2017年6月21日水曜日

1-26-a ジャン=バティスト・ベシエール(1)







ロット県のカオールに程近い町プライサックに、1768年8月6日、ジャン=バティスト・ベシエールは生誕した。彼の出自は同郷人のミュラ同様に低く、二人とも軍人なろうと強く意気込んでいた。彼はルイ16世の立憲衛兵を志願し、入隊の機会を得る。こうした中、1792年8月10日の騒乱の折、彼は慈悲深くも危険を顧みず奮闘して、王妃に近侍していた人々を何名か救い出した。この行動は、以降に彼が獲得する戦勝の桂冠以上に、彼に名誉をもたらした。

ベシエール
立憲衛兵が解体されると、若きベシエールはピレネー方面軍の騎兵連隊へ配属された。スペインの北部にて彼は良い働きをし、一兵卒の歩哨から大佐に昇進する。彼の才能か、もしくは所属する旅団の上部の判断によるものか、1796年に彼はイタリア方面軍に配属するやいないや、他の将軍の誰よりも軍事に優れた人物を見出し、報酬を与えようとする人物の目に止まった。彼がボナパルトの目を引き始めた最初の瞬間、まさにこの時から彼の運勢の地盤は固まった。ある日彼がオーストリア軍の砲兵中隊に向けて前進している時、乗っている馬が殺された。彼は急いで倒された馬から身を離すと、兵器類が大きくひとまとめとなっている上に飛び移り、それを守備する砲兵に向けて勇壮にサーベルを突きつけた。彼の二人の部下が援助しに騎馬で駆けつけてくれたので、彼は意気揚々と砲を持ち去ることができた。司令官は彼の行動の威勢の良さに感心すると、この勇ましい士官を自身の守備隊の指揮官とした。この部隊は、拡大を遂げ、やがて有名な皇帝親衛隊となり、この新たな寵臣はその指揮を死去するまで取り続けることになる。

オーストリア砲兵と戦うベシエール
(ロヴェレートの戦い:1796年)

帝国元帥ベシエール
帝政下では、この士官は今や帝国元帥となり、引き続き能力と熱意を主君への奉仕に向けて発揮し続けた。1805年、彼はドイツで幕を開けた戦いに駆けつけ、そしてティルジットの和約の締結まで絶えることなく用いられた。彼はイエナ、ハイルスベルク、フリートラントそしてアイラウの戦いに参戦し、これらの重大な戦役の間全てにおいて、勇ましさと用心深さを並存したところ—これらはナポレオンの部下でさえ稀にしか持ち合わせてなかった—を披露した。1808年、次いでこの元帥はスペインに活躍の場を移す。彼は第2軍団の司令官となり、司令部をブルゴに置いた。立派な振る舞いと、フランスの指揮官には稀な穏健さを併せ持っていた彼は、愛国心に燃える民衆たちによって延々と勃発する反乱を、誰よりも上手に宥めた。彼のこうした献身は貴重であり、民衆たちから喜びをもって受け止められはしたが、おそらくピレネー山脈の向こうに届く彼の名声に一層の光彩を加えるものではなかった。しかし運勢は彼の名に同僚の元帥たちよりも一層の輝きをもたらす機会を与えた。勇敢だが慎重なスペインの将軍のキュエスタは、フランスとマドリードの連絡線を遮断する目的で、大軍を率いてブルゴに向け進軍した。ベシエールは13,000以下の兵力しかなかったが、躊躇せず打って出た。双方の軍勢はメディナ・デル・リオセコの近くで相見え、そして激戦の火蓋が切って落とされた。非常に多くの兵力を抱えているスペイン軍は当然ながら幾度も優位に立ったが、フランス騎兵による左翼への突撃がそれら全てを突き崩し、最終的にその日の勝敗の動向をひっくり返した。スペイン兵は完全に潰走し、彼らの物資は勝者の手に落ちた。もし近郊の僧侶の言うことが正しければ、27,000の死体が戦場に埋もれたとされる。

