2017年12月26日火曜日

概略 ロシア戦役  -前篇-




1.序曲


アレクサンドル1世とナポレオン
1808年にエルフルトにてフランス、ロシア両国君主間の会談が持たれ、各々の支配領域について合意がなされ、よってそれに基づく平穏が続くかと思われたが、1809年以降フランスとロシアの関係は冷え込んできた。対オーストリア戦にて、ロシア軍がさほど積極的にフランス軍を支援しなかったことは、その指揮官が慎重に行動するよう指示を受けていたと思わせた。同時期、ロシアの港はすべてイギリス商船(アメリカ商船になりすましていた)に開かれる一方、フランス製品は厳しく禁じられる。これにより、ナポレオンはイギリス製品の禁輸を徹底させる目的で、北ドイツ沿岸に支配の手を伸ばし、ロシア皇帝アレクサンドル1世の近縁であるオルデンブルク公国をフランスに併合させた。この処置に対してロシアは強く抵抗し、1811年初頭、5師団をワルシャワに対する位置に配備する。一方、ナポレオンはヴィスワ河とオーデルの砦を包囲させようと大軍を派遣し、またスウェーデン国王カール13世がフランスとの緊密な協調を拒んだことを理由に、スウェーデン領ポメラニアを占領させた。


フランス軍のオーデルへの接近を宣戦布告とみなしたロシア軍は攻勢に出る作戦を採用し、プロイセン領土に軍を進ませ、その国の出方次第で交戦しようとした。しかし、とりわけプロイセンの置かれた状況への政治的配慮により、この作戦は退けられた。フランス側では、オーストリア皇帝含めたあらゆる王侯をドレスデンに集わせたことは、何かしらの示威行為と思わせたが、当時のモニトール紙によると、皇帝の出立は単にヴィスワ河での観兵とされた。おそらくまだナポレオンは、己の目的を断念することなく、大戦争を回避する望みをつなごうとしていたのだろう。そのためにナルボンヌ伯が和平交渉のためにヴィリニュス(ヴィルナ)に置かれたアレクサンドル帝の営舎へ遣わされた。日に日に悪化するイベリア半島での戦況のせいで多大な兵員と資金を費やしており、それはナポレオンにとってロシアと戦うあたり憂慮となっていた。だが彼は、百万近い自軍を擁し、その中に完全に使い捨てにできる新たな国民衛兵80,000を導入したことから、十分に二方面作戦を展開可能と見積もっていた。またフランス国内で厭戦気分が高まっていることを察知したナポレオンは、同盟国にやがて来る戦費を負担させるだけでなく、兵員も供出させた。主にライン同盟諸国からの大量の予備兵(10万)と、そして何よりも同盟国プロイセンとオーストリアが60,000兵を拠出して軍隊の両側面を守り、退路を確保してくれるとあてにしていた。それゆえ、ナルボンヌ伯が成果なしでドレスデンに帰還すると、50万兵(フランス兵、ドイツ兵、イタリア兵、ポーランド兵、スイス兵、スペイン兵そしてポルトガル兵から成る)が1,200以上の砲を携え、ニーメン河とヴィスワ河の対岸にいるロシア軍と交戦するため動きだした。


2.戦略的展開


1812年6月中旬までに、ナポレオンはニーメン河の流れに沿って軍隊を集結させた。最右翼にはシュヴァルツェンベルク指揮下のオーストリア兵(34,000兵)の分遣隊が配備された。次いで、ナポレオンの弟ジェロームの司令部の下に置かれた3つの軍団(19,000兵)がワルシャワを中心に集結した。そして、ナポレオン直下の本軍(22万兵。右後方にウジェーヌ指揮下の8万兵を伴う)。最左翼のティルジット方面には、プロイセンやその他のドイツ兵から成る補助部隊(なべて40,000兵)が置かれた。いずれの軍もとりわけ騎兵を多く擁していた。総勢45万兵のうち80,000兵が騎兵であり、1807年戦役で教訓を得たナポレオンは、すべての支局に対し、補給について極めて細かく詳細な指示を行い、10万兵以上の人員をその目的のために用意した。

ウジェーヌ
 
ジェローム
シュヴァルツェンベルク

しかし、ロシア軍に関する情報にはまるで無頓着だった。ヴォルコウィスク周辺にバグラチオン公指揮下の約33,000兵が、ヴィリニュス(ヴィルナ)周辺に陸軍大臣だったバルクライ・ド・トーリ指揮下の約40,000兵が、そしてオーストリアの国境付近にトルマソフの小さな軍団が集結しており、遠くトルコの国境にて、チチャーゴフ指揮下の50,000兵が露土戦争に従軍しているとだけ認識していた。敵の計画についてナポレオンは何も知らなかったが、彼のいつもの習慣通り、即座に行動をとれるよう軍の配置は行われた。ナポレオンの戦略は何としてでもロシア軍を会戦に持ち込み、徹底的に殲滅したのちに、首都モスクワに急行し講和を迫るというものだった。

バルクライ
バグラチオン
ドクトロフ

対するロシア軍は3軍に分かれキエフ、スモレンスク、リガに至る戦線を押さえていた。第一西方軍(12万7,000兵:6つの歩兵軍団と2つの騎兵軍団で構成)は、バルクライが率い、その下にウィトゲンシュタインがついた。第二西方軍(48,000兵:4つの歩兵旅団と一つの騎兵旅団で構成)はスモレンスクとキエフの間に配置され、バグラチオンがそれを率いた。ドクトロフ将軍は第三軍を率い、他の2軍の間の連絡線を維持する役割を担った。物資も連絡もこうした奥地では伝達に時間がかかった。リガやスモレンスクなどは要塞化され、ドヴィナ河(ダウガバ河)に沿って陣営が伸ばされた。トルマソフ指揮下のヴォルィーニ軍は2歩兵師団、1騎兵師団からなる20,000兵を擁した。クールラントのリガはエッセン将軍が1万兵と共に守備した。予備兵団のひとつはノヴゴロドにてミロラドヴィチ将軍に、もうひとつはスモレンスクにてオルテル将軍によって組織された。さらにフィンランドのシュタインハイル指揮下の16,000兵がサンクトペテルブルクからの第25歩兵師団と共に、ウィトゲンシュタイン軍を補強した。9月には、対オスマン帝国戦に従事していたクトゥーゾフ下の85,000兵がトルマソフ軍と合体する。
フランス軍と戦うロシア民兵
フランス軍の侵攻が開始されると、ロシア全土で民兵の徴兵が行われた。こうした民兵からなる部隊はボロディノの戦いでも活躍し、1813年のドイツ戦役にてもいくつかの民兵師団が活躍した。この戦役におけるロシア軍の戦略は、後退を続け、敵軍が補給基地から引き離されるまで決戦に持ち込まず、荒れ果てた土地を行軍させて弱体化させること、並びにロシア軍が優勢であるよう兵力を保ち続けることだった。ロシア軍の両翼に配備された軍団は敵軍の伸長を妨げ、かつ敵軍が敗れた際に、その殲滅を行うよう意図された。またオスマン帝国との講和によって、チチャーゴフ下のモルダヴィア軍を加勢に寄越せるとの算段もあった。


3.戦役の開幕


ロシア軍の退路=の破線、 フランス軍の進路=の実線







ロシア国境まで近づいていたナポレオンは再度交渉を試みて、かつて駐サンクトペテルブルク大使だったローリストン伯をアレクサンドル帝のもとに遣わしたが、両者の見解が合致することはなかった。ナポレオンはいつもの調子で「征服された者は征服者のやり方を受け入れる。彼らは破滅に赴くのだ。その運命を叶えてくれよう」と述べた。

ニーメン河を渡るフランス軍

6月24日、欧州の支配者たるかのごとく36万3,000もの兵を率い、ナポレオンはニーメン河を渡った。この大軍のおよそ3分の2はドイツ兵、オーストリア兵、ポーランド兵もしくはイタリア兵だった。渡河は酷暑を伴い、それは数日間続いた。戦闘時の規律は保たれていたが、野営や行軍時の規律は次第に悪化していった。自らの意思ではなく、行軍を強制された軍隊は、やがて戦場に向かう意思を失っていった。その結果は機動力の減退に顕著に現れ、あらゆる局面での時間厳守の緩みが戦役の動向に深刻な影響を与えるようになった。その一方、祖国を侵略されたロシア軍は、熱狂の域に達した精神的昂揚で満たされていた。加えて軍人らのトップへの従順さは過度なほどであり、また彼らは従軍の辛苦に十分すぎるほど慣れきっており、撤退しようとも士気を失わなかった。

ロシア軍後衛部隊

ミュラと騎兵隊によって援護された皇帝率いる本軍は、ロシア軍が方面軍同士の間をガラ空きにしたミスをうまく利用し、ニーメン河を素早く渡河し、ヴィリニュスに向けて急行した。右後方のジェロームはひとたびバグラチオンを脅かして、皇帝の外側面を防護した。しかし、当初から、巨大な軍隊に内在する弱点と、不適切なタイミングで進軍を開始したことは、その弊害を露呈させた。農作物は依然として熟しておらず、馬の飼料となるものは他に何もなかった。また、疝痛の流行が兵士間に発生し、10日間で軍隊は兵力の3分の1以上を失った。多くの兵士は日射病で死亡し、おびただしい落伍者が発生し始める。巨大な軍隊はドイツとの連絡線を覆い尽くして、敵軍の補給を困難にさせ、軍事行動を阻害するだろうと意図された。しかしナポレオンは、北イタリア戦役の時同様、軍需品なしにロシアで戦うという過ちを犯した。彼は自分が征服し支配する国々は比較的小さい国ばかりだという事実を見落としており、よって、彼は物資が手にあるうちに敵国から引き上げる必要があった。それでもロシア軍の総司令部の置かれたヴィリニュスのみを目指して軍を進めた。左側面を流れるヴィルナ河もフランス軍に渡られたので、バルクライの第一西方軍はドヴィナ河に至るまで包囲され、バグラチオンの第二西方軍と完全に切り離される形になり、兵力が分断された状態で決戦に臨むか、素早く後退するか対応を迫られた。ロシア軍は後退を選び、右翼への補給とされるはずだった大量の軍需品を犠牲にした。6月28日、アレクサンドルの司令部の置かれていたヴィリニュスは代わってナポレオンの司令部となり、そこで彼は(この戦争の二次的な目的であった)ポーランドの再興を果たした。ナポレオンがこの地に逗留した理由の一部はこの目的にあったが、他方で弟のヴェストファーレン国王ジェロームが司令官を務める右翼軍(指揮下にポニャトフスキ、シュヴァルツェンベルク、レニエ)の動きについて情報を得るためでもあった


