2017年11月13日月曜日

フーシェの見た元帥任命(1804年)

鷲章旗の授与(ジャック=ルイ・ダヴィッド画)

1804年、皇帝即位とともに、ナポレオンは18名の帝国元帥を任命するが、それについてフーシェは回顧録でこう述べている。
「ナポレオンは皇帝になるにあたり、国民の正式な裁可も議会の承認も求めていなかった。後者はもはや彼の言いなりとなる機関に成り果てていた。軍隊、それこそが彼の政権の基盤としてしっかりと地固めすべきものだった。よって、彼は最も自分に献身的な将軍と、一方で対立的だが下手に排除ができない将軍の双方に、帝国元帥という称号を急いで授与した。
前者にあたる、ベルティエ、ミュラ、ランヌ、ベシエール、ダヴー、スルト、ルフェーブルを彼は頼りにしており、後者のジュールダン、マッセナ、ベルナドット、ネイ、ブリュヌ、オージュローは、君主制よりも共和制支持派だった。ペリニョン、セリュリエ、ケレルマン、モルティエは単に重みを与えるために授与されたに過ぎず、世論が納得するように18元帥の選別は決定された。」
モンセーが言及されていないけど、たぶん名誉元帥枠。いずれにせよ元帥号はただの称号で、必ずしも権能と直結していない。

2017年11月12日日曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (1)




ジョゼフ・フーシェ、自国の情勢に極めて重大な影響を及ぼすべく運命付けられたこの人物は、1763年5月29日[実際は1759年5月21日]にナントに誕生した。

商船の船長であった父親が息子を船乗りすべく望んだことから、若きジョゼフはオラトリオ会の学校に送られ、そこにて数学を学んだ。しかし、彼は海が大嫌いだった。実際のところ神経質な性質の彼にとって、自然の荒々しさは馴染めないものだった。彼はまったく違うキャリアを選択する。彼はオラトリオ会の誓約会員となった。そして教師に適していると自覚を生じて、三角関数にのめり込み、哲学やスコラ学を理解する明敏さを有していると自負したことから、パリに移って学問を修得した。彼が聖職者を目指したという説は間違いだ。オラトリオ会の一員として、僧侶たちがするのと同様に貞節と服従の誓いを立てていたが、そのような誓いはローマ・カトリックにおいては、人生を若者の指導へ捧げようとする在家信者同士の間のお決まりの作法だった。その後彼は幾つかの街で教鞭を握り、革命が勃発すると、ナントにある学校のお偉方の一人となった。

フランス政治の激変をフーシェ以上に心から歓迎した者はいないだろう。衝動によるものか或いは他に倣うようにして、人々が広がっていく思想を受け入れたのに対して、彼は熟慮と自身の志向に基づいてそうした事を誇っていた。すぐさま彼は偏向教育がもはや自分を支配しないことを確証した。彼は結婚によって誓いを破り、それによって聖職者の仲間たちと決別する。彼は愛国者協会という名の政党を立ち上げるが、その会合では、不敬神の確固さと革命主義の激烈さによって、他のメンバーを圧倒した。彼の人気はかなりのものだったので、低ロワール地方の代表として国民公会に送られた。

天はフーシェに公開弁論の高台につくに相応しい才覚を与えなかった為、彼は滅多に演壇に立たなかった。しかしながら、あの哀れなルイの裁判の時、彼は浮動票を与えるのに満足しようとしなかった。投票によって国王の運命を決定しようと提案する際に、彼はこう述べている。「暴君の死以外に、投票によって決すべき物は無いと想定している。王政を打倒した時のあの勇気、それに我々は尻込みしているかに見える。我々は国王の影にびくびくしている。共和主義者たらんとせよ。さあ国民によって我々に与えられた大権を行使しよう。大義に向けて我々の義務を果そうではないか。我々は全ての人間の権限と行く末を采配するに十分な偉大さを有している。地上の王侯に対抗する時が到来したのだ。」フーシェは「妨げられない、速やかなる死刑」に投票して締めくくった。

この国王殺しは熱意が認められて国民公会の布告を実行する道具に選ばれる。彼は怪物どもを満足させる仕事に従事する自分自身を罪深いと感じなかった。投獄、追放、殺戮、オーブおよびニエーブル県で、彼の行く先には常にこれらが伴った。彼の敵意はとりわけ僧侶たちに向けられる。83名もの僧侶がナントに移送され、この不運に見舞われた街の名高き溺死刑(溺れ死にする結婚!)の光景を描いて見せた。そして教会はすべて略奪され徹底的に破壊される。それだけにとどまらない。魂の不滅、このキリスト教が依拠する教義を攻撃したのだ。「死は単に永遠の眠りに過ぎぬ」そう彼は公共墓地の入口にくっきりとした文字で刻み込んだ。

