2019年8月17日土曜日

1-39-a オーギュスト・マルモン




オーギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモンは、ナポレオンの元帥の中で最も秀でた出自の持ち主の一人だった。彼の家系は貴族で、古くから軍事において誉れ高かった。マルモンは1774年7月20日にシャティヨン=シュル=セーヌに生まれる。

多くの先祖と同じく、フレデリク少年は子供のうちから将来的な軍属を見込まれていた。彼は15の歳に歩兵連隊に中尉として入隊する。 しかし、砲兵隊の方が昇進がより早いと期待して、転籍した。 トゥーロンでマルモンはボナパルトの目に留まった。 そして、そのボナパルトが国内軍の指揮官に任じられると、マルモンはパリに急行し、彼の副官に任命された。

イタリア、エジプト、シリア戦役の間ずっとマルモンはナポレオンの側で仕え続けた。そして、選ばれた数名の一人としてナポレオンのフランス帰還に伴われた。

過酷なるモン・サン・ベルナール峠越えの時も、バール砦の攻囲戦の時もマルモンは大いに活躍した。マレンゴの戦いでは砲兵指揮官を務め、戦役の最後には中将への昇進を果たした。

続く1805〜7年の戦いにおいても同じように軍功を立てた。そして1809年のドイツ戦役にて彼は元帥杖とラグーザ公爵の称号を獲得した。 この後、彼はマッセナの後任としてポルトガル方面軍司令官に任命される。 だが戦況は彼の手に余る状態となっていた。

サラマンカの戦い
(1812年7月22日)
スペインに到着して間もなく、マルモンはスルトの軍隊と合流し、彼らの連合軍はウェリントンに包囲されたバダホスを救うために進軍した。ウェリントンは彼らに対抗するほど十分な兵力を有していなかったため、サラマンカに向かって後退した。しばらくの間、両者はにらみ合いを続けたが、どちらも最初の一撃を放とうとしなかった。しかし、マルモンの失策によってウェリントンは好機を手に入れることになった。ウェリントンは幕舎の中で夕食を食べていたところ、フランス軍が両翼を伸ばし始め、おそらく側面攻撃を仕掛けてくるだろうとの情報がもたらされた。 「マルモンの才気は鈍ったな!」ウェリントンはそう言って、素早く馬にまたがった。フランス軍はイギリス軍の急襲に圧倒され、陣地から追い出された。そして撤退するフランス軍の混乱の度合いは、マルモンの負傷により早々に制御を失ったため、嫌が応にひどくなった。サラマンカの大戦の顛末はというと、フランス軍の捕虜7千人と大砲11台、鷲章旗2本が英軍の手に落ちた。あまつさえ鷲章旗のひとつはコノート連隊によってラム酒代として売り飛ばされてしまった!

マルモンの負傷は腕の切断が避けられないと見なされるほど深刻なものだった。よって彼は翌年のロシア遠征に向かうナポレオンに同行できなかった。ナポレオンが悲惨な結果に終わった戦役から戻ってきた時にさえも、彼は完全に回復できていなかった。 しかしマルモンは新たに幕を開ける戦いに自分も参加すると言い張った。 彼はライプツィヒ、バウツェン、ルッツェンの戦いで一軍を率いた。 その後、ライン川から首都へと押し寄せてくる敵の恐るべき大軍に対して、足を踏ん張るようにフランスの領土を防衛した。 そしてこの元帥の人生で最も重大な局面が到来する。

ナポレオンはマルモンとモルティエにパリ防衛を命じた。 しかし、連合国の大軍に対し、わずか数千兵を擁するのみで、いかにしてその命令を達成できようか? それでもジョセフ・ボナパルトがマルモンに彼の任意で降伏に向けた条約締結を結べばよいと言い残してパリを捨てて逃亡するまで、両元帥は抵抗し続けた。 こうして、彼とモルティエは抵抗を解き、戦争の惨事からパリを救う旨に同意した。


ラグーザ公爵は降伏後、約12,000兵とともにエソンヌにて待機した。 ここで彼は、ナポレオンはもはや統治者ではないとする、連合国の宣言および元老院の議定書を受理した。こうして、彼は暫定政府とシュワルツェンベルク公の両方と交渉を開始した。 そして、連合国軍の宿営地内に兵を移動させる旨合意し、 それにより戦争を継続する可能性を一切放棄することとなった。 マルモンは彼の軍隊がノルマンディーへ平和裡に撤退ができるよう明文化し、またナポレオンが連合国の手に落ちた場合における、本人の身柄の自由と名誉ある待遇の保証を得た。

パリの明け渡し(1814年3月31日)