7月5日にグロドノ(フロドナ)に到着したジェロームは攻勢を仕掛け、バグラチオンを引き続きバルクライと引き離しておき、その後方で両軍が合流するのを妨げよとの命令を受けた。ジェロームの左側面に加わったダヴー元帥はこの命令をよく果たし、ドクトロフの軍はバグラチオンの軍勢およびバルクライの軍から分断され、ほとんど包囲されるところだったが、36時間も降り続けた雨によって道が通行不可となり、また堪え難い暑さだった天気が急に冷え込んだためフランス軍の馬が斃れ、さらに必需品も枯渇したため、ドクトロフはわずかな被害のみですり抜ける事ができた。他方ジェロームは、その地位に釣り合わない才能の持ち主であることを露呈する。部下の物資や賃金を求める苦情を聞き入れる一方で、彼は皇帝の叱責にもかかわらず、いたずらに4日間を費やした。バグラチオンは慎重さ、大胆さ、そして勇敢さによって、そしてジェロームの軍事的才能の欠如も助けとなって、敵の作戦をうまくくじいた。さらに彼は後退する際にロマノフのポーランド軍を急襲し、6,000兵からなる軍団を叩きのめした。こうして、ロシア軍はうまく後退し、バルクライはドヴィナ河沿いのドリッサの陣地に、バグラチオンはモギリョフ(マヒリョウ)に撤退した。モギリョフにてバグラチオンは全軍でもってダヴーに戦いを挑んだ。ダヴーはうまく防衛したが、バグラチオンがジェロームによる側面攻撃に気をとらわれなかったら、大損害なしに逃げる切ることはできなかったと言われる。またヴォルィーニに配置されたトルマソフ将軍は、フランス軍の最右翼にずっと対抗していただけでなく、7月27日にはコブルィンにてザクセンの旅団を丸ごと捕虜にした。

モギリョフの戦いで第7軍団を率いるラエフスキー将軍

こうして皇帝のはじめの策略は失敗する。ヴィリニュスにこの知らせが届くと、ナポレオンはドヴィナ河に集結している自軍のもとに急行した。フランス軍は対岸で長々と布陣しているロシア軍を監視しており、それまでにロシア軍の突撃によって相当な損害を被っていた。ロシア軍の布陣は高台の右岸にあり、左岸を見下ろせるので、地理的にも戦術的にも顕著な強固さを備えていた。しかしナポレオンは分遣隊をポロツクに向かう道より敵陣に向かわせた。ジェロームはダヴーに取って代わられ、バルクライを囲い込んで圧倒する狙いで、軍隊は再度進軍を開始した。


他方、ロシア軍の戦線は先のナポレオンの巧みな策による分断から元どおりになっていなかったため、よって二つの西方軍は合流できておらず、バルクライは全軍の半数を戦闘で失うか、陣営を引き払ってドニエプルに向かいバグラチオンと合流するか二者択一を迫られる。サンクトペテルブルクへの進路を守り、リガの包囲を防ぐためにウィトゲンシュタインのみが留まった。ウディノ、マクドナル、サン=シール指揮下の3軍団はリガを封鎖し、サンクトペテルブルクへの進路を確保しようと奮闘した(それにより数多くの決着のつかない血みどろの戦いが繰り広げられる)。


コサックから襲撃されるフランス軍
フランス軍が前進しようとも、ロシア軍は着実に後退を続ける。ミュラの追撃を受けてバルクライ軍はヴィリニュスからドリッサを経由し、ヴィーツェプスクへ、バグラチオン軍はヴァウカヴィスクからモギリョフに移動した。フランス軍のマクドナルはエッセン将軍をイェルガヴァ(ミタウ)まで後退させ、ウディノはウィトゲンシュタインをウクメルゲまで追いやった。とりわけ騎兵における機動力の不足は、フランス軍に不利に働き始める。伝染病から回復したばかりの騎馬は、すべての方向から押し寄せるコサック兵に対し太刀打ちできなかった。コサック兵は決して交戦しようとしないものの、常に警戒しておらねばならず、フランス軍にとってこのような経験は以前になく、構えの施しようもなかった。


フランス軍の主力は、ある一方はドヴィナ河を渡り、また一方は河沿いにロシア軍の後衛と頻繁に交戦しつつ追撃し、そして7月の26日から27日にかけ、ヴィーツェプスクにて相構えた。ナポレオンにとって会戦の火蓋を切るチャンスが到来する。ミュラの騎兵隊の後ろについた「前衛部隊」が敵を攻撃し補足する一方、本軍並びにバグラチオンとバルクライを分断させるためのその間を攻め進んでいたダヴーは敵後方に回り込もうとしていた。しかし、ナポレオンは敵方の心理を全く読めていなかった。ロシア軍は人命の犠牲にまったく無関心で、前衛や後衛部隊の援助に引きずり込まれるのを拒否し、フランス軍が接触を図ろうものなら、どこであれ持ち場をさっさと引き払った。このようにロシア軍は戦闘を放棄すると、スモレンスクへと撤退した。一方で、暑さと物資の欠乏はフランス軍の状況を悪化させたため、その場で10日間止まらざるを得なくなり、その間に二つのロシア軍はとうとうスモレンスクの城壁の下で合流を果たした。8月8日には、12,000の騎兵でフランス軍のセバスティアニ将軍を襲い、損害を与えて、2.5km後退させた。

ヴィーツェプスクの戦い

こうして、ヴィーツェプスクで敵を殲滅させる作戦は再び失敗し、ナポレオンは戦役開始時よりもはるかに悪い状況に置かれる。 その時の彼は42万兵を率いて260kmを進もうとしていたが、今や22万9,000兵のみ伴って220kmを進んでいた。 彼は敵を木っ端微塵にする3つもの大きな機会を失ってた。彼が5週間かけても320kmしか移動できていないと気づいた時には、軍隊の兵数は当初の3分の1まで減少していた。 さらに悪いことに、彼の軍隊は当初のような戦闘集団としての質を失っていた。


4 スモレンスク


一方、ロシア軍はひとつの砲も失っておらず、兵の士気は敵との多くの小競り合いによって向上していた。さらにバグラチオンとバルクライの合流が果たされたスモレンスクに向かってフランス軍の進軍が再開されると、合流した13万兵のロシア軍を率いる指揮官たちは、応戦のために軍を進めた。しかし、ここで、ロシア軍の参謀団の不手際によって、彼らは被るであろう破滅から、実際のところ救われることになる。ロシア軍は2つに分かれて行軍していたが、相互の行方がわからなくなった。片方のみでフランス軍と戦うのはほとんど不可能だったので、両方とも再び前衛部隊が配置されたスモレンスクに向かって撤退した。スモレンスクには古めかしいレンガ造の城郭があり、それは野戦砲による損傷を受けていなかった。ロシア軍は合体すると戦いに向けてドニエプル河の背後に陣を張る。

スモレンスクの戦い

8月16日の朝、ミュラとネイは 「前衛部隊」となってスモレンスクの町を攻撃する。17日、ロシア軍の主力は、可能ならば通常の会戦に持ち込むべく進軍してきたフランス軍に向けて対抗姿勢をとる。ロシア軍の右翼を包囲する自分の作戦が失敗したとわかったナポレオンは、自軍の右翼率いるポニャトフスキに、ただちにオルシャの道を急行し、ロシア軍とモスクワとの間を分断せよとの命令を出した。この行動を完成するには17日の丸1日が必要となり、ロシア軍はその目的を十分に察知すると直ちに夜の闇に紛れて撤退すると決定した。バグラチオンはこの道を確保しようと急ぎ、そしてバルクライは可能な限り敵の進軍を遅らせようとした。17日の深夜になってようやく、兵数千を失ったのちに、フランス軍はほとんど残骸と化したこの要衝を獲得したが、ロシア軍の撤退作戦は完全に成功し、その後、後衛しながら夜間の撤退を続け、うまいことフランス軍を根負けさせた。古くからの町であるスモレンスクは、往時は強固な砦であり、ドニエプル河の配置全てもロシア軍に好条件であった。


ロシア軍元帥クトゥーゾフ
スモレンスクを押さえたフランス軍は三角形の態勢(左の一角をリガの手前に置き、右の一角をブーク河に置き、頂点をドニエプル河沿いのスモレンスクに置いた)を成した。左側面と後方はそこそこ足場を保っていたものの、右側面ではロシアのトルマソフが引き続き攻撃を仕掛けており、危うい状態だった。8月19日、ナポレオンはスモレンスクを発ち、ロシア軍を追撃する。ヴァルチノにて、ロシア軍の後衛とネイ元帥下の前衛が遭遇した。ロシア軍の主力が急いで後衛に救援を送った時には、ジュノー将軍が、既にこの後衛に追いついていた。大きな損害を出しつつも、なんとかロシア軍は50kmに及ぶ隘路を抜け出すことができた。ロシア軍は道中の街を焼きながら大急ぎで撤退する。同じくらい急いでナポレオン軍は、物資の欠乏と天候に苦しめられながら、ロシア軍を追いかけた。スモレンスクからの撤退は成功していたものの、ロシア政府はその事実を見誤り、バルクライの代わりにちょうど露土戦争が終結して凱旋していたクトゥーゾフ元帥を司令官として前線に送った。クトゥーゾフの狙いは強固な拠点を押さえて、モスクワ防衛戦を行うことにあった。民兵と予備兵で自軍を補強すると、彼はモスクワに至る大街道を横切るカラッチャ河に沿った場所で敵を待ち構えると決意し、自陣の強化のため、時間が許す限り塹壕を構築し続けた。