『共和国の結婚』ことナントの溺死刑

彼のナントでの働きがどれ程の価値があろうとも、その後リヨンで喜々としてやってのけた事に比べれば可愛らしいものだった。彼はコロー・デルボワと共に赴任すると、おののく市民に向けて、彼らが人民の至上権に抵抗しようとしたこと、とりわけ革命政府からの代表者を殺害したことへの報復を宣言した。「派遣議員らは苦痛を感じることなくその使命を遂行するだろう。彼らは公然たる復讐の雷撃をその手に委ねられており、人民の敵が倒されるまで投下を止めはしない。彼らは陰謀家どもの無数の墓の上を進軍し、果てし無い破壊の跡を横切って、国家の幸福に、そして全世界の刷新にたどり着くであろう!」彼は同じ調子でパリにいる雇い主らにもこう書いた。「我々の酷烈さを緩和できるものはありません。手ぬるさ、それは危険な弱点だと言わねばなりますまい。人民の敵を攻撃する手を決して止めてはなりません。我々は奴らを一気に、見せしめになり、恐ろしく、迅速な方法で殲滅してみせます。ローヌ川に投げ込まれた血みどろの死骸は、河口の両岸にて恐怖と人民の万能性を示す見世物となるに違いありません。恐怖、有益なる恐怖こそが真実この時代の道理なのです。恐怖は悪人どものあらゆる努力を押さえ込み、犯罪の覆いと虚飾を剥ぎ取って見せるでしょう!」復讐の誓いに背くことなく、フーシェおよび恥知らずの供連れは、処刑に向けて収容された王党派たち全員のリストを日ごとに用意する。ギロチンを常に稼働させるのみならず、何百もの犠牲者をぶどう弾によって一度に処分した。「ついこの夕方」手紙(1793年12月19日付)で彼はこう著した。「我々は215人の叛徒を雷撃の的とした。」端的に言って彼は、「リヨンは後代に恐ろしい破壊の光景として、かつ共和主義による復讐と民主主義の力の金字塔として伝わるだろう(1794年2月13日付の手紙)」との根拠にて己の所業をいくぶん鼻にかけていたのだった。

リヨン市民に砲を向けるフーシェ

この国王殺しが意気揚々と任務から帰還したところ、ロベスピエールから「自由の敵」として非難を受ける。この非難の行きつく先は死刑であることは万民の知るところだった。彼がどうしてこの同志の不興を買ったかは定かではない。ある話では、あまりに度が過ぎて革命の名を汚したと責められたと言う!事実として彼が背負うに値する以上の悪名を彼に帰するつもりはないが、むしろ彼が滅多に人道面に配慮しなかったことが咎められたのだろうと思われる。たとえその通りだとしても、フーシェはロベスピエールがあと数日でも生きながらえようものなら、己の破滅は避けられないと察した。彼はタリアン、ルジャンドルら独裁体制に不満を持ち、脳天に斧がまさに振り下ろされそうになっている連中のもとに大慌てで駆け込むと、かの暴君を引きずりおろす企てに乗るよう唆した。「貴君の名前も私同様にブラックリストに載っているんだぞ!」と、大仰な文句を用いて彼は説得を行った。危機感の共有が、一致団結した抵抗を可能にし、犯罪の記録のうち最も血に塗れた一頁に名を載せる怪物を打倒させた。

テルミドール9日

この用心深い民主主義者は日ごとに世論がこうした革命の戦慄に対して嫌悪感をつのらせていくのを察するや否や、しきりに迎合して人道性を求めて声を上げはじめた。かくも機敏にすり寄ったにも関わらず、当局の穏健派の憤慨を浴びて、彼は一度ならずテロリストとして糾弾され、首都の壁のはるか向こうでその罪深い首をすくめながら身を隠すことを強いられた。総裁政府が全国に恩赦を出した後でさえ、彼が重要な公職にありつくまで長くかかった。だがそうは言っても、彼は最もゆるぎない革命主義者だったうえ、その才能が上位にあることはよく知られていたので、やがてバラスによって登用された。1798年、彼はイタリア大使として派遣され、次いで同じく大使としてオランダに送られたところ、新しい警察を統括するために呼び戻された。フーシェの警察、これはそれまでに専制政治の援助によって設立されたものの中で、一番手強い機構となった。

2017年11月11日土曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (2)

