2017年7月17日月曜日

1-05-a ジョゼフ・ボナパルト (1)




仮にナポレオンの近親者が各自の才能と働きによってのみ人々の注意を引き付ける条件下に置かれたとしたら、彼らは今も記憶に留まることができなかっただろう。平時ならばいずれも一般人以上の存在にはとてもなれず、さらに言えばそれ以下に留まっていたはずだ。彼らは単なるナポレオンの道具—愚鈍かつ役立たずだったがーであり、それゆえ歴史の女神はその廟堂の内に彼らの為のひと間を与えたに過ぎなかった。

兄弟の長子ジョゼフは、1768年1月7日にアジャクシオに生まれた。彼はピサ大学に入学し、法学を志す。しかし1793年にイギリスによってコルシカが侵略されたたことで、一家は揃ってフランスへ避難した。彼らの運勢はどん底に落ち入った時、将来はこれ以上好転しないかと思われた。しかしながら、ナポレオンは成功をまさに手に収めようとしていた。

ジョゼフ
この運命の申し子が帝王の錫杖を手にした時、ジョゼフは軍事と民政の両面における高い地位を与えられた。当然のごとく、彼は弟に心から傾倒しており、そして見返りを期待しているかに感じられた。1805年にナポレオンが戦地に赴いた際には、彼は帝国議会議長に任じられ、政府の監督役を任された。しかし、こうした信頼の証は、更なる高位への前段階に過ぎなかった。皇帝の勅令によってナポリ国王は「統治を終えた」と宣言され、ジョゼフはこの王国を侵略する軍隊のトップに据えられた。おそらく欧州で最も臆病な国民からの抵抗は僅かかと思われたが、彼はマッセナとグーヴィオン=サン=シールの2名の最も有能な部下を引き連れていた。愚鈍なフェルディナンドは逃亡し、役立たずの軍隊は自ら武装を解除し、烏合の衆は変化に喜びーそれがどんな類の物かもわからないでいたがーフランス軍の登場を喜色満面で歓迎した。この国は血の一滴も流れることなく征服され、所有者のいない王冠はジョゼフに授けられた。

彼に才能が無いとするならば、おそらく国王の責務への適性も同様に持ち合わせていなかった。身なりは簡素で、またそれ以上に飾り気がない彼は家庭の喜びに強い愛着を持っており、これは天が彼に与えた唯一の適性であった。彼がこの煌びやかな贈り物を喜んで受け止めたかどうか疑わしい。彼は弟からの一定の援助なしには自身の地位を保つことは不可能と明快に理解しており、加えて、彼は弟の性格を知り尽くしていたので、自分がフランスの臣下以上の存在にならないだろうと確信していた。

ナポリ国王ジュゼッペとして

この新しい国王の政府—むしろ言うならば彼を支配するナポレオンの創造物—は善と悪の混合物だった。彼は憲法に重大な改変を行い、フランスと同様に人民が持ちうる多くの原則を導入した。彼は教会の権勢を抑制してその財源を我が物とし、封建的特権を撤廃して上流階級には有害だが下流階級には好ましい多くの変化をもたらした。実際のところ、逃亡したあの情けない王朝の後ならば、どんな政権であろうとも祝福の歓呼を浴びるとしても、彼自身の必要性というより皇帝の厳しい要求に強いられて臣民を苛斂誅求しなければ、彼の性格の欠点が民衆からの嘲りの対象となりつつも、彼はきっと人気者になれただろう。あまりに覇気に欠けていたので、彼はナポレオンの最も不人気な政策を諾々と実行した。国事に煩うにはあまりに怠惰な彼は、政治を貪欲かつ放埓な家臣たちに丸投げした。彼が行動らしきことをした唯一の機会は、こけおどしの王者の威風を高めようとした時、ならびにどんちゃん騒ぎに大枚をはたいた時のみである。

ナポリ王宮 カゼルタ宮殿


2017年7月16日日曜日

1-05-a ジョゼフ・ボナパルト (2)