メディナ・デル・リオセコ の戦い(1808年)   
この戦いの成功はナポレオンにとって決定的な物だったので、彼は「これは2度目のビリャビシオサ[1710年に起きたスペイン継承戦争中の戦い]だ。ベシエールは私の兄を王位につけさせた!」と声を上げた。この勝利はマドリードへの道を開き、そこにてジョゼフは即座に王家の標章を我が物とした。またこれによって元帥は、イギリスがスペインの愛国者たちに提供した武器や軍備品を獲得した。

2017年6月20日火曜日

1-26-a ジャン=バティスト・ベシエール(2)


ワグラムでは、彼はオーストリアの側面に向けて騎馬を繰り出した。激しいぶつかり合いが起き、彼はあわや致命傷を被りかける。弾丸によって騎馬から放り出され、つかの間、彼は戦死したかと思われた。愛する指揮官の最期に直面して、部下たちの嘆きぶりは他に勝るものは無い程だった。しかし喜ばしいことに、負傷は軽微なもので済んだ。部下たちの彼に向けた愛着は深く、この結果は何よりのことだった。彼は敬意を受けるに値する勇敢さを有しているだけではなく、飾り気のない人柄の良さ、人当たりの穏やかさ、気立ての良さ、最下級の兵士たちにさえ喜んで親しく接する態度は、部下たちの心を確実に掴んでいた。「ベシエール、」彼らと同じくベシエールが助かった事を喜んで皇帝はこう述べた。「そなたはあの弾丸に義理を感じねばならんぞ。あれは私の親衛隊全員をそなたのために嘆かせたんだからな!」

ワグラムの戦いで負傷するベシエール(1809年)

1811年、ベシエールは古カスティリヤ[カスティーリャ・ラ・ビエハ]とレオンの総督に任じられ、1812年には、光栄にもロシア遠征に随行した。次の戦役[1813年のドイツ戦役]では 、ベシエールはミュラが担っていた職務、すなわち全軍の騎兵部隊の指揮官となった。この重要なポストを担うにあたり、彼は主君からの一層の信頼を勝ち取ることができた。しかし、皇帝の栄華は傾きだした。まるで運勢は、勝ち誇る英雄たちに月並みの不運の辛苦を与えるだけでは飽き足らないようであった。皇帝の失墜が世界中を驚かすに足るほど急速で、それは彼の栄達よりなお早かったが、没落の最中に昔からの忠実な部下たち、彼が何よりも愛し、彼の栄達と権勢を支援した者たちは、彼の側から引き離されていった。ベシエールも例外ではなかった。

5月1日、ルッツェンの戦いの前夜、この元帥はポセルナとリパッハ間の隘路を突き進んでいた。彼はいつも通り、狙撃歩兵を従えて、危険の真っ只中を突破しようとした。隘路の突破が成功した時、一つの弾丸が彼の胸を貫き、彼は息絶えて地面に横たえられた。彼の死骸は即座に白布に包まれ、その死は、翌日の戦勝がこの悲報をより受け止めやすくするまで、彼が長いこと指揮していた勇敢な部下たちの目から隠された。

ベシエールの最期

かくして、この優れた軍人にして良き人物は斃れた。彼の性質は、その他のナポレオンの将帥らと比して、言い表せないほど好ましいものだった。彼は略奪に手を染めず、死にあたり、彼の遺族を貧しい境遇に置いたのみならず、相当な負債を残していた。彼はご機嫌とりでもなく、彼は主君を非常に敬愛しており、甘言で欺こうとしなかった。彼の人道性、慈愛心以上に、彼の美徳を証明するものはなく、それはフランスの名が当然ながら忌まわしく記憶に残るスペインに置いても、彼が統治を任された幾つかの街の住民は自発的に集まりベシエールの魂のためにミサを捧げた。