フーシェ

統領政府の樹立にあたって、警察省は保持された。実際、フーシェなくしてボナパルトは権力の地盤を固めることも、暗殺者の刃から身を守ることもできなかった。彼のみがいまだに闇の中に潜む革命の亡霊どもを召喚でき、そして彼のみが王党派たちの企みを暴き出して、それを阻止することができた。フーシェを通して第一統領は、何よりも望ましいこととしてフーシェ自身を革命主義者と王党派に加担させることなく、両方を叩きのめすことができた。危険人物と思しき者らのリストは丹念に仕上げられ、投獄ないし追放がそれに続いた。死刑は滅多に適用されなかった。フーシェは賢明にも不要な流血は恐怖ならびに嫌悪と憤懣を生み出すと気づいていたのだ。よって死刑は、彼の言葉を借りるならば、「犯罪よりなお悪い、過ち」だった。彼の隠密行動がどれほど穏健だったかについてだが、彼の挙動の大部分は完全に闇に包まれており、それは全知の神のみぞ知るところである。賞罰を執行可能な専制国家はそのための十分な手段を備えているものである。そして、それはただ悪事を働くと思しき人物の目星をつけるだけではなく、そのような人物をその目的の為に頻繁に雇い入れていた。

警察長官は過去の悪名(それは幾ばくか人気を集める要素になっていたかもしれないが)を包み隠すことにあまりに苦心していたため、表面的に主君の横暴な意図をただ諾々と遂行する道具ではあり続けなかった。共和主義者の筆頭と見なされていたフーシェは、かつて死に物狂いで敵対していた王党派の好意を確保しようと熱望していた。彼は突如王党派を大事に扱いだすと、訪ねてくる旧貴族たちを客間に迎え入れた。ある者はそうした貴族らの古き血統に由来する名誉を汚さぬよう擁護し、またある者は彼らが悪名高き人物と接触をもって自身を汚したと軽蔑した。それ以外の者たち(それは懸念されるほど大多数であった)は、利益の為に名誉を犠牲にし、新しい統制機関を是認した。否、彼が雇い入れたスパイの中にこうした貴族の名は少なからず見受けられたのである。彼らは共和主義者と同じくらい王党派を嗅ぎ回っていた。読者はいっそう驚くだろうが、ジョゼフィーヌ自身もスパイのリストに名を連ねていた。なんと彼女の夫の挙動を探っていたのである!しかしながら、ナポレオンを害する情報は何であれ、警察長官も要求せず、ジョゼフィーヌ自身もまた伝達しなかったと容易に想像できる。だが、もし『フーシェ回顧録、第一統領の密偵』の記載を信用するならば、フーシェの手先の中で最も有用だった者として、
「その能力は認められつつも、貪欲さよって速攻で名を汚したこの男は、あまりに金への渇望を露わにしていたので、あえて名前を挙げる必要はないだろう。*  書類の保管場所であれ、主君の機密であれ、彼は見つけ出したので、私は第一統領の身辺を見張っておくために、月に10万フランを費やした。彼は、幾ばくかの金とともに、私の対策を終わらせるよう仕向けるアイデアを思いついた。彼は私を訪ねて来ると、もし私が彼に月2.5万フランを渡せば、ボナパルトの行動の全て教えると持ちかけてきた。彼はこうすることで、一年のうちに90万フランの貯金ができると言いたてた。統領の足跡を私はハラハラしながら辿っていたので、この腹心の秘書を雇うことで、かの統領が何をしていたかだけでなく、何をしようとしていたか把握できるチャンスを逃すつもりはなかった。私は提案を受け入れ、毎月彼は2.5万フランの見返りとして警察省の戸棚の上に置かれた指示書を受け取った。彼の手際の良さと情報の正確さは賞賛するに足るものだった。」「私はこうすることで知りたがっていたことを正確に把握することができた。私はジョゼフィーヌの情報網を用いて、秘書官の情報網に修正を加えることができ、またジョゼフィーヌのものを秘書官のもので手を加えた。私は全ての敵を集めたよりも強くなっていた。」
フーシェの慎重な身の処し方はかなり意図した通りの効果をもたらした。人々の多くは、彼のかつての犯罪行為は世情に迫られたものであり、現在の抑制した振る舞いは彼が本当に暴力を嫌っているからであると思っていた。彼がその職掌において行った非道は確かに十分苛烈であったが、彼にとって幸運なことに、それらは一般に知れ渡らなかった。取り調べさえも、これ以上ないほど謎に包まれて進められていた。彼の善行は喧伝され、そしておそらく、それが予期せぬことから一層賞賛を浴びたのだった。だがフーシェが得意になり始めたこの名声は第一統領にとっては決して愉快なものではなく、むしろ彼が持ち得る強権でもってして警告すること無しに静観できない類のものだった。各派閥の状況について深く知悉するフーシェは、ある一派を従わせている一方で、もう片方の一派からは擦り寄られており、そして全方面から恐れられていた。無数にいる手下を用いて、散在する反政府分子をいかなる時であろうと一箇所にかき集めることができるフーシェは、その危険極まりないポストにずっと収まり続けることが許されるにはあまりにも手強い存在であった。これにつけ加えるならば、ボナパルトはフーシェを通じて彼の情事がジョゼフィーヌに筒抜けになっていることに十分気づいていた。国家元首たる者が諜報システムに翻弄される有様について、フーシェは愉快な証言をしている。
「ある日ボナパルトは、私の定評のある才能を念頭に置きつつ、私がその機能をよく果たしておらず、私が知りえない出来事が何点かある事が意外だと述べた。『ええ』と私は返答した。『私が知らない物事は確かに存在しましたが、今はよくそれらを知っております。例として、ある小男が灰色のコートに身を包み、従者を一人伴って、時折トゥイルリ―の秘密の扉から暗夜へ忍び出ると、有蓋馬車に乗ってG嬢のもとへ向かいました。この小男は閣下です。ところで、この気まぐれな歌手はバイオリン弾きのローデに惚れ込んで、ずっと閣下につれない態度ですな。』統領は一言も言い返さず、背を向けると、呼び鈴を鳴らした。私はすみやかに退出した。」
これまでに述べた理由、またそれ以外でも容易に想像できる理由(中でも、フーシェが爆破装置の爆発を予測し、阻止できなかった事は疑いもなく理由となった)のため、アミアンの和約ののち、警察省は廃止される。だが彼は主人のために幾度も危険を知らせてきたので、ナポレオンは気前よく報いることなしに彼を免職できなかった。彼はエクスの代表議員のポストと莫大な金を与えられた。