スペイン国王ホセとして

1801年、ナポリ王位を平穏に楽しんでいたところ、ジョゼフは一層輝かしく、そして一層悩ましい運命が待ち受けるスペインへと呼び出された。彼は猛々しいスペイン人は奴隷のごときナポリ人よりも幾分御し難いだろうと気づいており、国王の地位を辞退するというまともな感覚を有していた。しかし彼の意向は取るに足らぬと判断され、彼はピレネー山脈を無理やり越えさせられた。彼のマドリッドでの統治は、彼の裁量の及ぶ範囲では、ナポリにおけるそれと似通っていた。弟の従順な手下であったが、彼自身の性格は強権的でも残酷でもなかった。すなわち、前と同じように怠惰で無能、放蕩にして無為であったので、彼の新しい血の気の多い臣民からは、憎まれるというより嘲りの対象となった。軍隊による国防は彼の部下たちに任され、彼らはジョゼフに従うよりも頻繁に彼をナメてかかった。この国の一部分は常に民衆暴動に苛まれ、他方では外国の敵がはびこっていたため、彼の権威の及ぶところはフランスの軍隊が占領している範囲に限られた。その中においてさえも、彼の権威は名目だけで、実際の権限は第一に皇帝本人が、次いで元帥たちが掌握していた。スペインの王笏が彼の慎ましい手にはあまりに重いと気づいたジョゼフは、何度も望んでいない重荷から解き放って欲しいと願い出た。彼が持ちえた僅かばかりの権力でさえも不安定だった。彼は2度にわたって首都から追い出され、2度帰還し、彼自身はさほど手を下さなかったが、フェルナンド[スペイン王太子]派パルチザンに向けられた過酷な報復を目の当たりにした。3度目に首都を脱出すると、彼はそこに戻ることはなかった。彼は敵軍に至近距離まで迫られ、ヴィットリアにて対峙したが、決定的な敗北を喫した。彼の財宝および王笏、王冠は勝利者の手に落ちたーあわや彼も同じ運命をたどるところだった。彼は這々の体でバイヨンヌにたどり着く。これは彼がその国民の意思に反して、王位を簒奪して自分のものとしたことへの報いだった。

『酔いどれホセ』
スペインの風刺画

1814年、皇帝が戦場に赴いている間、前国王は帝国の副将軍としてパリに置かれ、国民衛兵を指揮すると共に、皇后の国事行為の代役となるかたわら、迫ってくる敵軍に備えて首都の防衛にあたった。彼は観兵の際、兵士らに共に最後まで戦うと宣言した。しかし、連合国軍がパリに到着すると、家族への愛が弟への義務感を上回り、降伏条件の調整をマルモンに丸投げして逃亡した。彼は最初にオルレアンに向かい、ついでブロワに行き、ナポレオンが退位した後、スイスへ逃亡した。その地で彼は地所を高い金を出して購入した。だがこれは、彼が民意に無頓着でいながらも、自分に関わるものには執着していたという証拠となる。

1815年、ナポレオンがパリに帰還すると、元国王も同じく戻ってきて高い地位を再び授けられるが、すぐにそれを失う羽目になる。ワーテルローの後、ジョゼフは弟と同様に、アメリカに逃亡する望みをかけてロシュフォール港に急行した。9月、彼はニューヨークに上陸し、フィラデルフィア付近に身を落ち着かせ、現在もシュルヴィリエール伯爵の呼び名でそこに滞在している。彼は相当な数のフランス人亡命者に囲まれ、結構な土地を所有し、かなりの金持ちとみなされている。彼がパリから2度目に逃亡を図った時の略奪ぶりは大層なものだったのは確実と言えよう。

1820年代のジョゼフ

一個人としてのジョゼフの性格は、愛想が良い以上に才能が不足していたと評価される。彼の立ち居振る舞いは疑いもなく穏当で謙虚であり、気質は幾分優しかった。彼は寛大な夫にして父親であると見なされ、ナポレオンに対してはずっと誠実な兄であった。しかし彼は強欲かつ放蕩であり、略奪者かつ道楽者でもあった。しかしながら、ナポレオンがセント・ヘレナに追放されるまで、彼は哲学的見地を有し、豊かな知識の持ち主と評されていた。1799年、『ムワナ』と題された短編小説を出版し、その15年後その第2版を世に出しているが、我々は最も熱狂的なボナパルティストを含めそれを賞賛しているのを見聞きしていないことから、彼らにとっても誇りとするに値しない出来と考えられる。彼の人物像を一文でまとめるならば、高尚な精神も威厳も雅量も持たない、柔弱で享楽的な大人しい人物だったと言えるだろう。

2017年7月3日月曜日

ベシエール 補記

ベシエールだが、かなり高評価を受けている。全体的に毒舌傾向の本書の中で、ここまで手放しで褒められている人物はかなり珍しい。特に内面・素行が、ナポレオンの部下とは思えないほど、優れていたと強調されている。つまるところ、本書の著者は、ナポレオンの部下全般を言ってしまえばゴロツキ集団と捉えていたということか。

実際のベシエールだが、本書でも述べられている通り、物腰は紳士的で、ナポレオンは威儀が求められる親衛隊長に任命するにあたり、そうした要素も考慮に入れたとのこと。ナポレオンに近侍し信頼を得ていた彼だが、周囲と全く問題なくやれていたかと言うとそうでもなく、ランヌから親友ミュラ共々目の敵にされていた逸話は有名だが、他にもネイとも悶着を起こしている。

