2017年8月5日土曜日

1-13-a マリア・ルイーザ




この皇女はドイツ皇帝フランツⅡ世とナポリのマリア・テレジア・フォン・ネアペルとの間に、1791年12月12日に生まれた。

幼少時から、この大公女は、格別な気質の優しさ、穏やかさ、そしてあらゆる面での人当たりの良さを有していた。それゆえ、彼女は家族の、とりわけ父親にとってアイドルであり、彼女の父親への影響力は絶大だった。

皇帝一家
1809年の戦役にて、ウィーンがフランス軍によって爆撃された際、マリア・ルイーザは皇室のメンバーの中で唯一この首都に残っていた。彼女は重病だったため避難が出来ず、よって宮殿に従者たちと取り残された。ナポレオンはこうした事情を知らされると、彼は即座にこの病人の避難先を爆撃対象から外すよう命令を出した。彼は皇女の動静に関心を持つと、ひっきりなしに彼女について問い合わせを行ったが、それはおそらく彼が早々に彼女をジョゼフィーヌに代わって皇后の位につけようと決心したからだと思われる。この推測は、数ヶ月後にシェーブルンの和約が締結され、彼が彼女に求婚したことで確実となる。

ナポレオンと
マリア・ルイーザの婚礼
1810年3月11日にウィーンにて皇帝と皇后の婚礼が祝賀されると、この若い花嫁は数日のうちにナポリ王妃(カロリーヌ・ボナパルト)に伴われてフランスへ旅立った。ソワソンの近くで、供人もわずかに、目立たない身なりをした一人の馬上の人物が、若い皇后の乗る馬車を通り越した。そして大胆にもより近くで検分しようとしたのか戻ってきた。馬車は停止し、扉は開かれると、ナポレオンは全く儀礼を無視する形で自己紹介をした。その後4月1日に結婚はパリにてフェッシュ枢機卿によって正式なものとされた。婚礼にあたり、オーストリア大使のシュヴァルツェンベルク公が二人のために豪奢な催しを開いた時、悲劇的な出来事が発生した。舞踏会のホールにて火事が発生し、公の義理の姉を含む多くの人々が犠牲になる。皇后自身も危険に晒されたと言われる。この災害は凶兆だと見なされた。とりわけ1770年に彼女の大叔母のマリー・アントワネットがルイ16世と結婚した際に、同じような惨事が発生したことを思い起こさせた。

結婚して1年も経たないうちに、マリア・ルイーザは皇帝との間に息子を産んだ。出産はこの上なく難産で、産科医は神経を張り詰めていた。ナポレオンは彼を励まして「彼女が皇后であることは忘れ、町外れのサン・ドニにいる最も可哀想な女に対応しているのだと思え。彼女はただの女だ!」と述べた。新生児は死産かと思われたが、101の砲声によって意識を取り戻した。

皇后とローマ王(ナポレオンⅡ世)

あらゆる類の陰謀とも野心とも無縁であったこの皇女は良妻賢母の鑑であった。夫を満足させ、従うことも、幼い息子の世話をすることも、彼女にとって職務であり喜びであった。ナポレオンが1814年に戦役のためパリを出立すると、彼女は摂政皇后として残された。しかしこの権威は単に名目的なもので、実際の権限は摂政評議会に付与された。彼女は政府の運営も、家庭以外の何事についても、才能も嗜好もわずかしか持ち合わせていなかった。連合国軍が迫ってくると、彼女はブロワに避難した。そしてパリ条約が締結されると、彼女は父親の宮廷へ帰還し、皇后の称号を剥奪されると、パルマ、プラケンティア、グアスタッラ女公の称号と連合国によって認められた封土の統治権を与えられた。

ナポレオンの二人の妻の間には大きなそして驚くほどのコントランスがあった。ジョゼフィーヌはあらゆる手管と習得した優雅さを有し、他方マリア・ルイーザは全てにおいて自然かつ質朴だった。前者はその振る舞いにある種の大胆さがあったが、後者はしばしば内気とも言えるほど極めて遠慮がちであった。前者は相当な才能を有し、それを大勢の前で喜んで披露したが、後者の方の才覚はさほど際立っていないとしても、彼女の年齢にしては堅実なものであった。ジョゼフィーヌはサロンでの賞賛を浴びるに似つかわしいもので、マリア・ルイーザは家庭愛そのものだった。実に奇妙なことに、自らを作り上げた人物は西インドの入植者の娘で、自然なままの性質を備えた人物は、欧州で最も尊貴なる家系の皇女であった。それ以外では、どちらの女性も性質の愛らしさを備え、ナポレオンに献身的であり、貧しい者たちに善意を施した。マリア・ルイーザの慈悲心について一例として、彼女の家政の管理者の一人であるデュラン夫人の記録を紹介する。

「ある夜、皇后が晩餐の席を立ち、自室に下がった時、エスペランスという名のとても誠実な性格の下男が興奮した様子で入ってきて、彼が今しがた目にした辛い光景を女官たちに知らせようとした。彼は、エシェル通りにある家の7階に住むある家族について、主人とその妻および子供が6人もいるのに、もう2日間も食にありつけていないと告げた。彼はその境遇を知ると、実際に見に行き、それが事実だと確かめた。しかし彼らをどうしようにも与える金が無く非常に悲しい思いをしたと言う。ある女官は困窮に陥った気の毒な犠牲者たちの為に、彼に10フランを与えた。さらに彼女は、皇后が戻ってくると、彼らの悲惨な境遇を伝え、救援するよう促した。皇后は即座に400フランをその家に送るよう命じた。皇后陛下は、時刻は深夜に差し掛かり、すでに10フランが送られていることから、その貧しい者らは明日の朝まで待つ事ができると説得されたが、『いいえ』と返事をすると、『そのお金をすぐに送って頂戴。私は自分の力で彼らが安心して素晴らしい夜を過ごせると思えるのが嬉しいのです』と告げた。その救援金はすぐに送付され、この一家は引き続き長いあいだ皇后からの助成を得られた。」