5.ボロディノ


ここにてクトゥーゾフはミュラとネイに追いつかれたが、フランス軍の隊列はひどくバラバラになっていたため、皇帝が戦いに向けて軍隊を集結できるようになるまでに4日が経過した。その時フランス軍は12万8,000兵まで減少しており、対してロシア軍は11万兵を擁していた。9月5日、フランス軍は対する位置に布陣し、同日夜、凄まじい殺戮ののち、ロシア軍の陣地の一部シェヴァルジノ角面堡が奪われた。翌7日の午前6時、ある一方は窮乏と苦痛を終わらせるために、もう片方は祖国を防衛し首都を守り抜くため激突し合う、かつてないほど血にまみれた会戦の火蓋が切って落とされた(ボロディノの戦い)。この戦いの最中、ナポレオンは以降の彼の運勢に重大な影響を与えることになる病気や鬱の発作に見舞われる。 正午頃まで彼はいつもの鋭敏さで指揮をとっていたが、その後、一種の人事不省に陥り、配下の元帥たちに自己判断で戦うことを許可した。ワグラムの戦いのような決定打は放たれず、親衛隊は投入に呼ばれることさえなかった。結局、25,000のフランス兵と38,000のロシア兵が命を散らした戦場に日が落ちて戦闘は終結するが、前者の士気の虚脱は後者よりもはるかに大きかった。ロシア軍の中央はネイとウジェーヌの怯まない攻撃によって崩されたが、右翼と左翼では優勢を保っていた。そして、砲に大きな損害を得ることなく、またわずかな捕虜を取られたのみで、彼らはモスクワに向け撤退した。

ボロディノの戦い:ラエフスキー角面堡を巡る攻防

2017年12月18日月曜日

概略 ロシア戦役  -後篇-


6.モスクワ


炎上するモスクワ
を眺めるナポレオン
ナポレオン軍は2日の休止ののち、2師団に分かれモスクワを目指した。師団のひとつはロシア軍の側面を攻撃させるためのものだった。後退を続けるクトゥーゾフはあえてモスクワの前で会戦に臨む危険を冒さなかった。彼は首都モスクワをあえて捨てると決意する。ミュラは疲弊した騎兵隊と共にロシア軍に全力で追いつこうとした。前衛部隊を率いたセバスティアニは、モスクワで避難活動をしているロシア軍に追いつき、彼らが街を引き払うまでの7時間の休戦締結に同意した。その判断は、木造建築物の多いロシアの街中でフランス軍が市街戦を行えば、火事および必須となる宿営先と糧食の焼失が免れ得ない経験からくるものだった。日が暮れる頃、ナポレオンは現場に到着する。ロシア軍は引き払った後であり、モスクワ入城を開始したが、街の片隅で既に火事が発生していることが明らかになった。ナポレオンは西側にある郊外の家で一夜を過ごし、翌朝はクレムリンに乗り込んだ。軍隊は割り当てられた営舎に移ったが、その午後に大火災が発生し、2日間街を焼き続けたため、フランス軍は再び郊外へ追い出され、また物資を得る望みは潰えた。皇帝は最悪の混乱状態に置かれた。クトゥーゾフはモスクワの郊外を逍遥していた。彼の本軍はカルーガに配置され、フランス軍とヴィスワ河の補給基地をつなぐ連絡線を脅かして遮断しようとした。彼のいくつかの部隊は南西部に向かう。そうすることでクトゥーゾフはロシア帝国で最も肥沃な地域との連絡線を確かなものにした。彼のコサック兵はスモレンスクに攻め寄っていた。モスクワの南に位置するウェレーガはフランス軍の防衛拠点となっていたが、9月29日にクトゥーゾフによって急襲される。そのころ、フランス軍のマクドナル元帥の最左翼を援護しているサン=シール元帥にわずか17,000兵の手勢しか残されておらず、それを持ってウィトゲンシュタイン指揮下の40,000以上のロシア兵に対抗しているとのニュースが到着した。南方では、ロシアがオスマン帝国と和平を締結したことで、チチャーゴフ下のモルダヴィア・ロシア合同軍を国境から引き上げさせ、ナポレオンの連絡線を押さえに向かわせることが可能になった。チチャーゴフはヴォルィーニにいるオーストリア軍とザクセン軍に対応させるためいくらか兵力を残すと、残りを率いてベレジナ河に向けて進軍し、ともにナポレオンの連絡線を分断する目的で、トルマソフとブレスト付近で合流し、合わせて10万兵を構成する軍勢となろうとしていた。その一方で、この軍勢に対抗するシュワルツェンベルク指揮下の兵は3万にまで減少していた。

モスクワ占領時の両軍の勢力図

撤退を考案するナポレオン
このように、フランス軍はおよそ900kmの辺長から成る正三角形に配置され、頂点のモスクワでは仏軍95,000兵が露軍12万兵に対抗し、ブレストでは仏軍30,000兵に対して露軍10万兵が、ドリッサでは仏軍17,000兵が露軍40,000兵と睨み合った。 一方で、スモレンスクに置かれたフランス軍の拠点はヴィクトル軍団の約30,000兵が防御した。 モスクワからニーメン河までは890kmの距離だった。 もはやフランス軍が助かる道は、撤退か講和しかなかった。ナポレオンの矜持は撤退を許さず、講和に望みをつなごうとしていた。10月4日、ナポレオンは、ローリストン将軍をロシア軍司令部に送り、交渉を持ちかけた。だが日ごとにフランス軍の窮状は悪化していく。備蓄は底をつき、略奪しようにも、コサックや農民の群れから襲われる危険に苛まれ続けた。アレクサンドルが夏に組織したコサックと民兵によって、クトゥーゾフの兵力があらゆる方面で補強された一方で、フランス軍は同じくらいの兵を失っていった(モスクワで、飢餓、暗殺、襲撃によっておよそ4万の兵が命を散らした)。ローリストンの帰還を待っている間、ミュラはクトゥーゾフから小競り合いを仕掛けられる。皇帝自身は全軍をあげてサンクトペテルブルクに攻勢をしかける方策を練り、そのためにヴィクトルとサン=シールを呼び戻した。ミュラが18日に攻撃され、手痛い目に会うまで(タルッティノの戦い)この計画は実行の俎上にあがっていた。予想外の攻撃を受けたミュラとセバスティアニに率いられたフランス軍は、大きな損害を出して後退する。物資の欠乏に迫られ、ナポレオンはようやく4週間前にすべきだった決断をした。10月19日、ナポレオンはモスクワ撤退を決意する。全フランス軍はロシア軍に応戦するため出撃したが、24日のマロヤロスラヴェッツの戦いで徹底的に痛めつけられる。

マロヤロスラヴェッツの戦い

7.モスクワからの撤退


落伍し捕虜となるフランス兵
こうして、歴史に名を残す撤退が開始される。気候条件ではなく、フランス軍の行軍に規律が完全に欠如していたことが、その後に起こった大惨事の要因であったことは一般に見落とされている。実際のところ、その年最初の降雪日は通年より遅い10月27日であり、乾いた大気は心地よく、11月8日になるまで、夜の寒さは厳しくならなかった。 11月26日にベレジナ河に到着した時でさえ、寒さはそれほど深刻ではなかった。そのことは、ゆっくりとした河の流れがまだ凍結しきっておらず、そのためにエブル将軍の工兵隊がその水中を丸一日かけて難儀しながら架橋したという事実からもわかる。しかし、フランス軍はもはや完全に制御不可能で、集団パニックによって最も強い自律心を備えた人間でさえもタガが外れていた。河自体は橋なしで渡河が可能で、実際に騎兵は行き来していたにも関わらず、橋に殺到した逃亡兵らが何百人も踏みつけ合っているという有様だった。

ヴィアジマの戦い
実際の出来事に話を戻すと、クトゥーゾフは24日のマロヤロスラヴェッツでの成功を活用するのに出遅れ、全く見当違いの方向に追撃を始めた。しかし、ナポレオンの方も状況を把握するにあたり欺かれたか、もしくは情報不足だったのか、スモレンスクに至る街道を押さえていた自軍をも後退させてしまい、破滅の要因となった。11月2日、ヴィアジマに置かれたフランス軍の司令部にて、コサック兵からの襲撃を脅威に感じたナポレオンは軍隊に(エジプト遠征のように)方陣隊形で行軍するよう命令した。しかし、皇帝が先頭を行く親衛隊のみがこの命令に従っていた。あらゆる局面で騎兵の不足が足を引っ張る一方、ロシア軍はコサック兵によって波状攻撃を仕掛けてきた。それに加えて不毛の地では、あらゆる物資の欠乏によって既に兵の規律の維持は果てしなく困難になっていた。その中で更に増すロシア軍からの攻撃を受けて、何千もの兵士と馬が命を落としていった。

クトゥーゾフはやっとフランス軍に追いついていたが、フランス軍にとって運が良いことに、クトゥーゾフは接近戦を挑もうとせず、ただ側面に張り付いて、コサック兵で妨害するか脱落兵を襲撃するだけだった。こうして、今や5万兵もいない大陸軍の残骸は、9日にスモレンスクに到着し、14日まで休息を取ったが、生き残った兵士たちは休息も、食物も、衣類も望むように得られなかった。