オーストリア、プロイセン、ポーランドにて、彼は全力を傾けて戦争の惨禍の軽減に努めたので、偉大な人物としての記憶を後に留めた。のみならず、ロシアにおいてさえ彼の人道性は賞賛された。モスクワが炎上した時、家を失い凍えた大量の住民が、彼が居住している宮殿に避難を求めた。住民らが中に入ると、彼と従者たちは丁度食卓につくところだった。あまりに悲惨な状況に心打たれて、彼は彼の参謀らに「諸君、どこか他の場所で夕食をとることにしよう!」と告げると、即座に飢えて衰えた者たちを食卓に座らせた。マラヤスロヴェッツからの恐ろしい撤退の間、彼の人道性と勇気は絶えることなく発揮された。彼は兵士達からの信頼と愛情の対象だった。

ベシエールは息子を一人残した。彼はルイ18世によってフランス貴族に叙せられる。

ベシエールの胸像(ベルサイユ宮殿)

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2017年6月18日日曜日

モルティエ 補記


改訂版では文量は変わらず少ないが、若干より詳しい描写がされている。スペインのバダホスを55日間の攻囲の後陥落させたこと、捕虜に親切で、人道的であったことで知られたことが述べられている。初版では、良く言われてなかった百日天下時の『寝返り』についても、事前に指揮を任された北方軍の上司オルレアン公ルイ・フィリップより、彼自らの名において義務から解放され、自身の判断で行動しても良いとの手紙を受理していた事に言及し、一定の弁護を行っている。その後、王政復古を経て七月革命後にルイ・フィリップに帰順したことに触れ、締められている。

老モルティエ

モルティエだが、ナポレオンの元帥の中ではマイナーな方に部類されるだろう。革命戦争中はオランダやライン方面に従軍し、帝政期も占領地の総督職を長く務めており、1812年に若年親衛隊の指揮官となるまでナポレオンとの関係性が薄いのがその理由かもしれない。1814年のフランス戦役では後衛を務め、パリ防衛戦ではマルモン、モンセー両元帥とともに、親衛隊を率いて防衛にあたり、その後マルモンと共に、連合国との降伏交渉を行った。

ルイ・フィリップの七月王政期では、1830年から翌年まで駐サンクトペテルブルク大使を、1834年から翌年まで陸軍大臣と首相を務めたが、1835年7月28日、国王の国民衛兵観兵式に随行した際に、コルシカ生まれのフィエスキという過激派から、25の砲身を持つボレーガンの砲撃を受け、他の11名と共に命を落とす。

観兵式で襲撃を受けるルイ・フィリップ一行
ジュゼッペ・フィエスキ

モルティエはフランス語で「迫撃砲」を意味する。また本人の身長は2m近くあり、「射程の短い巨大迫撃砲」と評されたという。あと、元帥の中ではベルナドットと仲が良かったと言われる。

2017年6月17日土曜日

1-43-a エドゥアール・モルティエ


エドゥアール・アドルフ・カシミール・ジョゼフ・モルティエはカンブレーに1768年に生まれた。

1791年、志願兵連隊の大佐になって以降、ずっと現役の軍人であり続ける。ピシュグリュ、モローおよびマッセナの指揮のもと、ライン方面、スイス方面を戦い抜き、中将まで昇進を果たした。彼はボナパルトのお気に入りそのもので、アミアンの和約が決裂すると、直ちにハノーファー[当時イギリス王国と同君連合]を占領した事への報酬として、元帥杖を与えられる。

革命戦争期のモルティエ

1805年から1807年にかけ、モルティエ元帥は大いに名声を上げたが、最後の3年間のハンブルク統治の間、ナポレオンの専断的な命令を熱心に執行したため、軍歴に影を落とした。この搾取と抑圧の対象となった街から大陸軍に帰投すると、戦役がフリートラントの森林地帯で決着がつくまで軍務についた。

