初版があまりに簡潔すぎた反省か、改訂版ではアメリカ独立戦争に参加した事、海軍を再組織した事、バイヨンヌ会談で手腕を発揮した事が追記されているが、全体的に評価も芳しくない上、情報量も少ない。
このまま放っておくのも何なので、ちょっと調べて経歴を補充してみた。ネタ元は、Encyclopædia Britannica(1911)とフランス版Wikipedia。

【シャンパニィ略歴】
• 1771年、パリ軍事学校を卒業した後、15歳で王立海軍に入隊し、1775年に士官になる。そしてアメリカ独立戦争等に従軍し、1782年のセインツ海戦では、クローヌ号の副指揮官として参戦し、重傷を負う。働きにより、聖ルイ勲章の「シュヴァリエ」を授けられる。

• 1775年には、フランス海洋アカデミーの会員に選出される。その後1787年に退役する。

• 1789年、フォレの貴族院代表として三部会に送られる。出自に関わらず、彼は第三身分と協働して憲法制定国民議会を支援し、海洋法の制定や海軍の再組織に尽力する。1791年9月に憲法が制定され議会が解散されると、彼は所領にて引退生活を送る。

• 1793年、恐怖政治下に貴族であることから嫌疑を受け投獄されるが、翌年のテルミドール政変によって解放される。以降、表舞台から引いて暮らす。

• 1799年、ブリュメールのクーデターで政権を握ったナポレオンによって、国務院議員に選出され、立法府にて「共和暦8年憲法」を追認する国民投票結果について熱弁をふるった。こうした事から、ナポレオンからの好意を得た。

• 1801年から1804年にかけ、ウィーン駐在大使として赴任。フランツ2世には、産まれた子供の名付け親になってもらったとの事。フランツ2世は「帝国代表者会議主要決議」が決定したドイツ諸国の再配置を受け入れたが、ウィーン政府にナポレオン帝政を認めさせることができなかった。そしてパリに召還される。

• 1804年、内務大臣に任じられ、以降3年間、行政管理の第一人者として用いられる。同年12月に帝国議会が開会された際、彼は立法府に対し、帝国の置かれた状況を下記の様に述べ、共和政から帝政へ転換する事への弁明を計った。
「世襲制の他に偉大な国家を救済する物は無いのだと最終的に判明した。議会は公衆の不安を生み出す器官以外に成り得なかった」。
彼は国内の公共事業を監督するほか、学術振興やエトワール凱旋門の建築にも携わった。また大陸軍を維持する徴兵を実施した。ナポレオンが彼をこの重職に任じたのは、勝手な行動を怖れる必要が無く、従順に指示された事を実行するからだと言われる。

• 1805年、レジオン・ド・ヌール勲章の「大鷲」を授けられ、1808年に帝国伯爵に、そして1809年にカドーレ公爵に叙された。

• 1807年、ナポレオンはタレーランの後任としてシャンパニィを外務大臣に任命。前任者より気弱で言う事を聞きやすい人物なので、選ばれたと言われる。外務大臣として、1808年の教皇領の接収、スペイン王カルロス4世の退位に采配を振るう。後者に関しては、スペイン王家の内紛を見て、手を下そうとするナポレオンに「あの国の政治に秩序を再度もたらし、崩壊に突き進むのを食い止めるには強硬な手段が必須です」と手紙を書いて駆り立てた。彼は大陸封鎖令を各国に施行させ、また1809年のシェーンブルンの和約とナポレオンとオーストリア皇女マリア・ルイーザとの縁組の調整も行った。

• 1811年、ナポレオンとの諍いにより、大臣職を更迭される。アレクサンドル一世と親しく仏露関係を重視するシャンパニィとナポレオンとの間に意見の不一致があったとされる。以降、実入りの良い閑職の帝国主計総監に回される。

• 1814年、皇后マリア・ルイーザの摂政政府の国務長官として共にブロワに向かった。ナポレオンが退位すると、皇后からフランツ1世にナポレオン2世を認可してもらう為の使者として送られるが無益に終わった。その後ブルボンに帰順し、貴族院議員と提督のポストを得る。

• 百日天下時には再びナポレオンについた為、ルイ18世から貴族の身分をはく奪される。彼はルイ18世に自分の行動を正当化する覚書を渡したという。

• 1819年に貴族の身分を回復し、議会では右派に属した。その後七月王政期においても死去するまで貴族院に中道右派として議席を有した。

• 1834年、パリにて死去。彼の3人の息子はそれぞれの分野で名を残している。完。

管理理能力に優れ温順だが、腰巾着的なところもあった感じか。本文で言及される横領などの腐敗行為について、具体的に述べている資料は未だ見つけられていない。

2017年5月11日木曜日

1-16-a ジャン=バティスト・ド・シャンパニィ

シャンパニィ
ジャン=バティスト・ド・シャンパニィの公人としての人生は、事実、その主とほぼ同一であり、従って我々が彼個人について知りうる内容はとても簡潔である。

彼はルアンヌ出身で、その地に1756年に出生した。彼の家系はフランス人が呼ぶところの貴族に属しており、それ故、世襲の財産によるか、もしくは聖職者か軍人のいずれかの職業に就くことで、生計を立てるのが必定とされた。当初、彼は海軍を選び、1789年にフォレの貴族階級が彼を三部会の貴族院代表とするまで軍属であり続けた。しかし、革命政府期には人目をひく事は無かった。1793年、彼は追放者リストに名があるという理由で投獄されたが、政変によって自由を取り戻す。それ以降彼は公務から身を退いた。もしくは統領政府が確立するまで公務に戻るのは安全ではないと判断をした。