その後、行軍は再開され、親衛隊が先陣となり、ネイが後衛を命じられた。 16日、クラスノイの近くで、ロシアの前衛部隊が隊列を遮ろうとした。ナポレオンは応戦するため全軍を停止させ、かつての活力を漲らせて攻撃し、道から敵を一掃させるのに成功したが、ネイと後衛部隊を置き去りにする犠牲を払った。 比類なき胆力と困苦を伴う一夜の行軍の果てにネイはロシア軍を引き離すことに成功したが、オルシャの本軍にたどり着いた時には、彼の6,000兵のうち残存していたのは800兵のみだった(11月21日)。
殿軍を指揮するネイ

8.ベレジナ


架橋するフランス工兵隊
フランス軍はダヴーとネイ指揮下の2旅団を丸ごと失いながら、南北から攻撃を仕掛けてくるロシア軍の機先を制そうと急いだ。11月18日のクラスノエの戦いののち、理由は定かではないが、クトゥーゾフは追跡を止め、ナポレオンは運良くドヴィナ河沿いの無傷の自軍と合流でき、それによっていくらか騎兵の損失を賄うことができた。またナポレオンは、ヴィクトルあてに、ベレジナ河沿いのボリソフにて合流するよう命令を出した。寒さは今や過ぎ去り、雪解けによってこの地方は泥沼のようになっていた。南から進軍してきた露将チチャーゴフがボリソフに到着したという報が届く。ナポレオンは、ヴェセロヴォを渡河地点として選び、23日午前1時にウディノに命じて、そちらに向かって架橋させようとした。この命令の実行中、ウディノはボリソフ近くでロシア軍の前衛部隊と遭遇し、混乱させて後退させたが、そこにある既存の橋を彼らが破壊するのには間に合わなかった。この唐突な攻撃再開はチチャーゴフを混乱させ、本当のベレジナ渡河地点を見誤らせた。それによって、ヴィクトルは到着するまでの時間稼ぎができ、ウディノも上記の場所の近くにあるスタディエンカで架橋する余裕ができた。しかし、渡河地点が一箇所である方が多くの点で目的に適していた。したがって、ナポレオンはエブレ将軍下の架橋部隊をそちらに送ったが、彼らが到着した時には何も準備されておらず、多くの時間が失われた。一方、ヴィクトルは本当にそこが渡河地点か疑念を感じて、スタディエンカへ至る道を無防備にしており、露将ウィトゲンシュタインはその道を猛追した。

ベレジナの戦い

26日午後4時までには橋は完成し、渡河が開始されたが、徐々に近づいて来るロシア軍による抵抗は免れなかった。渡河は橋の崩落によって時々中断されたが、一晩中継続された。 27日の丸一日中、落伍兵らが渡り続ける一方で、規律を十分維持している者らが戦闘員として用いられ、彼らを防護していた。 28日の午前8時、ロシア軍のチチャーゴフとウィトゲンシュタインは河の両岸から攻撃しようと前進したが、ネイ、ウディノ、ヴィクトルの下に残っている数少ない部隊の素晴らしい犠牲によって食い止められ、午後1時頃には常備軍の最後の集団が橋を渡り切り、わずか数千兵の落伍者が河の対岸に取り残された。


その日にフランス兵が軍のどれ程を占めていたかは定かではない。 ウディノとヴィクトルの兵は比較的損耗されておらず、計2万兵ほどいたかと思われるが、ネイが指揮下において戦った兵の数は全軍見渡しても6,000兵を超えることはなかった。 殺された兵の数はさらに判明しないが、3日後に軍務を遂行可能と報告された兵の総数は8,800にしかならなかった。

9.終幕


しかし、ヴィリニュスへの道程は長く、日に日に増す寒気、身の毛もよだつほどの飢餓、規律の混乱により、苦痛と絶望は最高潮に達する。それゆえに、軍隊の撤退は実質的に蜘蛛の子散らす逃亡と成り果てた。もはや中隊レベルでさえも体をなしていなかった。誰もが助かることしか余念がなく、我先にと同僚や見知らぬ者らから衣類を剥ぎ取っていった。彼らはみな散り散りとなって、行く先々で疫病を撒き散らかした。12月5日にスマルホニに到着し、そこでこれ以上彼の手では何もできないことを知ったナポレオンはミュラに軍の残骸の指揮権を投げ渡すと、翌年に向けて新しい軍隊を編成するためにパリに向けて極秘に出発した。全速力で彼は移動し、ワルシャワ、ドレスデンを経由した312時間の旅の後、18日にテュイルリー宮殿に到着した。

皇帝が去った後、寒気は激しく増加し、気温は-5℃に下がった。12月8日にミュラはヴィリニュスに到着する。一方、ネイの約400兵とウレーデのバイエルン兵2,000は依然として後衛を務めていた。 ナポレオンが指示したヴィリニュスでの冬営を実行するのは不可能だったため、10日に撤退は再開され、12月19日にミュラと親衛隊400騎および馬を失った騎兵600がようやくケーニヒスベルグにたどり着いた。

ヴィリニュスにたどり着いたフランス軍

他方フランス軍の最右翼ではシュヴァルツェンベルクと彼のオーストリア軍が自国を目指して移ろっており、そしてヨルク将軍のプロイセン軍はリガ付近でマクドナル元帥の指揮下にあったが、タラウゲにてロシア軍と交渉を持っており、そのためフランス軍の左翼の押さえは失われた。こうしてケーニヒスベルグも安全とは言えなくなり、ミュラはポズナンに後退すると、1月10日、そこにてウジェーヌ・ド・ボーアルネに指揮権を渡してパリに帰還した。

ロシア軍の追撃は事実上ニーメン河までで停止する。彼らの軍隊もひどい手傷を負っていたため、休息期間が絶対的に必要だった。

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2017年11月13日月曜日

フーシェの見た元帥任命(1804年)

鷲章旗の授与(ジャック=ルイ・ダヴィッド画)

1804年、皇帝即位とともに、ナポレオンは18名の帝国元帥を任命するが、それについてフーシェは回顧録でこう述べている。
「ナポレオンは皇帝になるにあたり、国民の正式な裁可も議会の承認も求めていなかった。後者はもはや彼の言いなりとなる機関に成り果てていた。軍隊、それこそが彼の政権の基盤としてしっかりと地固めすべきものだった。よって、彼は最も自分に献身的な将軍と、一方で対立的だが下手に排除ができない将軍の双方に、帝国元帥という称号を急いで授与した。
前者にあたる、ベルティエ、ミュラ、ランヌ、ベシエール、ダヴー、スルト、ルフェーブルを彼は頼りにしており、後者のジュールダン、マッセナ、ベルナドット、ネイ、ブリュヌ、オージュローは、君主制よりも共和制支持派だった。ペリニョン、セリュリエ、ケレルマン、モルティエは単に重みを与えるために授与されたに過ぎず、世論が納得するように18元帥の選別は決定された。」
モンセーが言及されていないけど、たぶん名誉元帥枠。いずれにせよ元帥号はただの称号で、必ずしも権能と直結していない。

2017年11月12日日曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (1)




ジョゼフ・フーシェ、自国の情勢に極めて重大な影響を及ぼすべく運命付けられたこの人物は、1763年5月29日[実際は1759年5月21日]にナントに誕生した。

商船の船長であった父親が息子を船乗りすべく望んだことから、若きジョゼフはオラトリオ会の学校に送られ、そこにて数学を学んだ。しかし、彼は海が大嫌いだった。実際のところ神経質な性質の彼にとって、自然の荒々しさは馴染めないものだった。彼はまったく違うキャリアを選択する。彼はオラトリオ会の誓約会員となった。そして教師に適していると自覚を生じて、三角関数にのめり込み、哲学やスコラ学を理解する明敏さを有していると自負したことから、パリに移って学問を修得した。彼が聖職者を目指したという説は間違いだ。オラトリオ会の一員として、僧侶たちがするのと同様に貞節と服従の誓いを立てていたが、そのような誓いはローマ・カトリックにおいては、人生を若者の指導へ捧げようとする在家信者同士の間のお決まりの作法だった。その後彼は幾つかの街で教鞭を握り、革命が勃発すると、ナントにある学校のお偉方の一人となった。

フランス政治の激変をフーシェ以上に心から歓迎した者はいないだろう。衝動によるものか或いは他に倣うようにして、人々が広がっていく思想を受け入れたのに対して、彼は熟慮と自身の志向に基づいてそうした事を誇っていた。すぐさま彼は偏向教育がもはや自分を支配しないことを確証した。彼は結婚によって誓いを破り、それによって聖職者の仲間たちと決別する。彼は愛国者協会という名の政党を立ち上げるが、その会合では、不敬神の確固さと革命主義の激烈さによって、他のメンバーを圧倒した。彼の人気はかなりのものだったので、低ロワール地方の代表として国民公会に送られた。

天はフーシェに公開弁論の高台につくに相応しい才覚を与えなかった為、彼は滅多に演壇に立たなかった。しかしながら、あの哀れなルイの裁判の時、彼は浮動票を与えるのに満足しようとしなかった。投票によって国王の運命を決定しようと提案する際に、彼はこう述べている。「暴君の死以外に、投票によって決すべき物は無いと想定している。王政を打倒した時のあの勇気、それに我々は尻込みしているかに見える。我々は国王の影にびくびくしている。共和主義者たらんとせよ。さあ国民によって我々に与えられた大権を行使しよう。大義に向けて我々の義務を果そうではないか。我々は全ての人間の権限と行く末を采配するに十分な偉大さを有している。地上の王侯に対抗する時が到来したのだ。」フーシェは「妨げられない、速やかなる死刑」に投票して締めくくった。

この国王殺しは熱意が認められて国民公会の布告を実行する道具に選ばれる。彼は怪物どもを満足させる仕事に従事する自分自身を罪深いと感じなかった。投獄、追放、殺戮、オーブおよびニエーブル県で、彼の行く先には常にこれらが伴った。彼の敵意はとりわけ僧侶たちに向けられる。83名もの僧侶がナントに移送され、この不運に見舞われた街の名高き溺死刑(溺れ死にする結婚!)の光景を描いて見せた。そして教会はすべて略奪され徹底的に破壊される。それだけにとどまらない。魂の不滅、このキリスト教が依拠する教義を攻撃したのだ。「死は単に永遠の眠りに過ぎぬ」そう彼は公共墓地の入口にくっきりとした文字で刻み込んだ。