トレヴィーゾ公となったモルティエは次いでスペインに呼ばれたが、成功を収められなかった。さらに破滅的なロシア遠征では、彼は以前のような勇猛さを失い、少なくともクレムリン宮殿を爆破させた以外の活躍を耳にしていない。ドイツ戦役では、再度勇気を取り戻し、フランスの地をかけた戦役でも、連合国軍の圧倒的な大軍に対し最後まで奮闘した。彼はルイ18世に帰順し、称号と地位を確約されたが、ボナパルトの帰還にあたって寝返ったため、2度目の復古の際には当然ながら貴族院から締め出された。しかしながら、彼が長いこと重要な指揮権を与えられていたという功績は忘れられることはなく、1819年、貴族の身分を回復された。

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2017年6月14日水曜日

ピシュグリュ 補記(1) 革命戦争編

本書の原題を直訳すると『ボナパルトの宮廷と陣営』となり、すなわち彼の家族および閣僚・将軍ら部下を意味するんだが、ピシュグリュのように部下とは言えない人物も本書で取り上げられている。

ピシュグリュの章は、初版に比べ改訂版では表現がマイルドになっているが、内容に大きな差はない。ピシュグリュの章に関わらず、本書は各人物の生涯の概略を述べるよりも、作者視点で特筆すべき事項により筆を割く傾向にある。これは本書の成立時期が古く、読者の多くは登場人物と同時代人なため、万事を説明しなくとも、経緯が頭に入っているせいかも知れない。

彼の革命戦争期以前の軍歴については、結構省略されているので補足する。

ピシュグリュ

1783年に第一砲兵連隊に入隊したのち、アメリカ独立戦争に短期間従軍。

フランス革命が勃発すると、ブザンソンのジャコバン党員となり、ガール県の志願兵連隊の中佐に選出される。そしてライン方面軍にて際立った働きをして参謀に任命されたのち、すぐさま中将に昇進する。

1793年、非貴族出身の将軍を求めていたサン・ジュストにオッシュ共々見出される。オッシュが率いるモーゼル軍と協働しつつ、ライン方面軍司令官となったピシュグリュは、アルザスの再征服と軍の再組織に成功する。1793年12月、オッシュは政府に逮捕されるが、これは彼の同僚たち(ピシュグリュ含む)に嵌められたと見る向きもある。

そしてピシュグリュはライン=モーゼル軍の司令官に就任したのち、1794年の2月、ジュールダンを引き継ぐ形で北方軍の司令官となる。そして一年のうちに、3つもの戦役を戦い抜くことになる。英軍、オランダ共和国軍、オーストリア軍はサンブル川から海にかけて勢力を張っており、ピシュグリュはクラーファイ率いるオーストリア軍をカッセル、メーネン、コルトレイクの戦いで破る。

イプレ攻囲戦

停戦期間が明けたのち、1794年の6月1日から13日にかけ、イプレ砦の攻囲戦を指揮するかたわら、部下のスアムとマクドナルによって、砦の近郊のルーセラーレとホーフレーデに布陣したクラーファイを撃退させた。その後18日に砦は降伏する。

ジュールダン率いるサンブル・エ・ムーズ軍がフリュールスの戦いで勝利を収めた後、ピシュグリュは2度目の戦役を開始し、10月18日にムーズ川を渡り、ナイメーヘンを押さえるとオーストリア軍をライン川東岸へと撤退させた。

ピシュグリュ軍の氷上渡河
そして冬営せず、冬季戦役を開始し、12月28日に氷を張ったムーズ川を渡るとボンメレルワールトを急襲し、そして同様に凍ったワール川を越えて英軍を駆逐すると、1月19日にユトレヒトに、そして20日にアムステルダムに入城した。こうして全オランダは征圧される。アムステルダムは当時最も裕福な都市であったが、ピシュグリュの軍は規律が保たれていた為、略奪は行われなかった。この様な自制心は、革命戦争〜ナポレン戦争期のフランス軍には稀だったという。ピシュグリュの人道面でのもう一つの逸話として、国民公会はイギリス兵を一人も残さず処分し、またコンデ(1793年)や、ヴァランシエンヌ(同)、ランドルシー(1794年)の攻囲戦の敵兵をたとえ降伏しようとも助命するなと命じていたが、ピシュグリュは従わなかった。