サン=ニケーズ街の陰謀(1800年)

*ナポレオンの秘書ブーリエンヌだと本書では示される。

2017年11月9日木曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (3)


国事から離れているおよそ2年を、フーシェは決して無為に過ごさなかった。ボナパルトはしょっちゅう彼の助言を必要とし、彼は求めに応じて進んでそれを提供した。彼ほど人間の本性を熟知する者はなく、また彼ほど周囲の人物を完璧に把握している者はいなかった。彼は第一統領の絶えることなく念頭に置いている目標が何か分かっており、彼の燃え盛る野心を煽り立てて止もうとしなかった。彼はあらゆる物事がどう帰結するか見通しており、やがて欧州の命運を支配するようになる人物の好意を確保しようと、帝政の樹立を助言した。王族は暴君であり万民の幸福と相和しないとの理由で、あの良き王ルイに死刑票を投じ、またその際に侮辱さえ加えたこの男は、全ての自由の敵であるこの人物に、人民の権利を恒久的に損なわせる帝位に登極するよう積極的に唆した。この素晴らしき意見の変化の秘密は次にある簡潔な一文に表されている。「あの時のボナパルトは我々の繁栄と尊厳と雇用を確保できる唯一の人物だった。」こうした見解は彼の他にある転向のほとんどを十分に説明しているものの、この件に関しては同じように事実だと承認する向きは滅多にない。

フーシェ
彼が帝国の廟堂のために、革命で獲得された代議制を進んで犠牲としたこと、そしてカドゥーダルの陰謀によって国家元首が身辺を引き続き守らねばならないと判断したこと、言い換えるならば報酬と警察の必要性に基づいて、かつての大臣が掌中とする警察機構の再導入が成された。その権限は増大し、その多岐にわたる組織は再編された。

フーシェの下には4人の参事がついており、彼らは毎週一度フーシェの執務室に集結すると報告書を差し出し、そして指示を受け取った。彼らの主とする任務は、様々な部署の責任者とやり取りし、刑務所と憲兵の動き、そして何よりも異邦人や亡命者、不審人物と思われる者すべてを監視することだった。彼らは自身の権限で些事を片付けることはできたが、重大事は彼らの上司に委ねられた。

彼の組織網は主として雇われたスパイによって成り立っており、彼らは知り得た情報を各責任者、4人の参事もしくはフーシェ自身に報告していた。これらのスパイは男女両方おり、彼らは働きと重要度に応じて一定の報酬を与えられた。より重要性の高い出来事を察知する者は、月に1〜2千フランを受け取り、フーシェに直接情報を伝達していた。あらゆる消息はその送り手の署名がされていたものの、それは実名ではなく、通り名が用いられた。3ヶ月ごとにスパイのリストが皇帝に差し出され、彼は配置やその他の報酬を裁定することで、当該スパイの精勤ぶりが他より抜きん出てることを知らしめた。

こうしたスパイの活動はフランス国内に限られていなかった。あらゆる政府、あらゆる外国の街に、自国民でありながらフランスの支配者に身を売った連中がいたのだ。売国行為は各国の君主の会議室においてさえ頻繁に幅を利かせており、包囲された街の中では一層顕著だった。外語新聞、差し押さえられた手紙や文書は、公私に関わらずフーシェの執務室に運ばれた。こうした卑劣な雇われ人の数は膨大だった。この仕事の卑劣さにも関わらず、高位にある人物もそれに手を染めていた。ある時フーシェは(彼の話では)自分の忠実な手下の中には3名の王侯がいると自慢した。