『共和国の結婚』ことナントの溺死刑

彼のナントでの働きがどれ程の価値があろうとも、その後リヨンで喜々としてやってのけた事に比べれば可愛らしいものだった。彼はコロー・デルボワと共に赴任すると、おののく市民に向けて、彼らが人民の至上権に抵抗しようとしたこと、とりわけ革命政府からの代表者を殺害したことへの報復を宣言した。「派遣議員らは苦痛を感じることなくその使命を遂行するだろう。彼らは公然たる復讐の雷撃をその手に委ねられており、人民の敵が倒されるまで投下を止めはしない。彼らは陰謀家どもの無数の墓の上を進軍し、果てし無い破壊の跡を横切って、国家の幸福に、そして全世界の刷新にたどり着くであろう!」彼は同じ調子でパリにいる雇い主らにもこう書いた。「我々の酷烈さを緩和できるものはありません。手ぬるさ、それは危険な弱点だと言わねばなりますまい。人民の敵を攻撃する手を決して止めてはなりません。我々は奴らを一気に、見せしめになり、恐ろしく、迅速な方法で殲滅してみせます。ローヌ川に投げ込まれた血みどろの死骸は、河口の両岸にて恐怖と人民の万能性を示す見世物となるに違いありません。恐怖、有益なる恐怖こそが真実この時代の道理なのです。恐怖は悪人どものあらゆる努力を押さえ込み、犯罪の覆いと虚飾を剥ぎ取って見せるでしょう!」復讐の誓いに背くことなく、フーシェおよび恥知らずの供連れは、処刑に向けて収容された王党派たち全員のリストを日ごとに用意する。ギロチンを常に稼働させるのみならず、何百もの犠牲者をぶどう弾によって一度に処分した。「ついこの夕方」手紙(1793年12月19日付)で彼はこう著した。「我々は215人の叛徒を雷撃の的とした。」端的に言って彼は、「リヨンは後代に恐ろしい破壊の光景として、かつ共和主義による復讐と民主主義の力の金字塔として伝わるだろう(1794年2月13日付の手紙)」との根拠にて己の所業をいくぶん鼻にかけていたのだった。

リヨン市民に砲を向けるフーシェ

この国王殺しが意気揚々と任務から帰還したところ、ロベスピエールから「自由の敵」として非難を受ける。この非難の行きつく先は死刑であることは万民の知るところだった。彼がどうしてこの同志の不興を買ったかは定かではない。ある話では、あまりに度が過ぎて革命の名を汚したと責められたと言う!事実として彼が背負うに値する以上の悪名を彼に帰するつもりはないが、むしろ彼が滅多に人道面に配慮しなかったことが咎められたのだろうと思われる。たとえその通りだとしても、フーシェはロベスピエールがあと数日でも生きながらえようものなら、己の破滅は避けられないと察した。彼はタリアン、ルジャンドルら独裁体制に不満を持ち、脳天に斧がまさに振り下ろされそうになっている連中のもとに大慌てで駆け込むと、かの暴君を引きずりおろす企てに乗るよう唆した。「貴君の名前も私同様にブラックリストに載っているんだぞ!」と、大仰な文句を用いて彼は説得を行った。危機感の共有が、一致団結した抵抗を可能にし、犯罪の記録のうち最も血に塗れた一頁に名を載せる怪物を打倒させた。

テルミドール9日

この用心深い民主主義者は日ごとに世論がこうした革命の戦慄に対して嫌悪感をつのらせていくのを察するや否や、しきりに迎合して人道性を求めて声を上げはじめた。かくも機敏にすり寄ったにも関わらず、当局の穏健派の憤慨を浴びて、彼は一度ならずテロリストとして糾弾され、首都の壁のはるか向こうでその罪深い首をすくめながら身を隠すことを強いられた。総裁政府が全国に恩赦を出した後でさえ、彼が重要な公職にありつくまで長くかかった。だがそうは言っても、彼は最もゆるぎない革命主義者だったうえ、その才能が上位にあることはよく知られていたので、やがてバラスによって登用された。1798年、彼はイタリア大使として派遣され、次いで同じく大使としてオランダに送られたところ、新しい警察を統括するために呼び戻された。フーシェの警察、これはそれまでに専制政治の援助によって設立されたものの中で、一番手強い機構となった。

2017年11月11日土曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (2)

フーシェ

統領政府の樹立にあたって、警察省は保持された。実際、フーシェなくしてボナパルトは権力の地盤を固めることも、暗殺者の刃から身を守ることもできなかった。彼のみがいまだに闇の中に潜む革命の亡霊どもを召喚でき、そして彼のみが王党派たちの企みを暴き出して、それを阻止することができた。フーシェを通して第一統領は、何よりも望ましいこととしてフーシェ自身を革命主義者と王党派に加担させることなく、両方を叩きのめすことができた。危険人物と思しき者らのリストは丹念に仕上げられ、投獄ないし追放がそれに続いた。死刑は滅多に適用されなかった。フーシェは賢明にも不要な流血は恐怖ならびに嫌悪と憤懣を生み出すと気づいていたのだ。よって死刑は、彼の言葉を借りるならば、「犯罪よりなお悪い、過ち」だった。彼の隠密行動がどれほど穏健だったかについてだが、彼の挙動の大部分は完全に闇に包まれており、それは全知の神のみぞ知るところである。賞罰を執行可能な専制国家はそのための十分な手段を備えているものである。そして、それはただ悪事を働くと思しき人物の目星をつけるだけではなく、そのような人物をその目的の為に頻繁に雇い入れていた。

警察長官は過去の悪名(それは幾ばくか人気を集める要素になっていたかもしれないが)を包み隠すことにあまりに苦心していたため、表面的に主君の横暴な意図をただ諾々と遂行する道具ではあり続けなかった。共和主義者の筆頭と見なされていたフーシェは、かつて死に物狂いで敵対していた王党派の好意を確保しようと熱望していた。彼は突如王党派を大事に扱いだすと、訪ねてくる旧貴族たちを客間に迎え入れた。ある者はそうした貴族らの古き血統に由来する名誉を汚さぬよう擁護し、またある者は彼らが悪名高き人物と接触をもって自身を汚したと軽蔑した。それ以外の者たち(それは懸念されるほど大多数であった)は、利益の為に名誉を犠牲にし、新しい統制機関を是認した。否、彼が雇い入れたスパイの中にこうした貴族の名は少なからず見受けられたのである。彼らは共和主義者と同じくらい王党派を嗅ぎ回っていた。読者はいっそう驚くだろうが、ジョゼフィーヌ自身もスパイのリストに名を連ねていた。なんと彼女の夫の挙動を探っていたのである!しかしながら、ナポレオンを害する情報は何であれ、警察長官も要求せず、ジョゼフィーヌ自身もまた伝達しなかったと容易に想像できる。だが、もし『フーシェ回顧録、第一統領の密偵』の記載を信用するならば、フーシェの手先の中で最も有用だった者として、
「その能力は認められつつも、貪欲さよって速攻で名を汚したこの男は、あまりに金への渇望を露わにしていたので、あえて名前を挙げる必要はないだろう。*  書類の保管場所であれ、主君の機密であれ、彼は見つけ出したので、私は第一統領の身辺を見張っておくために、月に10万フランを費やした。彼は、幾ばくかの金とともに、私の対策を終わらせるよう仕向けるアイデアを思いついた。彼は私を訪ねて来ると、もし私が彼に月2.5万フランを渡せば、ボナパルトの行動の全て教えると持ちかけてきた。彼はこうすることで、一年のうちに90万フランの貯金ができると言いたてた。統領の足跡を私はハラハラしながら辿っていたので、この腹心の秘書を雇うことで、かの統領が何をしていたかだけでなく、何をしようとしていたか把握できるチャンスを逃すつもりはなかった。私は提案を受け入れ、毎月彼は2.5万フランの見返りとして警察省の戸棚の上に置かれた指示書を受け取った。彼の手際の良さと情報の正確さは賞賛するに足るものだった。」「私はこうすることで知りたがっていたことを正確に把握することができた。私はジョゼフィーヌの情報網を用いて、秘書官の情報網に修正を加えることができ、またジョゼフィーヌのものを秘書官のもので手を加えた。私は全ての敵を集めたよりも強くなっていた。」
フーシェの慎重な身の処し方はかなり意図した通りの効果をもたらした。人々の多くは、彼のかつての犯罪行為は世情に迫られたものであり、現在の抑制した振る舞いは彼が本当に暴力を嫌っているからであると思っていた。彼がその職掌において行った非道は確かに十分苛烈であったが、彼にとって幸運なことに、それらは一般に知れ渡らなかった。取り調べさえも、これ以上ないほど謎に包まれて進められていた。彼の善行は喧伝され、そしておそらく、それが予期せぬことから一層賞賛を浴びたのだった。だがフーシェが得意になり始めたこの名声は第一統領にとっては決して愉快なものではなく、むしろ彼が持ち得る強権でもってして警告すること無しに静観できない類のものだった。各派閥の状況について深く知悉するフーシェは、ある一派を従わせている一方で、もう片方の一派からは擦り寄られており、そして全方面から恐れられていた。無数にいる手下を用いて、散在する反政府分子をいかなる時であろうと一箇所にかき集めることができるフーシェは、その危険極まりないポストにずっと収まり続けることが許されるにはあまりにも手強い存在であった。これにつけ加えるならば、ボナパルトはフーシェを通じて彼の情事がジョゼフィーヌに筒抜けになっていることに十分気づいていた。国家元首たる者が諜報システムに翻弄される有様について、フーシェは愉快な証言をしている。
「ある日ボナパルトは、私の定評のある才能を念頭に置きつつ、私がその機能をよく果たしておらず、私が知りえない出来事が何点かある事が意外だと述べた。『ええ』と私は返答した。『私が知らない物事は確かに存在しましたが、今はよくそれらを知っております。例として、ある小男が灰色のコートに身を包み、従者を一人伴って、時折トゥイルリ―の秘密の扉から暗夜へ忍び出ると、有蓋馬車に乗ってG嬢のもとへ向かいました。この小男は閣下です。ところで、この気まぐれな歌手はバイオリン弾きのローデに惚れ込んで、ずっと閣下につれない態度ですな。』統領は一言も言い返さず、背を向けると、呼び鈴を鳴らした。私はすみやかに退出した。」
これまでに述べた理由、またそれ以外でも容易に想像できる理由(中でも、フーシェが爆破装置の爆発を予測し、阻止できなかった事は疑いもなく理由となった)のため、アミアンの和約ののち、警察省は廃止される。だが彼は主人のために幾度も危険を知らせてきたので、ナポレオンは気前よく報いることなしに彼を免職できなかった。彼はエクスの代表議員のポストと莫大な金を与えられた。

