2018年7月28日土曜日

1-34-a ジャン=バティスト・クレベール



革命期で最も優秀な将軍のひとりであったジャン=バティスト・クレベールは1753年にストラスブールに生まれた。

若い頃の彼は地元の街とパリで建築を学んだが、やがてその仕事に不満を感じると、どのようなキャリアを追い求めるべきか分からないまま実家に戻った。 偶然の出来事が彼の行く末を決定する。ある日、彼が居酒屋で飲んでいる時、静かに寛いでいただけのバイエルン人たちが、地元の若者の集団に絡まれているのに気がついた。クレベールは異国人達の方に味方して、同郷人らの心無い振る舞いを厳しく咎めた。若者らは苦言を意に介さず、より荒っぽくクレベールに向かってきた。クレベールは激高した。3、4人を相手にすると完膚なきまでに叩きのめした。感謝したバイエルン人達は、彼らにとって英雄に違いない人物が、その長所がちゃんと認められて報われる職業に就いていないことを残念がった。 彼らは軍隊生活の面白さをクレベールに話して見せると、ミュンヘンにある軍事学校への入学を薦めた。 クレベールはその提案を受け入れ、その学校で最優秀の生徒の一人となった。 1772年、彼は軍人として就役したが、その昇進は期待していたより遅かった。1783年の時点でただの少尉でしかなかった。気分を害した彼は休職を願い出ると、故郷のストラスブールに戻った。友人達は退役して、もともとの建築の道を志すよう薦めた。それから6年間、彼は上アルザス地方の公共建築監督官を務めていた。しかし革命の呼び声に応じ、再び武器を手に取るようになった。

その後開幕した戦役に従軍すると、クレベールの才能は当然ながら注目される。キュスティーヌ将軍の下では、あっという間に副参謀まで昇進をした。そしてヴァンデの内戦では師団を率いるまでになった。

その後クレベールがドイツ方面戦役で獲得した名声は、ボナパルトがエジプト遠征に彼を同行させたいと思うきっかけとなった。ナポレオンの戦歴に詳しい者ならば、クレベールがパレスチナ、シリアにおけるフランス軍の勝利に大いに貢献したことを知っていよう。ナポレオンがフランスに帰国する際、彼は信頼でき、また何よりも望ましい人物であるとして、軍隊の指揮権をクレベールに譲り渡した。 彼は15,000人もの兵を擁していたものの、トルコ人はあらゆる場所から兵力を募っていた。しかし、フランスから補強部隊が到着するまで、持ちこたえる以外に選択肢はなかった。 彼はダミエッタのトルコ人を打ち負かした。1800年3月の、ヘリオポリスの遺跡の近くの戦いでは敵を凌駕した。 そして彼の不在時に反乱を起こしたカイロを攻略するため帰還した。彼は不幸な住民に無慈悲な仕打ちをしたとの説があるが、おそらく真実だと思われる。 だが彼の落日はすでに迫っていた。

ヘリオポリスの戦い(1800年3月20日)
クレベール率いるフランス軍が、
兵力で圧倒するオスマン帝国軍を破った


クレベールの暗殺
1800年6月14日、ギザへの行軍から戻ったばかりのクレベールは、ダマ将軍との朝食に招待された。午後2時頃、彼の帰還を待っていた他の客人に応対した後、彼は自分の営舎とダマの住居の間にある長いテラスを歩いていた。彼は建築家のプロタンを伴っていた。両者はゆっくりと歩みを進め、互いの会話に耳を傾けていた。テラスの端にある水槽の中に隠れていた男が隠れ場所を離れ、慎重に二人の後をつけると、どちらにも気づかれることなく、クレベールの左側の鼠径部に短剣を突き刺した。クレベールは手すりにもたれかかると、叫び声をあげた。「何てことだ、やられたぞ!」そして血まみれになって崩れ落ちた。真っ先に暗殺者の存在に気づいたプロタンは、血にぬれた抜き身の刃を持って自分に向かって来る相手から自分の杖で身を守ろうとしたが、6つの刺傷を受け、すぐにクレベールの足下に崩れ落ちた。暗殺者はその後もクレベールを三回刺したが、その手間をかけるまでもなく、最初の一撃で効果は十分だった。その時、クレベールの最後の言葉を聞いたある兵士が、警報を発した。すぐにフランス兵がテラスに集結し、暗殺者は捕えられた。