ピシュグリュ将軍のアムステルダム入城

また1月23日の夜、海が凍結した為、身動きが取れなくなったオランダ艦隊をフランス軽騎兵連隊が拿捕した。騎兵による艦隊の拿捕は軍事史においてほとんど例が無く、この「デン・ヘルダーのオランダ艦隊拿捕」は、フランス革命戦争期における奇妙な出来事として記録に残る。とは言え、オランダ艦隊は事前に抵抗するなとの命令を受けており、フランス軽騎兵は単純に艦隊の指揮官と会って降伏交渉をしただけとの説もある。

デン・ヘルダーのオランダ艦隊拿捕

かつてサン・ジュストと親しかったが、彼をギロチン送りにしたテルミドール派に協力する。公会はピシュグリュをライン=モーゼル軍の司令官に任命するが、彼はまた同時にモロー下の北方軍およびジュールダン下のサンブル・エ・ムーズ軍も指揮した。4月1日、パリでサン・キュロットが暴動を起こした際には呼び戻されて制圧にあたった。その功によって、公会から「祖国の救世主」との称号を得る。

1795年5月にマンハイムを押さえると、彼の名声は絶頂に達したが、まさにこの頃から、ルイ18世を復位させる策謀に関与するようになったと言う。彼はコンデ公と接触し、王政復古の暁には報酬を約束されたと伝えられる。敵に向けて前進すべきところを退却し、同僚のジュールダン軍を敗北せしめるなど、恣意的な行動に疑いの目が向けられるようになった。パリに召喚され隠居生活を送った後、五百人会に選出され、そしてフリュクティドールのクーデターによってギアナ流刑となる。

2017年6月4日日曜日

1-47-a ジャン=シャルル・ピシュグリュ(1)


シャルル・ピシュグリュはブザンソンからおよそ9リーグほど離れたアルボワという物語に出てきそうな小さな町に1761年に生まれた。

アルボワ

このプロテスタントがほとんどを占める地域にて、貧しく、身分の低い家に生まれた若いシャルルにとって、内面を向上する機会は乏しいかと思われた。しかしアルボワには在俗僧侶の為の学校と修道院があり、それらによって彼は無償で勉学が可能となった。

彼はよく学び、よって修道院の上部はブリエンヌにある系列の施設にて、彼に哲学と数学の教師の職を与えようとした。これによって彼は公的に僧籍に属することになるが、彼は奉職の請願を立てなかった。彼の天職は大きく違っていたのだ。ブリエンヌでは、彼はナポレオン・ボナパルトの教官となる。

1783年、彼はユークリッドとアリストテレスの道を断念し、ヴォーバン[ルイ14世時代の戦術家]とクーホルン[オランダの砲術家]の道を選び、砲兵連隊に一兵卒として入隊する。彼はすぐに軍曹に昇進し、1789年には連隊付き副官となった。そして3年後に志願兵から成る大隊を委ねられ、ライン方面軍に派遣された。そこにて彼は際立った働きを見せ、わずか数カ月後に中将に昇進したのみならず、方面司令官に任じられた。このような急速な軍事史において先例がなかった。これは、彼の軍人としての才能というよりも、人民の(むしろロベスピエールの)代理人たるサン・ジュストとルバの引き立てによることに疑いはない。