サン=ニケーズ街の陰謀(1800年)

*ナポレオンの秘書ブーリエンヌだと本書では示される。

2017年11月9日木曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (3)


国事から離れているおよそ2年を、フーシェは決して無為に過ごさなかった。ボナパルトはしょっちゅう彼の助言を必要とし、彼は求めに応じて進んでそれを提供した。彼ほど人間の本性を熟知する者はなく、また彼ほど周囲の人物を完璧に把握している者はいなかった。彼は第一統領の絶えることなく念頭に置いている目標が何か分かっており、彼の燃え盛る野心を煽り立てて止もうとしなかった。彼はあらゆる物事がどう帰結するか見通しており、やがて欧州の命運を支配するようになる人物の好意を確保しようと、帝政の樹立を助言した。王族は暴君であり万民の幸福と相和しないとの理由で、あの良き王ルイに死刑票を投じ、またその際に侮辱さえ加えたこの男は、全ての自由の敵であるこの人物に、人民の権利を恒久的に損なわせる帝位に登極するよう積極的に唆した。この素晴らしき意見の変化の秘密は次にある簡潔な一文に表されている。「あの時のボナパルトは我々の繁栄と尊厳と雇用を確保できる唯一の人物だった。」こうした見解は彼の他にある転向のほとんどを十分に説明しているものの、この件に関しては同じように事実だと承認する向きは滅多にない。

フーシェ
彼が帝国の廟堂のために、革命で獲得された代議制を進んで犠牲としたこと、そしてカドゥーダルの陰謀によって国家元首が身辺を引き続き守らねばならないと判断したこと、言い換えるならば報酬と警察の必要性に基づいて、かつての大臣が掌中とする警察機構の再導入が成された。その権限は増大し、その多岐にわたる組織は再編された。

フーシェの下には4人の参事がついており、彼らは毎週一度フーシェの執務室に集結すると報告書を差し出し、そして指示を受け取った。彼らの主とする任務は、様々な部署の責任者とやり取りし、刑務所と憲兵の動き、そして何よりも異邦人や亡命者、不審人物と思われる者すべてを監視することだった。彼らは自身の権限で些事を片付けることはできたが、重大事は彼らの上司に委ねられた。

彼の組織網は主として雇われたスパイによって成り立っており、彼らは知り得た情報を各責任者、4人の参事もしくはフーシェ自身に報告していた。これらのスパイは男女両方おり、彼らは働きと重要度に応じて一定の報酬を与えられた。より重要性の高い出来事を察知する者は、月に1〜2千フランを受け取り、フーシェに直接情報を伝達していた。あらゆる消息はその送り手の署名がされていたものの、それは実名ではなく、通り名が用いられた。3ヶ月ごとにスパイのリストが皇帝に差し出され、彼は配置やその他の報酬を裁定することで、当該スパイの精勤ぶりが他より抜きん出てることを知らしめた。

こうしたスパイの活動はフランス国内に限られていなかった。あらゆる政府、あらゆる外国の街に、自国民でありながらフランスの支配者に身を売った連中がいたのだ。売国行為は各国の君主の会議室においてさえ頻繁に幅を利かせており、包囲された街の中では一層顕著だった。外語新聞、差し押さえられた手紙や文書は、公私に関わらずフーシェの執務室に運ばれた。こうした卑劣な雇われ人の数は膨大だった。この仕事の卑劣さにも関わらず、高位にある人物もそれに手を染めていた。ある時フーシェは(彼の話では)自分の忠実な手下の中には3名の王侯がいると自慢した。

このような諜報システムの維持費は莫大で、毎年数百万フランを食い尽くした。これは主に闇献金や定期的な税収、賭博場や娼館からの徴収金、旅券の発行の代価によって賄われた。

尋常ならざる権力を与えられたこの大臣は、かつての旧友の共和主義者と帝政を簒奪と見なす王党派を上手いこと新しい王朝に帰着させようと尽力した。彼の功績は報われて、封建制度が創設された暁には忘れられることはなかった。彼は与えられたオトラント公爵位について、「皇帝の福引から引き当てた麗しく素晴らしい当たりくじ」と述べた。

オトラント公フーシェ

常にこの国王殺しは旧王朝の復古の可能性は最小であるのが望ましいと思っていたが、彼がそうなる事を非常に恐れていたのは容易に想像でき、よって彼は何としてでもそれを阻止しようと努めた。ナポレオンがおそらく己の輝かしい遺産の後継者と定めていたオルタンス・ボアルネの幼児の死と、皇帝がジョゼフィーヌとの子宝を決して期待できなくなったことは、支配王朝の運命に自身の運勢が結びついている者らの間に相当な危機感を生じさせた。フーシェは後継者問題がブルボン復古の兆しとなると察した最初の人物の一人だった。これに関して皇帝が心に秘めていることを見通していたフーシェは、決定打を放った。彼はナポレオンにジョゼフィーヌと離婚をして、だれか若い王女と結婚するよう助言した。否、彼は比類なき厚かましさでジョゼフィーヌ自身にも犠牲となるよう勧めたのだった。

「この提案には(彼の話では)ある程度の前準備が必要だった。私はフォンテーヌブロー城にて日曜日のミサのあとに探し求めていた機会を得た。会話しながら、私は窓の斜間に彼女を引き入れた。私の話術が許す限り慎重に言葉を選びつつ、可能な限りの気配りしながら、私は彼女に、それが最も崇高にして、同時に最も避けがたい犠牲であるとして、離婚について初めて考えを明かした。はじめに彼女の顔は紅潮し、次いで青ざめ、唇はふるえ、その見た所全ては彼女が気絶するか、もしくは激昂するのではないかとの恐れを抱かせた。彼女は口ごもりながら私に、指示を受けてそのような苦々しい提案をしているのか尋ねた。私は誰かの指示ではなく、自分の予想としてそれが明らかに必要であるがゆえに口にしたと返答した。」

ジョゼフィーヌからの不平を受けて、皇帝は彼の大臣の早まった真似は本意ではないと告げて、全力で彼女を宥めようとした。だが彼は決してフーシェの更迭に同意しなかった。このような状況は彼女に対し、離婚が何も新しく生じた課題ではないと見せつけたことだろう。いや、既に決定されていたのだ。我々はそれが事実だと容易に受け止めているが、皇后はそんな離婚は意図されていないと信じきって、受けた屈辱を忘れてしまった。

2017年11月2日木曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (4)

フーシェ
人民の自由を持ち上げようと得意げに熱弁をふるいつつも、フーシェはおそらくフランスにいる者の中で、専制政治の最も揺るぎない支援者だった。彼は良心のとがめを感じる事なく皇帝の暴君じみた野望と要求を叶えていた。ナポレオンが立法院に対して、国家の機関を果たしておらず、法律を制定するに不能であるため断じて許容できず、然るに彼(皇帝自身)のみが国家の唯一にて真なる代表者であるとの、世に知られるあの猛烈な痛罵を加えた時、この国王弑虐者はこのような怪物じみた主張に対抗するものと期待された。ナポレオンもそのように予想したので、彼の方からこの大臣に向けてこの件について巧みに甘言を弄してみせた。だがこの大臣はナポレオン自身よりもずっと手管に長け、また狡猾なのと同じくらい卑屈な人間だった。「このやり方こそ陛下がすべき統治の有り様です。立法府それ自体が君主に属すべき人民の代表権を僭称しております。陛下、君主大権の妨げとなる議会をみな解体なさいませ。ルイ16世がそのようにしてましたら、彼は必ずや今日も生き長らえ、君臨していたことでしょう!」皇帝は目を見開くと、「これはどういうことだ、オトラント公!貴公はルイを処刑台送りにした人間の一人じゃなかったかね?」「はい、陛下。それこそ私が光栄にも陛下に捧げた最初のご奉仕であります!」