スレイマン・アル=ハラビ
アレッポ生まれのスレイマンは、非常に狂信的な若者だった。彼は何度かメッカへ巡礼を行っていた。彼の悲願はモスクのいずれかでコーランの説教師として認められることだった。彼はシリアとエジプトの地に異教徒が跋扈するのを屈辱的な思いで見ていた。この狂信者はまた愛国者でもあった。彼は侵略者による同胞への残虐行為に怒りで燃え上がっていた。彼は声を大にして、真の教えの伝統がかくも荒廃させられて良いものかとイスラム教徒に向かって宣言した。戦場では敵に対抗できなくとも、家族や信仰のために、神と預言者への犠牲として捧げるべき者に狙いをつけよと主張した。彼の熱意はアフマド・アガの知るとことになった。すぐにアフマド・アガは彼をクレベール暗殺の道具としようと決めた。このアフマドはオスマン帝国の大宰相のお気に入りだったが、最近は不興を買っていた。しかし、オスマン帝国軍が心血注いで抗戦している名将に死をもたらせば、彼は彼の主人の信頼を取り戻すことが出来ると考えたのだ。甚だしく高揚しているスレイマンを突き動かそうと、アフマドは彼に対して、国と信仰にとって仇敵である男を暗殺することは、この上ない国と神の預言者へのご奉仕になると説得した。あわれな男はそれを頭から信じ、恐ろしい任務を引き受けた。彼は5月の頭にカイロに着くと、まずはモスクの中に一時的に身を潜めた。まるひと月クレベールがギザから戻ってくるのを待っているうちに、じれったくなった彼は自らギザの街に足を運んだ。だが彼がギザに到着したまさにその日、クレベールはカイロに向けて出立していた。こうした妨げはむしろ更に彼のやり通そうとする意思を強めた。彼はクレベールの後を急いで追いかけると、上述のやり方で死をもたらしたのだった。彼の同胞のうち最も血に飢えた連中と引けを取らないぐらい凶悪なフランス軍人らから慈悲をもらおうとはスレイマン自身も期待してなかった。だが人の心がある者ならば身震いするような惨たらしい死が与えられるとは、彼自身も世の人も予想しなかった。彼は生きたまま串刺しにされたのだった。その苦痛は無慈悲にも三日三晩続いた!スレイマンの死骸は防腐処理が施されてパリに運ばれ、自然史博物館に収蔵された。


軍人としてのクレベールは大いに賞賛するに価する人物だった。彼はランヌのようなヒロイックな勇敢さと、ベルナドットのような冷静な判断力を備えていた。



2018年7月21日土曜日

1-33-a ジャン=アンドッシュ・ジュノー

















アンドッシュ・ジュノーは1771年10月23日、ブシー=ル=グランにて貧しい両親のもとに生まれた。

ジュノーとナポレオン
(トゥーロンにて)
ある話によれば、父親に対し不敬を働き、物を盗むなどの諍いを起こして、早々に軍隊生活を送るようになったという。トゥーロン攻囲戦まで彼のキャリアに特筆すべきものはなかったが、ここで彼は幸運にも、若き砲兵指揮官の目を引き付けることができた。激しい砲撃の中、ボナパルトは伝令を遣わそうと、身近な者に誰か文章を書くことができるか尋ねた。ジュノーが隊列から進み出て命令書を認めているその時、飛来した弾丸が地面をえぐり、両者を埃まみれにした。 「これはちょうどよかった、上官殿」と叫ぶと、「インクを乾かす砂が欲しいところでした」と笑った。 「肝の太い奴だ」とナポレオンは返した。 「何か望みはあるか?」 「昇進させてください。その名誉に泥を塗りません!」彼はすぐに軍曹に昇進した。その後間もないうちに士官となり 1796年には彼の恩人によってその副官に任命された。

イタリア戦役ではこの士官は豪胆さと、そして伝えられるところでは、比類なき強欲さの両方で名をはせた。彼は前者によって大佐の地位を獲得し、後者によって奢侈の限りを尽くしたのだった。