ピシュグリュがこの重要な任務を拝命した時、軍隊が無秩序の極みであることに気がつく。彼は規律と言えるものを回復した。何人かの将校を取り除いて、代わりに下士官から登用を行った。また短期間のうちに、敗戦が引き起こした士気の低下を拭い去った。彼が採用した新たな戦術は、他の何よりも彼の軍隊に自信をつけさせた。彼はこれまでの指揮官の誰よりも狙撃兵と砲兵を多く活用し、彼による迅速かつ間隙の無い攻撃はオーストリア軍に息を吐く暇さえ与えなかった。敵軍との野戦が発生する時、常に彼はその場に現れた。だが、彼は長い単調な攻囲戦で時間と兵力を消耗するのは嫌った。彼は全軍を打ち破ることを選び、よって砦の陥落は当然の結果となった。

軍司令官 ピシュグリュ

この将軍の心理がどのようにして、そしてどの時期から王家への関心に転じたのか定かでは無い。彼は明らかに現状の情勢を嫌悪していた。彼は暴力、略奪そして殺戮が彼の国を蝕んでいると捉え、彼の首も一日たりとて安全ではないと感じていた。これらの要素は疑いもなく彼の中で重きを占めただろうが、だがおそらくそれ以上に、坊主見習いは王政復古による報酬を期待していた。1795年にコンデ公からの密使が彼の司令部の置かれたアルトキルシュにやって来た時、彼はほぼ完全に転向していた。

ピシュグリュは王家を支援する用意は出来ていたが、ブルボン家が考案した、それを執行するにあたり関係者を破滅させる事が必定の計画を非難した。彼は自身の判断で行動させろと主張し、連合国軍の将軍たちと接触して彼らと協働すると約束した。彼は彼自身でより賢明な、それによって成功間違いなしの計画を練っていた。彼が更にそれを実行に移し出した頃、総裁政府はどうやってか彼の企ての機密情報を入手し、直ちに彼をパリへ召還する。政府が脆弱であること、漏れた情報が不完全であること、そして自分の声望の大きさに自信を持っていた彼はその命令に従った。総裁政府はあえて手を下さないだろうとの彼の見込みは正しかった。実際、政府に指揮権は剥奪されたものの、スウェーデン大使に任命される。しかし彼はにべもなくそれを断った。その後、彼は故郷近くのベルヴォーの修道院に隠棲し、そこで邪魔されることのない平穏な日々を数ヶ月間過ごす。1797年に、上ソーヌ地方区が彼を五百人会へ代表として送り込まなければ、彼はおそらくそのままの生活をし続けただろう。

総裁たちがこのブルボン家の仲間の議員就任を危惧し無いはずはなかった。彼が議長に選出された時の総裁たちの心情はいかなるものだったろうか?それゆえ総裁たちは、彼が同輩らに働きかける様を鋭い目で監視すると、その内容が主に正規軍の威力に対抗しうる軍備の組織から徐々に君主制復活の道を開こうとするものであると確信した。総裁らは急激に警戒心を高めるあまり、嫉妬しているにも関わらず、ボナパルトに助言と支援を要求した。オージュローがパリへ派遣され、フリュクティドール18日のクーデターは成功する。そしてピシュグリュは他の多くの議員らと共にタンプル塔に収監された。極めて例外的な措置を行うにあたり民意の了承を得るため、以前にモローの手に落ちたブルボン家との書簡が公表された。そしてすぐさま総裁政府はピシュグリュと約50名の議員らを流刑に処した。

五百人会で逮捕されるピシュグリュ


2017年6月2日金曜日

1-47-a ジャン=シャルル・ピシュグリュ(2)

ピシュグリュ

この将軍はギアナの砦の中で、8ヶ月に及ぶ過酷な日々を過ごした後、同じ7名の追放者らと共に脱獄に成功した。彼らは夜半過ぎに、他の衛兵たちが寝ているうちに、歩哨を一人捕まえると縛って猿轡を噛ませ、衛兵詰所にある武器を全て取り去った後、音も立てず砦を抜け出し、無事スリナムの首都パラマリボにたどり着いた。オランダ政府当局の好意によって、イギリスへ渡航する手段を得て、1798年の9月23日にディールに上陸した。その地からピシュグリュは急いでロンドンに向かうと、この首都で亡命生活を送っている数多くの王党派と合流した。彼ら王党派はこの時期ブルボン家の復権に向けて無数の謀略を練っていた。