このような諜報システムの維持費は莫大で、毎年数百万フランを食い尽くした。これは主に闇献金や定期的な税収、賭博場や娼館からの徴収金、旅券の発行の代価によって賄われた。

尋常ならざる権力を与えられたこの大臣は、かつての旧友の共和主義者と帝政を簒奪と見なす王党派を上手いこと新しい王朝に帰着させようと尽力した。彼の功績は報われて、封建制度が創設された暁には忘れられることはなかった。彼は与えられたオトラント公爵位について、「皇帝の福引から引き当てた麗しく素晴らしい当たりくじ」と述べた。

オトラント公フーシェ

常にこの国王殺しは旧王朝の復古の可能性は最小であるのが望ましいと思っていたが、彼がそうなる事を非常に恐れていたのは容易に想像でき、よって彼は何としてでもそれを阻止しようと努めた。ナポレオンがおそらく己の輝かしい遺産の後継者と定めていたオルタンス・ボアルネの幼児の死と、皇帝がジョゼフィーヌとの子宝を決して期待できなくなったことは、支配王朝の運命に自身の運勢が結びついている者らの間に相当な危機感を生じさせた。フーシェは後継者問題がブルボン復古の兆しとなると察した最初の人物の一人だった。これに関して皇帝が心に秘めていることを見通していたフーシェは、決定打を放った。彼はナポレオンにジョゼフィーヌと離婚をして、だれか若い王女と結婚するよう助言した。否、彼は比類なき厚かましさでジョゼフィーヌ自身にも犠牲となるよう勧めたのだった。

「この提案には(彼の話では)ある程度の前準備が必要だった。私はフォンテーヌブロー城にて日曜日のミサのあとに探し求めていた機会を得た。会話しながら、私は窓の斜間に彼女を引き入れた。私の話術が許す限り慎重に言葉を選びつつ、可能な限りの気配りしながら、私は彼女に、それが最も崇高にして、同時に最も避けがたい犠牲であるとして、離婚について初めて考えを明かした。はじめに彼女の顔は紅潮し、次いで青ざめ、唇はふるえ、その見た所全ては彼女が気絶するか、もしくは激昂するのではないかとの恐れを抱かせた。彼女は口ごもりながら私に、指示を受けてそのような苦々しい提案をしているのか尋ねた。私は誰かの指示ではなく、自分の予想としてそれが明らかに必要であるがゆえに口にしたと返答した。」

ジョゼフィーヌからの不平を受けて、皇帝は彼の大臣の早まった真似は本意ではないと告げて、全力で彼女を宥めようとした。だが彼は決してフーシェの更迭に同意しなかった。このような状況は彼女に対し、離婚が何も新しく生じた課題ではないと見せつけたことだろう。いや、既に決定されていたのだ。我々はそれが事実だと容易に受け止めているが、皇后はそんな離婚は意図されていないと信じきって、受けた屈辱を忘れてしまった。

2017年11月2日木曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (4)

フーシェ
人民の自由を持ち上げようと得意げに熱弁をふるいつつも、フーシェはおそらくフランスにいる者の中で、専制政治の最も揺るぎない支援者だった。彼は良心のとがめを感じる事なく皇帝の暴君じみた野望と要求を叶えていた。ナポレオンが立法院に対して、国家の機関を果たしておらず、法律を制定するに不能であるため断じて許容できず、然るに彼(皇帝自身)のみが国家の唯一にて真なる代表者であるとの、世に知られるあの猛烈な痛罵を加えた時、この国王弑虐者はこのような怪物じみた主張に対抗するものと期待された。ナポレオンもそのように予想したので、彼の方からこの大臣に向けてこの件について巧みに甘言を弄してみせた。だがこの大臣はナポレオン自身よりもずっと手管に長け、また狡猾なのと同じくらい卑屈な人間だった。「このやり方こそ陛下がすべき統治の有り様です。立法府それ自体が君主に属すべき人民の代表権を僭称しております。陛下、君主大権の妨げとなる議会をみな解体なさいませ。ルイ16世がそのようにしてましたら、彼は必ずや今日も生き長らえ、君臨していたことでしょう!」皇帝は目を見開くと、「これはどういうことだ、オトラント公!貴公はルイを処刑台送りにした人間の一人じゃなかったかね?」「はい、陛下。それこそ私が光栄にも陛下に捧げた最初のご奉仕であります!」