ジュノー
エジプトでも、彼は旅団長として活躍し、帰還直後に中将に任命された。当然の成り行きでレジオン・ド・ヌール勲章を授けられたが、ナポレオンからの寵遇の何に勝る証として、パリの知事職とポルトガル大使の任務を拝命することになった。後者は最も実入り良い地位であった。胆力に欠けたジョアン王太子に和平を高い値段で売りつけると、今後両国政府間に恒久的な合意がなされたと、大使の任務を完璧に達成した気分でパリに凱旋した。だが、ドイツ戦役が終わって間もないうちに、彼は再びリスボンに戻ると、死に体のポルトガル政府からさらに金を巻き上げ、全イギリス人居住者を逮捕し、イギリスに属する財産全てを没収すると高らかに宣言をした。ジョアン王太子は気弱で無力であったが、誠実な人物であり、彼は自国にとって最良の同盟国にそのような恩知らずの仕打ちをするのを拒んだ。彼はイギリス人に対し、有り金を持って、どんな手を使ってでもこの国を退去するよう助言した。この手際よい通知のおかげで、イギリス人の大部分は慌ただしい中でかき集めることのできた財産とともに上手いこと逃げおおせた。しかし、ナポレオンは手を引かなかった。当初の目論見の失敗を知るより先に、ナポレオンはスペイン政府内の姑息な連中とポルトガルを分割統治する密約を締結した。ポルトガル王族を捕虜とし、同国内の重要拠点を占領するために、ナポレオンはこうした企てに躊躇しない適任者として、ジュノーを大軍の長に据えた。

ポルトガルの守護者としての寓意画
(プロパガンダと思われる)
もしジュノーがまっとうな人間だったら、怒ってこの任務を放棄しただろう。 だが彼が道徳的な規範や人道性にまったく動かされないところは、盗賊の頭目同様と言ってよかった。 彼は1807年11月にこの不運な王国に足を踏み入れた。とっかかりとして自分はポルトガル国民の朋友であり、ジョアン王太子の盟友としてこの国に来たのだと宣言したが、彼の部下達は一様に極悪非道であった。 アルカンタラからリスボンまでの行進の途上で、彼の兵士たちは家畜、食糧、金銀、ありとあらゆる物を奪い取っていった。歴史家サウジー曰く、「兵士らは行く先々で略奪を働き、士官たちは宿営先を強奪して行った。オリーブ等の果樹は燃料のために、もしくは仮の兵舎を建てるために伐採され、民家や教会は略奪された。また兵士らは教会の宗教画を切り裂き、聖餐をまき散らして踏む付けるがままにした。」フランス軍はアブランテスに入城すると、その街にいる限りの家畜を徴集した。軍の需要を満たす以上の家畜が手に入ったので、余りを市場で売りはらった。彼らの司令官は、12,000人分のブーツを徴集しようとした。これは明らかに無理難題だった。貧しい住民にとってせいぜい2、3千人分を揃えるのがやっとだった。 「ポルトガル人にとってこうした要求よりも、フランス軍による侮辱や無作法の方がより耐え難いものだった。カプチン派修道院に宿営したある大佐は、守衛が履いていたブーツを奪い取り、修道院所蔵の貴重品を奪ったのに加え、金を持ってこなければお前らを射撃の的にするぞと脅した。僧侶らは素寒貧であったが、あたかも価値があるものを見つけて来ると装って逃亡した。聖アントニオの教会では、祭壇は飼葉桶として用いられた。」

このようにしてジュノーは首都を目指して行軍したが、彼が王家の面々を捕まえるより先に彼らはブラジルに逃亡していた。獲物が逃げおおせたことを知るとジュノーは烈火のごとく怒った。ジョアン王太子が任命した摂政を打ち捨てると、強制的に献金を徴収し、彼の措置に反対するすべての人を厳しく罰し、時折起きる反乱を血なまぐさい処刑によって抑えつけた。つまるところ、彼は際限なく放逸なやり方で、住民たちの生命と財産を支配していた。かつて花と栄えたリスボンの街がジュノーによって無残に衰退していった様は、前掲の歴史家の言葉以上に的確に説明できるものはないだろう。

