2017年8月1日火曜日

1-09-a エリザ・ボナパルト








皇帝の一番年上の妹は1777年1月8日にアジャクシオに生まれた。

1797年、この若き婦人はコルシカ貴族のフェリックス・バチョッキと結婚する。この一族には農民も商家もいずれもその構成員に含まれていなかった。彼が彼女に求婚した知らせがちょうどイタリアにいたボナパルトに届いた時、彼はにべもなくこの縁組を拒絶したが、それもそのはずだった。バチョッキ(1762年出生)はかなり早い年から公務についていたにも関わらず、素寒貧かつ地位もなく、砲兵隊長以上の階級にたどり着いていなかった。しかし母のボナパルト夫人は、この結婚を結実させようと切望していた。その理由は推測するしかないが、彼女は娘の幸福はこの縁組にかかっていると考えていた。彼女は息子の意志におおっぴらに反する形でこの結婚を実現させる気は無かった。彼女は策略を用いる。彼女は息子に手紙にて、愛するナポレオンから何の返事も無かったので、母親が祝福を与えようとする人物と妹との縁組に反対する気はないと確信したのだと告げた。ナポレオンは不満だったが、もはや手の施しようがないので、彼はこの不都合な縁戚を十分活用しようと知恵を巡らすことにした。彼は義弟をまず大佐に昇進させると、次いで将軍に任命した。

フェリーチェ(フェリックス)・バチョッキ


バチョッキ夫人は兄のリュシアンの影響で芸術と文学の両方を嗜好した。彼女は文壇を好んだが、精神面における度量も明敏さも生まれ持っていなかった。彼女は獲得した僅かばかりの知識も消化不良であり、彼女はフランス人が表現するところの粗忽者であり続けた。だが賞賛すべきこととして、彼女が才能ある者を育成した事を述べておかねばならない。さらに、彼女自身が奨励するには才能を有していない分野においてさえも、滅多に間違う事なくその才能を有した人物を見出した。それ以外の点においても、彼女のやり方は十分に分け隔てが無かった。彼女は夫をこの上なく軽侮していた。彼はきっとそうされるに価する人物であっただろうが、それでも彼女が日ごとに彼を侮辱するのが許されて良いはずは無かった。実際のところ、彼は彼女の家令よりも下の扱いだった。それ以外にも、伝えられるところによれば、彼女は数多いる賞賛者の存在をなんら隠そうとしなかった。1

1805年、エリザはルッカ主権公国を、その後すぐピオンビーノを授けられた。7月、彼女とその夫は戴冠するが、哀れなバチョッキは政治にほとんど関与できなかった。彼はこの壮麗なるこけおどしの傀儡でしかなかった。公式の催事ではいつも彼は妻の後ろにつき、観兵式では彼は妻の副官以外の何者でもなかった。トスカーナ大公国の授与と、強欲なおべっか使いたちが彼女の耳に入れる空虚な賛辞によって、彼女の自尊心はさらに充足した。この女性はすっかり自惚れてしまった。彼女はセミラミスについて知ると、それと張り合おうとし、ルッカのセミラミスと呼ばれるとこれ以上ないほど喜んでみせた。

ルッカ

とうとう逆境が訪れると、腰巾着たちは去っていき、友達は一人も残らなかった。彼女の領地は連合軍によって占領され、彼女は逃亡を強いられた。彼女はボローニャに居を定めようとしたが、ボヘミアにいる妹カロリーヌのもとに送られた。いくばくかの後、彼女はトリエステに住む許可を得て、1820年8月にその地にて死去する。

1 善男善女にとって衝撃を与えかねない人物であるので、あえてその名前を伏せるが、とある愛人に関する逸話として、彼女はC氏という旅役者に熱を上げていたが、飽きると彼に男爵の称号とレマン県の知事職を与えた。彼がその栄誉を楽しむ間も無く、彼が所属する一座の支配人がジュネーブに到着し、芸を披露しようとした。しかし事前に県知事の許可が必要だったので、彼は知事の元に赴いた。しかし彼はこの身分高き人物との面会を許されなかった。彼はたじろがず、知事と顔を合わせようと、警吏に構う事無く階段を駆け上ると、著名人らに囲まれた男爵に突っ込んでいった。「なんと!これは君かね、C君?舞台を捨てて、ここで雇われているのかね?私を知事に紹介してもらえないか?」思った通りだが、男爵は針の筵だった。彼は支配人を執務室へと急かすと、彼の力になりたいと全身で願っていると称して、良い気にさせて退散させようとした。しかしながら、一時間の中に、 支配人はその場所を去るよう命令を受け、強制的に従わされた。

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