外交官としてのキャリアはシャンパニィの才能と性質に唯一合致しており、彼はすぐさまウィーン大使として赴任した。この時(1810年)から1814年の退位に至るまで、彼は皇帝の指図を完遂する目的に常に用いられた。彼以上に忠実かつ実直な臣下を有した主君は他にいないであろう。内務大臣であった1804年から1807年にかけ、彼は帝国の破壊的な戦争が必要とする徴兵を熱心に推し進め、また、この独裁者の極めて不評な施策を躊躇うことなく執行させた。外務大臣であった際(1807年から1811年)には、大陸封鎖令の施行を徹底的に支援した。だが大抵の場合、彼の私生活における行状は、彼を絞首台送りするに足るものであった。不実、不公平、横領、これらの言葉が意味する最悪の要素が彼の行為を特徴づけており、更に言えば、彼はそれらを執行する手先と成り果てていた。彼が示したあらゆる献身にも関わらず、1811年に外務大臣を更迭させられ、彼は帝国領土内の管理を任されるようになった。もし彼が権力を失った事を惜しんだとしても、カドーレ公爵の称号と築いた富を手にしながら、儲けをもたらす新しい役職によって己を慰めることができたはずだ。


皇帝が退位した時、彼は新しい体制へ忠誠を誓い、ルイによって貴族に列せられた。しかしながら、このように臣下として無節操な経歴の持ち主であった為、立派な政府からの厚遇を得る見込みは無いと判断した彼はナポレオンの復権を画策し、百日天下の際に再び帝国領土内の管理を任された。この為、彼はルイの2度目の復帰の際には貴族の称号を失うが、1819年には他の裏切り行為を働いた連中同様にその地位を取り戻す。

著しい害をもたらした政策の張本人との悪名をカドーレ公に帰する事が出来無いとしても、彼は十分なまでにそれを執行した。おそらく彼の能力は相当な物であろう。しかし彼には広い展望が欠けており、またもっぱら根深いまでの偽善に満ちていた。

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2017年5月10日水曜日

1829年版と1832年版の違いについて

The Court and Camp of Buonaparteは、サー・ウォルター・スコットの『ナポレオン伝』(The Life of Napoleon Buonaparte:1827年 刊)の付録として出版された。知りうる限り、1829年刊の初版と1832年刊の改訂版が世に出ている。

 初版と改訂版の違いだが、「ボナパルト一族」「シャルル・ボナパルト」「レティツィア・ボナパルト」「フェッシュ枢機卿」の章が追加された他、何人かの人物の章に大幅な追記が行われている。

上記のようなボリュームの差以外にも、前者と後者の間で、内容面、特に人物評価が大きく異なっている章もあり、その例として「コーランクール」を両方とも紹介した。概して初版の方は、とりわけナポレオン政権の中枢にあった人物に対しては容赦なく筆誅を加える傾向にある。敵国人であったイギリス人の筆によると思えば、厳しい評価は自然と見なしうるが、改訂版の方ではその描写も幾分マイルドになっている。

改訂版の前書きによると、初版が多く取材していたブーリエンヌ(ナポレオンの元秘書。後にブルボンに帰順)の著作が、ナポレオンに近侍していた面々から批判を受けたとあり、おそらく改訂版ではこうした批判派の意見を盛り込んだものと思われる。

コーランクールだが、ロシア遠征に反対する等ナポレオンの政策の軌道修正を図りつつも、没落時には最後まで忠実に仕え、ボナパルト朝の存続に尽力したという一般的な評価を持たれている。この多くは本人の回顧録に由来し、改訂版もおそらくこれに取材したと思われる。

また推測だが、改訂版が世に出された七月王政期は第一帝政期を懐古する気運が高まった頃なので、そのような世相が文体に影響を与えた可能性も考えられる。

初版と改訂版を比較して、読み物として洗練されてるのはおそらく後者であろうが、本ブログでは古態となる初版を紹介していきたい。以降掲載される訳文も、特記なき限りは初版を元にしている旨ご了承頂きたい。

 (追記)
・コーランクールの章で言及される、彼のフランス滞在許可を獲得してくれた「強力な友人」とは言わずもがなだがアレクサンドル一世のこと。
・また、往々にして初版の方は、さほど重要でもない小咄で話を締める傾向にある。

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2017年5月9日火曜日

1-15-a アルマン・オーギュスティン・ルイ・ド・コーランクール(1829年版)