ブラジルへ亡命するポルトガル宮廷


「この時のリスボンの苦境は、歴史上ほかに類を見ない程であった。戦火や疫病、飢饉を被ったわけではないのに、それ以上の災厄を街にもたらしていた。この苦境をどうしようにも望み薄で、当時のポルトガルが救援を求める先はなかった。行政機関は強圧的な軍事政権に掌握されたことで、そのサービスはより単純化され、内政部門に雇用されていた人々の大部分は職を失った。 ある者はひとまず転業し、ある者は空席に応募するための書類を渡され、またわずかな者はささやかな年金を約束された。貿易業に従事していた者や、それに近い業種にいた者らはみな窮地に陥った。多くの家庭は貧窮へと急転落していった。人々は些細なものから手放していき、次いで売れるものは皆売り払うようになった。このような状況下では、そうした物は半額でしか売れず、一方で食料品は日々高騰していった。かつては素晴らしい食器棚に置かれていた皿や、めでたい日にはその身を飾っていた装飾品を持った人々が、それらを金に変えようと殺到している様を見るのは気鬱であった。男たちが不安に青ざめた顔で、同じ境遇に置かれた群衆の間をかき分けてる様、女たちが僅かばかりの貴重品を秤売りにして嘆いている様を見るのも同様だった。人士とみられていた人物は施しを求めるようになり、何千もの人が追い詰められたあげく、乞食や盗みを働くようになった。このような窮状に陥るまで、非の打ち所のないと知られた淑女らは辻に立って春をひさいでいた。母親たちは 空腹の子供たちのパンを得るために、娘たちは飢えた両親のために。ヨーロッパで最も繁栄していた街が何と無残に衰退したことか!」

ヴィメイロの戦い(1808年)
ジュノーはポルトガル全土に渡って軍隊を派遣し要塞を占領させ、王国は一瞬のうちに彼の支配下に置かれた。皇帝によってアブランテス公爵に叙爵された彼の野心は天井知らずに見えた。彼はルシタニアの王冠がもうじき手に入ると思っていた。ある説では、彼は主君の口からそのような高位につく事への十分な了承を得ていると言ったそうだが、自ら王になる目的でポルトガルの貴族や聖職者を足元にひれふさせようとしたのは確かであろう。しかし、王位を手にする夢はあっさりと打ち破られた。各都市に配置していた彼の部下は、彼と同じくらい凶悪かつ残酷だったが、毎日のように絶え間なく勃発する暴動を鎮めることができなかった。一方、アーサー・ウェルズリー卿指揮下のイギリス軍はポルトガル西岸に上陸し、フランス軍を同国から追い出すために進軍を開始した。ジュノーは配下の将軍らとそれぞれの師団を収集すると、大急ぎで敵に対抗しようとした。ヴィメイロの戦いが決定打となって、彼はポルトガルから兵を引き上げることに同意させられた。しかし、彼がリスボンを発つ前に、彼と彼の兵士らは大々的に略奪し、それによる荷物の運搬のために5つの船を用意するよう命令した。 貴重な絵画、藍染料の樽53本、優良馬、国立博物館所蔵の多数の写本と珍品、そして驚くべき量の金が積まれていた。屈辱的にもジュノーはこの戦利品の大部分を手放すよう強制されたが、彼は残りの人生を送るのに十分な量を奪われるのをかろうじて免れた。 ポルトガル人の呪詛を背にしながらフランスに戻ると、部下の将軍の失態を微塵も許す気のない、激高した主君と対面する。この時から1812年まで、彼は完全に不興を被っていた。

ロシア遠征ではジュノーは師団を率いたが、戦勝を得られなかったので、元帥杖を手に入れることができなかった。 彼は帰国後、オーストリア軍の侵攻に対するためイリリヤに派遣された。 しかし、今や彼は心も体も壊れかけていた。長きに渡る発熱ののち錯乱状態になった。彼の狂気は召使たちの物笑いとなったが、しまいには全くの心神喪失となり、モンバルの父親の家へと移り、そこに1813年7月22日に到着した。家に着いて2時間もったないうちに立ち上がると、高窓を飛び越えて落下し、それによって腿が砕かれた。 足は切断されたが炎症が重くなり、到着から6日後、彼は息を引き取った。

人となりとして、ジュノーは際立った美男子だった。 彼の振る舞いは荒々しく容赦なかった。 性格は不公平で、貪欲で、残酷であった。 しかし、彼には相当な心身の強靭さが備わっていて、彼以上に命令を遂行しよう努める人物は他にいなかった。 この賞賛は、彼のキャリア初期に当てはまるだろう。 不興を被った後の彼は、まるで別の人間のようだった。 しかしながら、あらゆる人間のうち、彼ほど全軍を指揮するのに不適合な者はいなかったのだが、ではなぜ彼が司令官に任命されたのか、それを思うと首をひねる。悪くばかり言ってはなんなので、彼を持ち上げる逸話を引用して、人物評を切り上げることにする。