とはいえ、フーシェは決してナポレオンのお気に入りではなかった。彼は、帝政の運勢がいつか引っ繰り返り、共和政を樹立する兆候を唯々待ちわびて暗躍する党派の頭目だとの疑いを持たれていた(おそらくその通りだろう)。ルイの死後に即座に制限なき権力を手にした者達の多くは、最も尊大で専制的な君主に服従する屈辱に耐えられなかった。だが皇帝にとって最も不愉快なことに、王党派に対して恐怖以外の何者でもないこの大臣が莫大な影響力を有し、また共和主義者の陰謀からの防波堤を務めていた。この大臣が両派からおもねられており、そして彼がフォーブール・サン=ジェルマンの脅威というよりアイドルであるとの考えは、皇帝の頭の中には無かった。皇帝の不満は、大目玉を食らうに価するある出来事によって増大する。1809年に皇帝が対オーストリア戦役で不在の間、イギリス軍がヴリシンゲンを占領し、ベルギーに侵攻する様相を見せた。フーシェは国民衛兵を召集し、帝国の国境の防衛にベルナドットを派遣した。彼の措置はみごと成功を収めた。この時より彼の失脚は決定付けられる。軍隊を組織し、無数の敵を打ち負かす実行力と影響力を備えた大臣は、ナポレオンの手に余る存在だった。皇帝は他の何よりもフーシェをクビにできるもっともらしい口実を求めたが、その機会はすぐにやって来た。奇妙なことに、皇帝と大臣の双方が同時期にイギリス政府に向けて講和を打診する使者を派遣した。使者らは互いの存在を知らず、同じ任務を拝命しているとは全く気付かなかったため、和平締結の論拠となる提案内容に食い違いが発生する結果となった。この時に外交を一任されていたウェルズリー侯爵はこれを罠だと見なし、よってあらゆる交渉を破談にした。ナポレオンは彼の和平提案が如何にして妨害されたか直ちに把握すると、従臣居並ぶ中、大それた事をしでかした大臣を猛然と痛罵した。「そうか貴様は私に断りなく和平と戦争を差配する気なのだな!」フーシェはザヴァリーと交代させられると、田舎の自領へと引退を強いられた。



フーシェがフェリエールに腰を据えてさほど経たないうちに、密偵が彼の書類がじきに押収されるだろうとの情報を伝えてきた。書類の中には彼と皇帝との間に交わされた内密の書簡が含まれていた。それらを手放しては、彼は己の専断的な行為を正当化する免罪符を失ってしまう。ナポレオン直筆の命令書を保持する限り、彼が処罰を恐れる必要は無いからだ。フーシェは少なくとも最重要の書簡だけは引き渡しはすまいと心に決めると、慎重に隠し、成り行きを冷静な面持ちで待ち構えた。やがてレアルとデュボワを連れてベルティエがやって来た。フーシェ自身がこの時の情景を下記の通り描写している。

「彼らの決まり悪そうな様子から、私はまだ彼らより優位に立っており、彼らの要求もやりよう次第でどうにかなると察知した。事実、最初に口を開いたベルティエは明らかに気兼ねした様子で、皇帝の命令によって書簡を要求する為にやってきたのだと告げた。書簡を必ず引き渡さなくてはならず、もし私が拒否したならば、デュボワ長官は私を逮捕して文書を押収するとの話だった。レアルは説得するかのように、もっと感情を込めて旧友の私に話しかけた。彼は涙を流さんばかりの熱心さで私に皇帝の意に沿うよう促した。『諸君!』と私は平静に即答した。『私は皇帝の命令に抵抗する!たとえ私が最も良い働きをした時にさえ、皇帝が不当な疑いによって私を傷つけることがあったが、それでも私は常に強い熱意を持って皇帝に仕えて来た。私の執務室に入り、どこなりとも捜索したまえ。鍵を全て渡そう。私自ら諸君に文書を提供しよう。』私がこう発言した際の確固不動たる調子は効果てきめんだった。私は続けた。『私が職務についていた時期に、皇帝と私の間で交わされた私信だが、永久に秘匿されるべき類の手紙であるので、辞職した時にそうした一部を焼却した。そのような重要な文書を軽々しく人目に晒すべきではないだろう。それらを別として、諸君、皇帝の求める手紙を差し上げよう。封がされ、印がついた二つの包みの中にある!』」

この空前のはったりは彼らを圧倒した。彼らは重要でない書類をいくつか押収すると、微笑む公爵のもとを慇懃に退出した。彼らが発った直後、フーシェも身支度を整えると、夜の闇に紛れて誰にも知られず、彼らの後を追った。家令が所有する一頭立て馬車に乗り、友人一人だけを伴って、彼はパリの自邸に到着した。そこでスパイを通じて何が宮中で勃発しているか知った。激しい怒りにかられた皇帝は、派遣された一味をバカの集まりと呼び捨て、中でもベルティエを帝国で一番ずる賢い男にしてやられた年増女のような奴と罵った。ナポレオンは主君をおちょくるこの太々しい男に報復をしてやると息巻いた。状況は全くもって芳しくなかったものの、この手練れの詐欺師は何ら臆することはなかった。彼はナポレオンとの面会を決意すると宮中に参内したが、そのことは執務室への取次ぎをしたデュロックを仰天させた。

「皇帝と顔を合わせるとすぐさま私は彼の素振りから何を目論んでいるか見抜いた。私が一言も発しないうちに、彼は私を抱きしめると、おもねって、先般の己の性急な行為を悔恨するかのような発言をした。そしてあたかも関係修復を望んでいるかのような口ぶりで、彼の書簡を渡すよう要求して話を切り上げた。『陛下』私は毅然としてこう答えた。『私はそれらを破棄しました。』『そんなことがあり得るか。私に寄越せ!』と彼は激怒で眉をひそめつつ返した。『灰になって―』『失せろ!』(彼は憤怒の形相でこう発言した。)『陛下―』『下がれと言った!』(この言いぶりは私にこれ以上その場に留まるのを断念させた。)私は短い覚書を手にしていたが、こうなった以上、退出する際に丁重にお辞儀をしつつ、それを卓上に置いた。彼は怒りながらその紙を掴むと細切れにした。」


フーシェが自邸に戻ってしばらくして、ベルティエの訪問が告げられた。「私は皇帝がここまで激怒しているのを見たことがない。」とベルティエは言った。「皇帝は、貴公が私たちをかもにし、また彼をも騙そうとしていると言い張っておいでだ!」フーシェは既に2度告げた嘘を繰り返すと、もし文書が皇帝の手に落ちたら、もはや取り戻すことはできないと言い加えた。ベルティエはすごんだが、「皇帝に告げろ」と豪胆にも元大臣は返答をした。「25年間、私は断頭台に首を預けて眠るのに慣れ切っている。皇帝の権力の程は知っているが畏れはしない。お望みならば私をストラフォード伯のようにするがいいと伝えろ!」両者は決裂し、フーシェはこれまで以上に皇帝の署名と印璽のついた文書を守らなくてはと決意した。もし文書を失ったら、その執行の為に彼がした悪逆非道な行為の責任を、いずれ彼一人が負わされることになるのだ。

ストラフォード伯トマス・ウェントワース
英国議会の弾劾を受け処刑:1641年没

2017年11月1日水曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (5)


フーシェ
よく考えてみれば当然だが、フーシェは危険を感じた。逮捕される不安にかられた彼はイタリアに逃亡し、そこからアメリカへ渡ろうとした。船に乗り込んだものの、ひどい船酔いに罹ったので、彼は「忌々しい自然の猛威」にさらされ続けるよりも、下船して最悪の事態に見舞われる方を選んだ。皇帝の妹エリザの仲介によって、閣僚を務めていた時期の不正行為全てを免責する証明書を受け取る代わりに争いの根源となった文書の引渡しを条件に、フーシェは帰還許可を得た。

ロシア遠征の悲惨な終幕の後、フーシェは皇帝から呼び出された。フーシェの謀略の才能を知る皇帝は、運勢が下り坂になると一層彼に恐怖を抱いた。フーシェは主君の命令によりイリュリア総督として出立するが、オーストリア軍の侵攻によって任地を追い出される。フランスに戻る途上、フランスとオーストリアのいずれに付くべきか揺れているミュラに喝を入れる目的でナポリに赴くよう命じられた。しかし実際のところ、危険な陰謀渦巻くフランスの首都からフーシェをできる限り長いこと遠ざけておくのが本当の目的だった。彼はボナパルトが退位するまでパリに足を踏み入れなかった。あるいは、新しい国王ルイ18世が王殺しさえも受け入れてくれると確信を持つまで待機していたのかもしれない。

ルイ16世の死に関与した過去についてフーシェは目に見えるように切実に悔い改め、王家の為に熱意を持って忠実に仕えると誓いを立てたので、彼はフェリエールの領地にただ隠居するだけで済んだ。だがこれだけは満足しなかった。彼は権力を渇望していたのだ。政権入りの望みをかけて、彼はエルバ島のナポレオンに手紙を書いて亡命を勧めた。引き続き強力な支持勢力と密通できる距離にいるナポレオンを遥か彼方へ遠ざけるのがその目的だった。フーシェは元皇帝が体面を保って在住できる唯一の国であり、またフランスの国益に合致するとして、アメリカ行きを勧めた。彼は念入りにも国王の弟あてにその手紙の複製を送付した。そうしないと彼の燃え盛る真新しい忠誠心も無駄になるのだ。うまい企みだった。策謀の表向きのターゲットであるナポレオンその人の野望を煽り立てるだろうし、その一方でナポレオンの北米追放を主張することで、ブルボン朝からも歓迎されると目論んだのだ。しかし、これらは功をなさなかった。彼の能力は一目置かれたものの、人となりは呪詛の対象になるだけだった。

ナポレオン上陸(おそらくフーシェも幾ばくかそれに貢献しただろう)の報がもたらされた際、当局はフーシェを捉え、リールまで護送して人質にしようと試みた。彼はその危機を回避する。逮捕への異議申し立てを理由として、執務室の扉の外に憲兵を置き去りにしたまま、急いで庭へ降りると、梯子を引っ張り上げて高い壁を越え、棟続きにあるオルタンスの家の庭に着地した。かくしてフーシェはボナパルティストのど真ん中に放り込まれたのである。極めて不測の出来事によるものだが、これによって彼は最も熱心なボナパルティストの頭目の一人だと認識されるようになった。