とはいえ、フーシェは決してナポレオンのお気に入りではなかった。彼は、帝政の運勢がいつか引っ繰り返り、共和政を樹立する兆候を唯々待ちわびて暗躍する党派の頭目だとの疑いを持たれていた(おそらくその通りだろう)。ルイの死後に即座に制限なき権力を手にした者達の多くは、最も尊大で専制的な君主に服従する屈辱に耐えられなかった。だが皇帝にとって最も不愉快なことに、王党派に対して恐怖以外の何者でもないこの大臣が莫大な影響力を有し、また共和主義者の陰謀からの防波堤を務めていた。この大臣が両派からおもねられており、そして彼がフォーブール・サン=ジェルマンの脅威というよりアイドルであるとの考えは、皇帝の頭の中には無かった。皇帝の不満は、大目玉を食らうに価するある出来事によって増大する。1809年に皇帝が対オーストリア戦役で不在の間、イギリス軍がヴリシンゲンを占領し、ベルギーに侵攻する様相を見せた。フーシェは国民衛兵を召集し、帝国の国境の防衛にベルナドットを派遣した。彼の措置はみごと成功を収めた。この時より彼の失脚は決定付けられる。軍隊を組織し、無数の敵を打ち負かす実行力と影響力を備えた大臣は、ナポレオンの手に余る存在だった。皇帝は他の何よりもフーシェをクビにできるもっともらしい口実を求めたが、その機会はすぐにやって来た。奇妙なことに、皇帝と大臣の双方が同時期にイギリス政府に向けて講和を打診する使者を派遣した。使者らは互いの存在を知らず、同じ任務を拝命しているとは全く気付かなかったため、和平締結の論拠となる提案内容に食い違いが発生する結果となった。この時に外交を一任されていたウェルズリー侯爵はこれを罠だと見なし、よってあらゆる交渉を破談にした。ナポレオンは彼の和平提案が如何にして妨害されたか直ちに把握すると、従臣居並ぶ中、大それた事をしでかした大臣を猛然と痛罵した。「そうか貴様は私に断りなく和平と戦争を差配する気なのだな!」フーシェはザヴァリーと交代させられると、田舎の自領へと引退を強いられた。



フーシェがフェリエールに腰を据えてさほど経たないうちに、密偵が彼の書類がじきに押収されるだろうとの情報を伝えてきた。書類の中には彼と皇帝との間に交わされた内密の書簡が含まれていた。それらを手放しては、彼は己の専断的な行為を正当化する免罪符を失ってしまう。ナポレオン直筆の命令書を保持する限り、彼が処罰を恐れる必要は無いからだ。フーシェは少なくとも最重要の書簡だけは引き渡しはすまいと心に決めると、慎重に隠し、成り行きを冷静な面持ちで待ち構えた。やがてレアルとデュボワを連れてベルティエがやって来た。フーシェ自身がこの時の情景を下記の通り描写している。

「彼らの決まり悪そうな様子から、私はまだ彼らより優位に立っており、彼らの要求もやりよう次第でどうにかなると察知した。事実、最初に口を開いたベルティエは明らかに気兼ねした様子で、皇帝の命令によって書簡を要求する為にやってきたのだと告げた。書簡を必ず引き渡さなくてはならず、もし私が拒否したならば、デュボワ長官は私を逮捕して文書を押収するとの話だった。レアルは説得するかのように、もっと感情を込めて旧友の私に話しかけた。彼は涙を流さんばかりの熱心さで私に皇帝の意に沿うよう促した。『諸君!』と私は平静に即答した。『私は皇帝の命令に抵抗する!たとえ私が最も良い働きをした時にさえ、皇帝が不当な疑いによって私を傷つけることがあったが、それでも私は常に強い熱意を持って皇帝に仕えて来た。私の執務室に入り、どこなりとも捜索したまえ。鍵を全て渡そう。私自ら諸君に文書を提供しよう。』私がこう発言した際の確固不動たる調子は効果てきめんだった。私は続けた。『私が職務についていた時期に、皇帝と私の間で交わされた私信だが、永久に秘匿されるべき類の手紙であるので、辞職した時にそうした一部を焼却した。そのような重要な文書を軽々しく人目に晒すべきではないだろう。それらを別として、諸君、皇帝の求める手紙を差し上げよう。封がされ、印がついた二つの包みの中にある!』」

この空前のはったりは彼らを圧倒した。彼らは重要でない書類をいくつか押収すると、微笑む公爵のもとを慇懃に退出した。彼らが発った直後、フーシェも身支度を整えると、夜の闇に紛れて誰にも知られず、彼らの後を追った。家令が所有する一頭立て馬車に乗り、友人一人だけを伴って、彼はパリの自邸に到着した。そこでスパイを通じて何が宮中で勃発しているか知った。激しい怒りにかられた皇帝は、派遣された一味をバカの集まりと呼び捨て、中でもベルティエを帝国で一番ずる賢い男にしてやられた年増女のような奴と罵った。ナポレオンは主君をおちょくるこの太々しい男に報復をしてやると息巻いた。状況は全くもって芳しくなかったものの、この手練れの詐欺師は何ら臆することはなかった。彼はナポレオンとの面会を決意すると宮中に参内したが、そのことは執務室への取次ぎをしたデュロックを仰天させた。