エジプト遠征から戻ると、ジュノーは彼の親戚や友人と会うためにブルゴーニュに行き、立身出世しても昔と変わらない親愛の情を抱いていることを示した。彼はわずかばかりの教育を受けたモンバルに向かうと、かつての同級生たちと心からの挨拶を交わした。何よりも彼の感情を揺さぶったのは、死去したと思っていたかつての恩師と再会したことだった。 彼はその老人の首に腕を回すと接吻した。 金回りの良さそうな身なりをした見知らぬ男からこのような親愛の証を受け取った校長は、惚けたようになって、ほとんど言葉を発することができなかった。 「僕が分かりませんか?」「残念ながら」「何と!あなたの生徒の中で、最も怠け者で、素行が悪く、いいところのなかった奴が分からないなんて」「目の前にいるのはジュノー君かね」とその老人は恐る恐る尋ねた。 ジュノーは笑うと再度恩師を抱きしめ、やがて彼に年金を付与したとのことだ。




2018年3月25日日曜日

1-30-a グーヴィオン=サン=シール




1764年4月13日にトゥールにて出生する。青年時代の彼は画家になるよう仕向けられ、己の感性を完璧な物にするためにイタリア中を渡り歩くまでした。しかし彼の軍事を嗜好する思いは抑えがたく、従って彼は革命が勃発すると志願兵部隊に入隊し、ライン方面のフランス軍と合流した。

革命戦争期の
サン=シール
軍人となった彼の昇進は急速と呼ぶに相応しく、1795年には師団指揮官になっていた。彼はピシュグリュ、モロー、マッセナ麾下で従軍し、そのいずれの司令官からも戦術面だけなく、人格面においても高く評価された。しかしボナパルトからは決して厚遇を得られなかった。他の多くの将軍達のように、配下の軍人らをナポレオンの帝政に靡かせるような真似を彼は決してしないばかりか、宮廷に進んで姿を現そうとすらしなかった。事実、彼は日陰者であり、時勢の勝ち組たちの輪の中に入らなかったし、追従することにも何の価値も見出さなかった。それゆえ彼が得た栄典は殆ど無かったことは容易に想像できる。レジオンドヌール勲章が授与され、胸甲騎兵指揮官に任じられたものの、最も有能な軍人の一人でありながら、長いこと元帥に任命されないままだった。スペインで敵拠点を幾度も陥落させたことへの褒賞として、その栄誉を手にするかと思われたが、彼はすぐさまオージュローと取って代わられ、2年もの間、皇帝の前から放逐される処分を受けた。ナポレオンの治世の間、彼は冷遇されていた。しかし、その慰めとして、彼の同輩の元帥らが行く先々で現地住民の憎悪の的として記憶を留めたのと対象的に、彼には最上級の尊敬の念が向けられた。とりわけスペインを筆頭とするあらゆる場所で、彼は立派かつ高潔だとの印象を残した。真っ当な戦闘行為が備える道義性に対し、主君の意のままになって背くのを唾棄する人物、彼はそう見られていた。


サン=シール
ロシア遠征の最終局面で、彼はようやく帝国元帥となり、重傷を負ったウディノの軍団を率いた。彼も同様に負傷したものの、ドレスデンの戦いには参戦した。ナポレオンがライプツィヒから撤退すると、彼はドレスデンの街に1万6,000兵とともに置き去りにされ、連合国の大軍による包囲が長きに渡ったため、降伏を余儀なくされた。その後第一次王政復古が為されると、彼はフランスに帰国した。ルイ18世は彼を良く遇し、貴族院入りさせた。彼は1815年3月の政変には関与せず、百日天下の間は田舎に引きこもっていた。国王が再び戻ってくると、彼は聖ルイ勲章を授けられ、陸軍大臣に任じられた。この重職に置かれた彼は、前任のクラルクがしでかした失策を正し、大いに成功を収めた。1816年、彼は同僚たちとの不一致を理由に職を辞したが、すぐに国王によって呼び戻された。1819年、選挙法を改正しようとする内閣の動きに反対して、再度彼は辞職した。以降そのまま引退生活を送っている。