おそらく1825年だったと記憶するが、彼女の夫が死去したのちに、マリア・ルイーザはナイペルク伯爵の求婚を受け結婚したが、欧州の王室からの認知を得られなかった。ナポレオンとの間の息子はウィーンで教育を受け、ライヒシュタット公の称号を得ている。彼は人当たりの良い性格をし、かなり嗜み深い若者で、祖父の皇帝から大いに寵愛されていると伝えられる。いかなる運命が彼を待ち受けているか、誰があえてそれを推測できようか?

ライヒシュタット公
(ナポレオンⅡ世)

2017年8月1日火曜日

1-09-a エリザ・ボナパルト








皇帝の一番年上の妹は1777年1月8日にアジャクシオに生まれた。

1797年、この若き婦人はコルシカ貴族のフェリックス・バチョッキと結婚する。この一族には農民も商家もいずれもその構成員に含まれていなかった。彼が彼女に求婚した知らせがちょうどイタリアにいたボナパルトに届いた時、彼はにべもなくこの縁組を拒絶したが、それもそのはずだった。バチョッキ(1762年出生)はかなり早い年から公務についていたにも関わらず、素寒貧かつ地位もなく、砲兵隊長以上の階級にたどり着いていなかった。しかし母のボナパルト夫人は、この結婚を結実させようと切望していた。その理由は推測するしかないが、彼女は娘の幸福はこの縁組にかかっていると考えていた。彼女は息子の意志におおっぴらに反する形でこの結婚を実現させる気は無かった。彼女は策略を用いる。彼女は息子に手紙にて、愛するナポレオンから何の返事も無かったので、母親が祝福を与えようとする人物と妹との縁組に反対する気はないと確信したのだと告げた。ナポレオンは不満だったが、もはや手の施しようがないので、彼はこの不都合な縁戚を十分活用しようと知恵を巡らすことにした。彼は義弟をまず大佐に昇進させると、次いで将軍に任命した。

フェリーチェ(フェリックス)・バチョッキ


バチョッキ夫人は兄のリュシアンの影響で芸術と文学の両方を嗜好した。彼女は文壇を好んだが、精神面における度量も明敏さも生まれ持っていなかった。彼女は獲得した僅かばかりの知識も消化不良であり、彼女はフランス人が表現するところの粗忽者であり続けた。だが賞賛すべきこととして、彼女が才能ある者を育成した事を述べておかねばならない。さらに、彼女自身が奨励するには才能を有していない分野においてさえも、滅多に間違う事なくその才能を有した人物を見出した。それ以外の点においても、彼女のやり方は十分に分け隔てが無かった。彼女は夫をこの上なく軽侮していた。彼はきっとそうされるに価する人物であっただろうが、それでも彼女が日ごとに彼を侮辱するのが許されて良いはずは無かった。実際のところ、彼は彼女の家令よりも下の扱いだった。それ以外にも、伝えられるところによれば、彼女は数多いる賞賛者の存在をなんら隠そうとしなかった。1

1805年、エリザはルッカ主権公国を、その後すぐピオンビーノを授けられた。7月、彼女とその夫は戴冠するが、哀れなバチョッキは政治にほとんど関与できなかった。彼はこの壮麗なるこけおどしの傀儡でしかなかった。公式の催事ではいつも彼は妻の後ろにつき、観兵式では彼は妻の副官以外の何者でもなかった。トスカーナ大公国の授与と、強欲なおべっか使いたちが彼女の耳に入れる空虚な賛辞によって、彼女の自尊心はさらに充足した。この女性はすっかり自惚れてしまった。彼女はセミラミスについて知ると、それと張り合おうとし、ルッカのセミラミスと呼ばれるとこれ以上ないほど喜んでみせた。

ルッカ

とうとう逆境が訪れると、腰巾着たちは去っていき、友達は一人も残らなかった。彼女の領地は連合軍によって占領され、彼女は逃亡を強いられた。彼女はボローニャに居を定めようとしたが、ボヘミアにいる妹カロリーヌのもとに送られた。いくばくかの後、彼女はトリエステに住む許可を得て、1820年8月にその地にて死去する。

1 善男善女にとって衝撃を与えかねない人物であるので、あえてその名前を伏せるが、とある愛人に関する逸話として、彼女はC氏という旅役者に熱を上げていたが、飽きると彼に男爵の称号とレマン県の知事職を与えた。彼がその栄誉を楽しむ間も無く、彼が所属する一座の支配人がジュネーブに到着し、芸を披露しようとした。しかし事前に県知事の許可が必要だったので、彼は知事の元に赴いた。しかし彼はこの身分高き人物との面会を許されなかった。彼はたじろがず、知事と顔を合わせようと、警吏に構う事無く階段を駆け上ると、著名人らに囲まれた男爵に突っ込んでいった。「なんと!これは君かね、C君?舞台を捨てて、ここで雇われているのかね?私を知事に紹介してもらえないか?」思った通りだが、男爵は針の筵だった。彼は支配人を執務室へと急かすと、彼の力になりたいと全身で願っていると称して、良い気にさせて退散させようとした。しかしながら、一時間の中に、 支配人はその場所を去るよう命令を受け、強制的に従わされた。