「皇帝と顔を合わせるとすぐさま私は彼の素振りから何を目論んでいるか見抜いた。私が一言も発しないうちに、彼は私を抱きしめると、おもねって、先般の己の性急な行為を悔恨するかのような発言をした。そしてあたかも関係修復を望んでいるかのような口ぶりで、彼の書簡を渡すよう要求して話を切り上げた。『陛下』私は毅然としてこう答えた。『私はそれらを破棄しました。』『そんなことがあり得るか。私に寄越せ!』と彼は激怒で眉をひそめつつ返した。『灰になって―』『失せろ!』(彼は憤怒の形相でこう発言した。)『陛下―』『下がれと言った!』(この言いぶりは私にこれ以上その場に留まるのを断念させた。)私は短い覚書を手にしていたが、こうなった以上、退出する際に丁重にお辞儀をしつつ、それを卓上に置いた。彼は怒りながらその紙を掴むと細切れにした。」


フーシェが自邸に戻ってしばらくして、ベルティエの訪問が告げられた。「私は皇帝がここまで激怒しているのを見たことがない。」とベルティエは言った。「皇帝は、貴公が私たちをかもにし、また彼をも騙そうとしていると言い張っておいでだ!」フーシェは既に2度告げた嘘を繰り返すと、もし文書が皇帝の手に落ちたら、もはや取り戻すことはできないと言い加えた。ベルティエはすごんだが、「皇帝に告げろ」と豪胆にも元大臣は返答をした。「25年間、私は断頭台に首を預けて眠るのに慣れ切っている。皇帝の権力の程は知っているが畏れはしない。お望みならば私をストラフォード伯のようにするがいいと伝えろ!」両者は決裂し、フーシェはこれまで以上に皇帝の署名と印璽のついた文書を守らなくてはと決意した。もし文書を失ったら、その執行の為に彼がした悪逆非道な行為の責任を、いずれ彼一人が負わされることになるのだ。

ストラフォード伯トマス・ウェントワース
英国議会の弾劾を受け処刑:1641年没

2017年11月1日水曜日

1-19-a ジョゼフ・フーシェ (5)


フーシェ
よく考えてみれば当然だが、フーシェは危険を感じた。逮捕される不安にかられた彼はイタリアに逃亡し、そこからアメリカへ渡ろうとした。船に乗り込んだものの、ひどい船酔いに罹ったので、彼は「忌々しい自然の猛威」にさらされ続けるよりも、下船して最悪の事態に見舞われる方を選んだ。皇帝の妹エリザの仲介によって、閣僚を務めていた時期の不正行為全てを免責する証明書を受け取る代わりに争いの根源となった文書の引渡しを条件に、フーシェは帰還許可を得た。

ロシア遠征の悲惨な終幕の後、フーシェは皇帝から呼び出された。フーシェの謀略の才能を知る皇帝は、運勢が下り坂になると一層彼に恐怖を抱いた。フーシェは主君の命令によりイリュリア総督として出立するが、オーストリア軍の侵攻によって任地を追い出される。フランスに戻る途上、フランスとオーストリアのいずれに付くべきか揺れているミュラに喝を入れる目的でナポリに赴くよう命じられた。しかし実際のところ、危険な陰謀渦巻くフランスの首都からフーシェをできる限り長いこと遠ざけておくのが本当の目的だった。彼はボナパルトが退位するまでパリに足を踏み入れなかった。あるいは、新しい国王ルイ18世が王殺しさえも受け入れてくれると確信を持つまで待機していたのかもしれない。

ルイ16世の死に関与した過去についてフーシェは目に見えるように切実に悔い改め、王家の為に熱意を持って忠実に仕えると誓いを立てたので、彼はフェリエールの領地にただ隠居するだけで済んだ。だがこれだけは満足しなかった。彼は権力を渇望していたのだ。政権入りの望みをかけて、彼はエルバ島のナポレオンに手紙を書いて亡命を勧めた。引き続き強力な支持勢力と密通できる距離にいるナポレオンを遥か彼方へ遠ざけるのがその目的だった。フーシェは元皇帝が体面を保って在住できる唯一の国であり、またフランスの国益に合致するとして、アメリカ行きを勧めた。彼は念入りにも国王の弟あてにその手紙の複製を送付した。そうしないと彼の燃え盛る真新しい忠誠心も無駄になるのだ。うまい企みだった。策謀の表向きのターゲットであるナポレオンその人の野望を煽り立てるだろうし、その一方でナポレオンの北米追放を主張することで、ブルボン朝からも歓迎されると目論んだのだ。しかし、これらは功をなさなかった。彼の能力は一目置かれたものの、人となりは呪詛の対象になるだけだった。