コーランクール
アルマン・オーギュスティーヌ・ルイ・ド・コーランクールは1773年に先祖伝来の地コーランクールに出生した。

15の歳にコーランクールは軍務に就くが、目立った成功を収められなかった。1792年、彼は大佐であったが、投獄されてしまう。その理由だが、おそらく民主主義者たちにとって気に触ることをしでかしたのだろう。彼は単なる擲弾兵まで降格するという条件で解放された。そのまま3年過ごしたところで、オッシュ将軍のとりなしを得て、元の階級に復帰した。だが、彼の軍事的才能はその職位に追いついていなかった。実際にイタリア方面とドイツ方面で従軍し、受けた傷も一つではすまないが、10年間実戦経験を得たにも関わらず、大佐以上に昇進できなかった。当時一般的に軍人たちは3年から4年程で師団を率いるようになるが、彼のこのような遅い昇進は、彼の持つ勇気が他の軍事的資質と等しいと想定された事によってのみ説明がつく。彼の卑屈かつ狡猾な精神は媚びへつらった廷臣の役割もしくは策を弄して人を出し抜く外交官により適していた。後者の役割に関してボナパルトは即座にその資質を見抜き、気を配って彼を採用した。彼の最初の任務として、サンクト・ペテルブルクに帝位を継承したアレクサンドル1世にうわべの敬意を表しに行ったが、実際はロシア宮廷へのイギリスの影響を排除するのが目的で、彼は熱心かつ悪辣に、そしてしばしば彼の主君の意図を上手いこと遂行した。

ナポレオンの意思に沿った奉職は、期待通りの報酬を彼にもたらした。1804年、彼は中将、馬事総監、そしてレジオン・ド・ヌール大十字勲章を授けられ、それからしばらくしてヴィチェンツァ公に叙爵された。これらの栄典は彼がバーデン大公国の中立を侵害し、アンギャン公を逮捕するという咎められるべき任務を快く引き受けた事への報酬だと噂された。友人たちは、彼は逮捕に手を下しておらず、非難はむしろオルドゥネ将軍とザヴァリーとの間で分けられると申し立てた。この3者が有罪な事に疑いは無く、とは言え、オルドゥネはコーランクールより、コーランクールはザヴァリーより罪の度合いが薄かった。

ロシアからの逃亡
ヴィチェンツァ公はロシアの宮廷にて大使というよりもスパイとして4年を過ごす。彼はナポレオンの狂気じみたモスクワ遠征に随行した。彼はこの遠征に反対したと言われるが信じるに値しない。なぜならば、スモレンスクで軍議が行われた際、ネイを始め経験豊富な将官たちが反対したにも関わらず、彼は更に進軍すべきだと意見をしたからだ。疑いもなく彼は皇帝を喜ばせるためにそう述べたのであり、彼は皇帝の物事を軽んじる傾向を常に上手いこと持て囃した。この独裁者にとって彼以上に浅ましく卑しい奴隷はいないので、スマルホニから惨めな逃亡を図る際に、この帝位についた脱走兵の道連れに選ばれた。

ナポレオンの運勢が傾き出すと、コーランクールは連合国との交渉役に任じられたが、彼の主君が束の間の勝利を収めると、連合国との約束していた事項を取り消す旨の指示を受ける事が頻繁あった。退位にあたって、連合国君主へのナポレオンの個人的な代理として状況の修復にあたり、確実に最後まで忠実に使えた。彼は1815年の旧主の帰還を内々に関知しており、テュイルリー宮殿で彼に喝采をあげた最初の一人となる。この変節行為によって彼は7月24日の追放者リストに名を連ねたが、強力な友人が彼の為にフランス滞在許可を獲得してくれたおかげで、それ以降彼は農業に時間を費やして暮らしている。

熟練の元帥たちはコーランクールを軍人の資質がないと軽蔑し、皇帝に追従して悪意と偏見を吹き込んでいるとの理由で彼を憎悪した。恐ろしいことに、彼は党派や専門が何であれ、それらに対する尊敬の念がなかった。彼は主君を喜ばせるためならば、良きにせよ悪しきにせよ、どんな目的でも着実に遂行した。しかしながら、彼が独裁者の意思に反対した過去があり、それはあまりに例外的な出来事だったので看過されなかった。ある日、皇帝がコンピエーニュに向かっている時、移動の遅さに苛立って馬車の窓から顔を出すと、大きな声で御者たちにもっと迅速に前に進めと号令した。コーランクールはそれを聞いていたが、同時に御者たちに速度を維持するよう命じ、もしそうしないとクビにするぞと断言した。御者たちは帝国の主よりも馬事総監に従った。コンピエーニュに到着するとナポレオンは旅がノロノロとしていた事に文句を言った。「陛下、」コーランクールは冷淡に返答する。「御厩を援助する資金を私にお与え下さい。さすればお好きなだけ御馬を殺す事ができるでしょう」。この問題は即座に落着した。

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