1804年、帝政の幕開けと共に元帥に選ばれた事に対し、マルモンが「ベシエールがなれるなら、誰でもなれる」と口にしたと言うが、軍司令官を務めた事のない彼が選ばれたのは、皇帝のえこひいきと見る向きもある。もっとも、他にランヌ、ダヴーらも、軍司令官にならずとも元帥に選ばれているので、彼ばかりが特例と言うわけでもない。

1805年のアウステルリッツの戦いでは、ロシアのコンスタンチン大公指揮下の皇帝親衛隊めがけて、親衛騎兵隊を率いて突撃を行い、プラッツェン高地の獲得に貢献する。1807年のアイラウの戦いでは、ミュラの騎兵ともにロシアの戦列を突き崩した。

ベシエール
1808年、第2軍団長としてスペインに送られる。ここで初めて本格的に独立した軍団の指揮を委ねられた。本書にあるように、メディナ・デル・リオセコの戦いでは、優勢のスペイン軍を見事敗退させた。ただし、本書で言う犠牲者数27,000人は誇張されている模様。ジョゼフをスペイン王位につけるのに貢献したものの、デュポン軍団がバイエンで降伏すると、ジョゼフはマドリッドを追われ、ベシエールもブレイクとキュエスタに押されエブロ川まで撤退を余儀なくされる。フォワ将軍は彼について「勝利を組み立てられるのに、それを活かせない」と評している。半島にやってきたナポレオンは彼の能力の限界を察したのか、軍団の指揮権を取り上げスルトに与え、ベシエールを再び親衛隊指揮官に戻した。

1809年、オーストリアとの戦いが始まると半島から戻される。エスリンクの戦いでは、中央に配置され、優勢の敵軍に対しよく持ちこたえた。また、この戦いの間に起きたランヌとの諍いの逸話はよく知られている。オーストリアとの和約が締結した後、ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚をして、オーストリア皇女マリア・ルイーザと再婚するのだが、個人的にジョゼフィーヌと親しかったベシエールはこの離婚に反対したと伝えられる。

1811年、彼は再びスペインに送られ、北方軍の指揮をとる。しかし、ナポレオンという最高司令官が不在だと、元帥たちは全くもって相互の連携を欠くようになっていた。ポルトガルに侵攻したマッセナは、ウェリントンの築いたトレス・ヴェドラス線を攻めあぐね、アルメイダに向けて撤退を開始した。5月3日、追撃するウェリントン軍と、フエンテス・デ・オニョロにて合戦となる。マッセナはベシエールに対し、全軍をあげて救援に来るよう要求したが、ベシエールはわずか800ばかりの騎兵しか送らず、しかもその指揮官はベシエール以外からの命令は聞かないと言い、マッセナからの敵軍に向けて突撃せよとの指示を拒んだ。後にウェリントンは、ベシエールのマッセナへの支援拒否がフランス軍の敗退を招いたと述べている。激怒したマッセナはナポレオンに訴えたが、マルモンと交代する形で司令官を更迭された。ベシエールもまた指揮権を取り上げられた。

1812年のロシア遠征では、より拡充された親衛騎兵隊を率いた。9月7日のボロディノの戦いの時、ロシア軍の中央が崩れかけているのを見た元帥らは、ナポレオンに皇帝親衛隊の投入を要請した。しかし、ベシエールはそれらを将来のために控えておくよう助言をした。このせいでフランス軍の決定的勝利は失われたと彼を批判する向きもある。他方、モスクワからの撤退時には、チェルニヒウにてコサックの襲撃を受けたナポレオンを救い出してる。

1813年、ミュラが離脱してナポリに帰還すると、全騎兵の指揮官となった。そして5月1日のルッツェンの戦いの前日、リパッハにて弾丸の直撃を胸に受け、命を落とす。その死にあたって未亡人となったベシエール夫人に、ナポレオンはこう手紙を送った。「貴女の夫は名誉の戦死を遂げた!貴女と子供達の喪失感は疑いもなく大きいだろうが、私にとっては更にだ。イストリア公は、苦しみもなく、最も美しい死を遂げた。彼の名声に汚点は見当たらない。これは彼が子供達に残しうる最も見事な遺産だろう。私は子供達の庇護者となろう。子供達は私が父親に抱いた愛情を引き継ぐことができる。貴女の悲しみを慰めようと配慮していると察し、私の貴女へ抱く心情を決して疑わないで欲しい。」死後ベシエールは多大な借金を残したが、それは彼が愛人に相当な金をつぎ込んだせいとのこと。ナポレオンはその借金を清算してやり、また未亡人に手当を与えている。

ベシエール夫人

こうして概観してみると、完全無欠な人物というわけではなさそうだが、人道的な面で問題がなければ、多少の瑕疵には目を瞑るというのが本書のスタンスなのかもしれない。