ナポレオン上陸(おそらくフーシェも幾ばくかそれに貢献しただろう)の報がもたらされた際、当局はフーシェを捉え、リールまで護送して人質にしようと試みた。彼はその危機を回避する。逮捕への異議申し立てを理由として、執務室の扉の外に憲兵を置き去りにしたまま、急いで庭へ降りると、梯子を引っ張り上げて高い壁を越え、棟続きにあるオルタンスの家の庭に着地した。かくしてフーシェはボナパルティストのど真ん中に放り込まれたのである。極めて不測の出来事によるものだが、これによって彼は最も熱心なボナパルティストの頭目の一人だと認識されるようになった。

百日天下では、フーシェはかつてのように警察の長として手腕を振るった。この時の彼は3重に背信行為を働いていた。人目につかないところで、皇帝ボナパルトではなく、共和国の統率者としての彼を期待する革命主義者らの機嫌をとる一方で、彼はボナパルト政権をどう打倒すべきかについてメッテルニヒおよびタレーランと連絡を取り合った。また他方で亡命先のヘントいるルイ18世の閣僚と通じ、ブルボンが二度目の復位を果たした場合に向けて、国王からの好意を確保しようとしていた。さらに彼はナポレオンの軍事作戦の機密情報をウェリントン公爵に提供しようとした。確かに彼は戦役全体の確実な作戦内容を公爵に約束していたが、彼の言うところによれば、良心が祖国を裏切るのを阻んだと言う。彼は極秘にその作戦内容をある夫人に持たせて送ったが、戦役の動向に決着がつく前にその手紙が対象人物に辿りつかないよう、あえてベルギーとの国境で彼女が捕まるように仕向けた。ロンドン、ヘント、ウィーンにいる手先らは、フーシェの指示に忠実に従い、彼が王制の最も素晴らしい支援者であると吹聴して回った。そのかたわらフーシェ自身はパリにいて、皇帝の子分の軍人どもから、革命の残りカスの連中にいたる、ありとあらゆる派閥の野心と策動を駆り立てるのに躍起になっていた。

メッテルニヒがフーシェに送った
密使を尋問するナポレオン
この無節操な大臣によるゲームは実際のところ命がけだった。すんでのところで彼は受けるにふさわしい処罰を回避したことがあった。彼とメッテルニヒとの謀議が発覚したのである。二人の政治家は、密使をバーゼルに派遣しあい、ナポレオンをフランスから排除する為に必要な手段を講じようとした。フーシェが知らないところで、ナポレオンはフルーリ・ド・シャボロンを派遣してそのオーストリアからの密使と面会させ、フーシェの裏切りが単なる予想に留まらない物であることを存分に引き出した。だが、まさにその時、奸知に長けた大臣は状況を察知する。彼は宮中に赴くと、普段通りに政務について皇帝とやりとりをし、そして執務室を退出する際に、まるで偶然思い出したかのように、メッテルニヒがバーゼルに使者を送るように要求したが(その目的については口にしなかった)、膨大な仕事に忙殺されてその手紙をナポレオンに見せるのを忘れていたと告げたのである!「総力戦による惨事を回避したいがために、連合国はご子息[ナポレオン2世]に譲る形で陛下の退位を望んでいるのでしょう。メッテルニヒの意見もそうなのだと確信してます。また私自身も同意見だと言わねばなりません。陛下は全ヨーロッパをあげた軍事力に太刀打ちできません。」フーシェは皇帝に使者を送るべきか否かの判断を委ねたのだ!このようにまたも狡知によって彼は命拾いをした。

晩年のフーシェ
ルイ18世が帰還すると、王室の為によい働きをしたと思われたことから、その報酬としてフーシェは引き続きその地位に留め置かれた。だが彼は、国王からの信頼を受け続けるには己の人となり(とりわけ革命期の所業は忘れられていなかった)があまりに広く知れ渡っていることに気づく。代議院の選挙にて、王党派が多数を占めるようになり、また日毎にフーシェの不行跡と裏切り行為を糾弾する声が高まると、彼はこのままの地位に留まり続けては危険が及ぶと確信するに至った。彼は辞任すると、ドレスデン駐在大使に任命された。世の復讐は彼を追い詰める。1816年1月、両院にて、彼は国王弑虐者として糾弾され、フランスの領土に再度足を踏み入れたら死刑に処すと宣告された。彼は当初プラハに、その後オーストリア政府の許可を得て、リンツとトリエステに落ち着いた。1820年、トリエステにて病を得て死去した。

フーシェの人物像についてただ言えることは、血と裏切りと強欲に塗れていたこと、そして、人間の本質の奥底まで汚れきっていたことである。