百日天下では、フーシェはかつてのように警察の長として手腕を振るった。この時の彼は3重に背信行為を働いていた。人目につかないところで、皇帝ボナパルトではなく、共和国の統率者としての彼を期待する革命主義者らの機嫌をとる一方で、彼はボナパルト政権をどう打倒すべきかについてメッテルニヒおよびタレーランと連絡を取り合った。また他方で亡命先のヘントいるルイ18世の閣僚と通じ、ブルボンが二度目の復位を果たした場合に向けて、国王からの好意を確保しようとしていた。さらに彼はナポレオンの軍事作戦の機密情報をウェリントン公爵に提供しようとした。確かに彼は戦役全体の確実な作戦内容を公爵に約束していたが、彼の言うところによれば、良心が祖国を裏切るのを阻んだと言う。彼は極秘にその作戦内容をある夫人に持たせて送ったが、戦役の動向に決着がつく前にその手紙が対象人物に辿りつかないよう、あえてベルギーとの国境で彼女が捕まるように仕向けた。ロンドン、ヘント、ウィーンにいる手先らは、フーシェの指示に忠実に従い、彼が王制の最も素晴らしい支援者であると吹聴して回った。そのかたわらフーシェ自身はパリにいて、皇帝の子分の軍人どもから、革命の残りカスの連中にいたる、ありとあらゆる派閥の野心と策動を駆り立てるのに躍起になっていた。

メッテルニヒがフーシェに送った
密使を尋問するナポレオン
この無節操な大臣によるゲームは実際のところ命がけだった。すんでのところで彼は受けるにふさわしい処罰を回避したことがあった。彼とメッテルニヒとの謀議が発覚したのである。二人の政治家は、密使をバーゼルに派遣しあい、ナポレオンをフランスから排除する為に必要な手段を講じようとした。フーシェが知らないところで、ナポレオンはフルーリ・ド・シャボロンを派遣してそのオーストリアからの密使と面会させ、フーシェの裏切りが単なる予想に留まらない物であることを存分に引き出した。だが、まさにその時、奸知に長けた大臣は状況を察知する。彼は宮中に赴くと、普段通りに政務について皇帝とやりとりをし、そして執務室を退出する際に、まるで偶然思い出したかのように、メッテルニヒがバーゼルに使者を送るように要求したが(その目的については口にしなかった)、膨大な仕事に忙殺されてその手紙をナポレオンに見せるのを忘れていたと告げたのである!「総力戦による惨事を回避したいがために、連合国はご子息[ナポレオン2世]に譲る形で陛下の退位を望んでいるのでしょう。メッテルニヒの意見もそうなのだと確信してます。また私自身も同意見だと言わねばなりません。陛下は全ヨーロッパをあげた軍事力に太刀打ちできません。」フーシェは皇帝に使者を送るべきか否かの判断を委ねたのだ!このようにまたも狡知によって彼は命拾いをした。

晩年のフーシェ
ルイ18世が帰還すると、王室の為によい働きをしたと思われたことから、その報酬としてフーシェは引き続きその地位に留め置かれた。だが彼は、国王からの信頼を受け続けるには己の人となり(とりわけ革命期の所業は忘れられていなかった)があまりに広く知れ渡っていることに気づく。代議院の選挙にて、王党派が多数を占めるようになり、また日毎にフーシェの不行跡と裏切り行為を糾弾する声が高まると、彼はこのままの地位に留まり続けては危険が及ぶと確信するに至った。彼は辞任すると、ドレスデン駐在大使に任命された。世の復讐は彼を追い詰める。1816年1月、両院にて、彼は国王弑虐者として糾弾され、フランスの領土に再度足を踏み入れたら死刑に処すと宣告された。彼は当初プラハに、その後オーストリア政府の許可を得て、リンツとトリエステに落ち着いた。1820年、トリエステにて病を得て死去した。

フーシェの人物像についてただ言えることは、血と裏切りと強欲に塗れていたこと、そして、人間の本質の奥底まで汚れきっていたことである。


2017年8月5日土曜日

1-13-a マリア・ルイーザ




この皇女はドイツ皇帝フランツⅡ世とナポリのマリア・テレジア・フォン・ネアペルとの間に、1791年12月12日に生まれた。

幼少時から、この大公女は、格別な気質の優しさ、穏やかさ、そしてあらゆる面での人当たりの良さを有していた。それゆえ、彼女は家族の、とりわけ父親にとってアイドルであり、彼女の父親への影響力は絶大だった。

皇帝一家
1809年の戦役にて、ウィーンがフランス軍によって爆撃された際、マリア・ルイーザは皇室のメンバーの中で唯一この首都に残っていた。彼女は重病だったため避難が出来ず、よって宮殿に従者たちと取り残された。ナポレオンはこうした事情を知らされると、彼は即座にこの病人の避難先を爆撃対象から外すよう命令を出した。彼は皇女の動静に関心を持つと、ひっきりなしに彼女について問い合わせを行ったが、それはおそらく彼が早々に彼女をジョゼフィーヌに代わって皇后の位につけようと決心したからだと思われる。この推測は、数ヶ月後にシェーブルンの和約が締結され、彼が彼女に求婚したことで確実となる。

ナポレオンと
マリア・ルイーザの婚礼
1810年3月11日にウィーンにて皇帝と皇后の婚礼が祝賀されると、この若い花嫁は数日のうちにナポリ王妃(カロリーヌ・ボナパルト)に伴われてフランスへ旅立った。ソワソンの近くで、供人もわずかに、目立たない身なりをした一人の馬上の人物が、若い皇后の乗る馬車を通り越した。そして大胆にもより近くで検分しようとしたのか戻ってきた。馬車は停止し、扉は開かれると、ナポレオンは全く儀礼を無視する形で自己紹介をした。その後4月1日に結婚はパリにてフェッシュ枢機卿によって正式なものとされた。婚礼にあたり、オーストリア大使のシュヴァルツェンベルク公が二人のために豪奢な催しを開いた時、悲劇的な出来事が発生した。舞踏会のホールにて火事が発生し、公の義理の姉を含む多くの人々が犠牲になる。皇后自身も危険に晒されたと言われる。この災害は凶兆だと見なされた。とりわけ1770年に彼女の大叔母のマリー・アントワネットがルイ16世と結婚した際に、同じような惨事が発生したことを思い起こさせた。

結婚して1年も経たないうちに、マリア・ルイーザは皇帝との間に息子を産んだ。出産はこの上なく難産で、産科医は神経を張り詰めていた。ナポレオンは彼を励まして「彼女が皇后であることは忘れ、町外れのサン・ドニにいる最も可哀想な女に対応しているのだと思え。彼女はただの女だ!」と述べた。新生児は死産かと思われたが、101の砲声によって意識を取り戻した。

皇后とローマ王(ナポレオンⅡ世)

あらゆる類の陰謀とも野心とも無縁であったこの皇女は良妻賢母の鑑であった。夫を満足させ、従うことも、幼い息子の世話をすることも、彼女にとって職務であり喜びであった。ナポレオンが1814年に戦役のためパリを出立すると、彼女は摂政皇后として残された。しかしこの権威は単に名目的なもので、実際の権限は摂政評議会に付与された。彼女は政府の運営も、家庭以外の何事についても、才能も嗜好もわずかしか持ち合わせていなかった。連合国軍が迫ってくると、彼女はブロワに避難した。そしてパリ条約が締結されると、彼女は父親の宮廷へ帰還し、皇后の称号を剥奪されると、パルマ、プラケンティア、グアスタッラ女公の称号と連合国によって認められた封土の統治権を与えられた。

ナポレオンの二人の妻の間には大きなそして驚くほどのコントランスがあった。ジョゼフィーヌはあらゆる手管と習得した優雅さを有し、他方マリア・ルイーザは全てにおいて自然かつ質朴だった。前者はその振る舞いにある種の大胆さがあったが、後者はしばしば内気とも言えるほど極めて遠慮がちであった。前者は相当な才能を有し、それを大勢の前で喜んで披露したが、後者の方の才覚はさほど際立っていないとしても、彼女の年齢にしては堅実なものであった。ジョゼフィーヌはサロンでの賞賛を浴びるに似つかわしいもので、マリア・ルイーザは家庭愛そのものだった。実に奇妙なことに、自らを作り上げた人物は西インドの入植者の娘で、自然なままの性質を備えた人物は、欧州で最も尊貴なる家系の皇女であった。それ以外では、どちらの女性も性質の愛らしさを備え、ナポレオンに献身的であり、貧しい者たちに善意を施した。マリア・ルイーザの慈悲心について一例として、彼女の家政の管理者の一人であるデュラン夫人の記録を紹介する。

「ある夜、皇后が晩餐の席を立ち、自室に下がった時、エスペランスという名のとても誠実な性格の下男が興奮した様子で入ってきて、彼が今しがた目にした辛い光景を女官たちに知らせようとした。彼は、エシェル通りにある家の7階に住むある家族について、主人とその妻および子供が6人もいるのに、もう2日間も食にありつけていないと告げた。彼はその境遇を知ると、実際に見に行き、それが事実だと確かめた。しかし彼らをどうしようにも与える金が無く非常に悲しい思いをしたと言う。ある女官は困窮に陥った気の毒な犠牲者たちの為に、彼に10フランを与えた。さらに彼女は、皇后が戻ってくると、彼らの悲惨な境遇を伝え、救援するよう促した。皇后は即座に400フランをその家に送るよう命じた。皇后陛下は、時刻は深夜に差し掛かり、すでに10フランが送られていることから、その貧しい者らは明日の朝まで待つ事ができると説得されたが、『いいえ』と返事をすると、『そのお金をすぐに送って頂戴。私は自分の力で彼らが安心して素晴らしい夜を過ごせると思えるのが嬉しいのです』と告げた。その救援金はすぐに送付され、この一家は引き続き長いあいだ皇后からの助成を得られた。」

おそらく1825年だったと記憶するが、彼女の夫が死去したのちに、マリア・ルイーザはナイペルク伯爵の求婚を受け結婚したが、欧州の王室からの認知を得られなかった。ナポレオンとの間の息子はウィーンで教育を受け、ライヒシュタット公の称号を得ている。彼は人当たりの良い性格をし、かなり嗜み深い若者で、祖父の皇帝から大いに寵愛されていると伝えられる。いかなる運命が彼を待ち受けているか、誰があえてそれを推測できようか?

ライヒシュタット公
(ナポレオンⅡ世)