1804年の1月、ピシュグリュはいよいよ決定打を撃つと心に決めて、イギリスのカッター船からフランスの沿岸に上陸した。そこにて彼はジョルジュ・カドゥーダル、モンガイヤールとジョヨーと会い、4名はパリへ急行する。ジョルジュの目論見は第一統領の暗殺であり、シュアヌリ[ふくろう党]の同志のいずれもこのような犯罪行為に対し微塵も躊躇していなかった。過激かつ容赦のない彼らは、このような一か八かの計画を実行するにあたり、正義感も同情心もかなぐり捨てていた。しかし、ピシュグリュ将軍がこのような忌まわしい強硬手段に関与する気があった可能性は乏しく、その証拠は無かった。

しかしながら、陰謀者らは既に連れの一人モンガイヤールに裏切られており、パリ到着後の彼らは厳重な監視の対象となった。警察はピシュグリュとモローとの少なくとも2度の面会を確実に関知しており、後者が逮捕されると直ちに入念な捜索が前者に対し行われた。ピシュグリュはこうして悲惨な浮浪の身となり、家から家へさまよい、人目を忍んで身を隠し、ただ暗闇の中でしか戸外に出てこようとしなかった。時には、彼は一晩中屋外で過ごす事もあった。このような生活は死よりも一層ひどかった。助けが必要となり、彼はようやくある家に身を寄せようとする。そこの主人は彼を保護すると約束していたが、この男は警察に与しており、客人を裏切った。真夜中に24名の憲兵を伴った総監がピシュグリュを捕まえる為、彼の居る部屋のドアを破ってなだれ込んだ。この不屈の将軍はおよそ15分にわたって男たちと格闘した。しかしついに力尽きると、捕縛され、タンプル塔に身柄を移された。

ピシュグリュの逮捕

ピシュグリュは地下牢で、アンギャン公の処刑とモローの逮捕を知らされる。モローの逮捕について彼は、かの将軍は申し立てられてる罪状に対し全く無罪であると、この上もなく厳かに宣言したと言われる。この様な宣言が白日の下で行われたら、モローを破滅させたいボナパルトは彼の釈放を余儀なくされただろう。それゆえピシュグリュは裁判に出廷されぬ運命となった。そして司法の聖域ではなく、タンプル塔の地下牢にて、かの暴君の闇の工作員によって何度か尋問を受けた後、4月7日、ついに彼は死体となって発見される。彼は縊死を遂げていた。彼の黒い絹のハンカチが喉に巻かれ、その折り重なった部分が小さな棒切れで貫かれて、止血帯として用いられていた。そして政府の公式見解に反して、彼が自ら命を絶ったのではないとする噂が立ち、それは今も広く共有されている。噂は噂以上となり、彼は第一統領がエジプトから連れてきた4人のマムルークによって絞め殺されたと主張された。その数日後、ライト大佐[イギリス軍人]が同じ様に監獄で、耳から耳までぱっくりと喉を切り開かれた死体で発見され、それも同様に自殺として片付けられた惨事は、世人の陰鬱な疑惑を増大させた。

ピシュグリュの最期

ピシュグリュは勇敢な兵士にして有能な将軍だった。我々は彼に対しこれ以上の賞賛を与えようがない。彼はロベスピエールの友人であり、総裁政府から託された信頼を裏切った。この行為は、いくら政府が見下げ果てた政治を行っていたとしても決して正当化されない。彼がカドゥーダルの血に飢えた手先では無かったと希望を持てる根拠はある。しかし、彼の悲運はさほど同情を引かないのは確実である。とは言え、彼を殺した疑いを抱かれている者の汚名を更に根深いものにした。

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