しかし、マルモン指揮下の軍隊が行軍を開始する前に、マクドナル、コーランクールおよびネイがパリへの途上にあるマルモンの本部にやってきた。 彼らはナポレオンの退位宣言書の運び役であり、彼らが属する代表団にマルモンの名前を追加する権限を与えられていた。 彼らの目的は、フランスの国益全般ととりわけ元帥連(ネイが主たる代表を務めた)の両方にとって、可能な限り最上の条件を手に入れること、そして何よりも、皇后の摂政の下でのナポレオンⅡ世の即位について、連合国の承認を得ることにあった。 マルモンは難しい立場に置かれた。彼はフォンテーヌブロー城にて元帥たちの立会いのもと皇帝が退位宣言書に署名した席に呼ばれなかった事を不服とし、彼らとは別の協定が既に進んでいる事を告げた。マクドナルはマルモンに向かって、このような重大な局面において高位の将官の間で内輪もめを起こす事の愚を説くと、3名と共にパリに急行し今まさに開かれようとしている重要な会議に登場して、その協定の執行の停止のため働きかけるよう請願した。マルモンは同意してネイの馬車に足を踏み入れると、部下で他の将軍(2名を除く)同様にこの協定の機密を知らされていたスアム伯爵に、さらなる指示があるまで軍隊を留めておくよう命令した。だが、彼が首都に辿り着くより先に、想定外の出来事によって協定の執行は急がれる事になった。ナポレオンがスアムを面前に呼び出したのである。皇帝の耳に秘密協定の件が漏れたのだろうか?当然ながら、 そんな疑問がスアムの頭に浮かんだ。危機を感じた彼は慌てて内密に協定の事を知らされていた他の将軍らを集めた。そして、戦線を越えて軍隊ごと敵軍に投降する旨即決した。戦意を失っていない兵士たちは、命じられている行動の意味するところついて何も知らず、連合国軍への側面攻撃が意図されているのだろうと推測し、いそいそと進軍した。よって、連合国軍の真っ只中に置かれていると気づいた時の彼らの怒りは、暴動となって表出したが、すぐに鎮静化させられた。

ルイ18世によって、ラグーザ公爵はフランス貴族ならびに親衛隊長に任じられた。 ナポレオンがエルバ島から上陸したとき、かつてのナポレオンの退位劇における彼の役回りにより、裏切り者として非難を受けた。 彼は国王に伴ってゲントへ退避し、その後養生を理由としてエクス・ラ・シャペルの温泉に向かうと、2回目の復位までそこに留まり続けた。

1817年、王の副官であるラグーザ公爵は特命を帯びてリヨンへ派遣された。 その街とグルノーブルの両方で暴動が勃発して以降3ヶ月たっても鎮圧は困難を極めていた。 相当の不満が依然として住民の間でくすぶっていた。 住民が暴動という誤った手段を用いたことについては大目に見つつ、住民を手荒く扱い、容赦ない抑圧を加えていた地方当局に対しては厳格な態度で臨んだことで、マルモンは上手いこと平穏を取り戻した。 その時以来、彼は貴族院議員の職務と、彼が非常に愛好している農業研究を交互に営んでいる。 とりわけ彼は羊毛改良において成果を上げている。

将帥としてのマルモンの技量は一流だったとは言えないが、優れた砲兵士官であるとは万民の認めるところである。一個人として、彼は横柄かつ見栄っ張りと言われていたが、略奪や残酷な振る舞いでその名を汚すことはしなかった。

2019年8月1日木曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (1)




元帥の中で最も優れていたアンドレ・マッセナは1758年5月6日にニースに生誕した。幼くして孤児となり、財産も残されていなかった彼は十分な教育を得ることができなかった。少年だった彼は、商船の船長だった親族を介して船乗りになったが、すぐに海上生活にうんざりして、別の親族が大佐を務める連隊に兵卒として入隊した。

アンドレ・マッセナ
軍務を滞りなく果たしていたアンドレ青年は、そのうちに伍長に昇進した。これよりはるか先、フランス元帥に任命された際に、彼はこの時の昇進の方がずっと満足感を覚えたと述べている。数年のうちに軍曹を経て少尉に昇進したが、中尉には到達できなかった。この王国の軍事力を蝕む要素となっていた旧体制の下では、功労者とはいえ、出自にも後ろ盾にも恵まれていない者には将校の肩章は与えられなかったのである。1789年、14年もの軍隊生活ののちに、希望を失ったマッセナは、失意のうちに退役すると、結婚し、生まれ故郷に居を構えた。だが、精神を突き動かすような革命の波に誘われ、再び軍務へ戻った。 兵卒らは上官を選ぶことを許された。 そして彼は驚くほど急速に昇進を重ね、 1793年には中将に到達した。 またこの時点にて、勇敢さと高いスキルの持ち主だとの評判を確立していた。

これより、彼の軌跡はナポレオンと分かち難いものとなる。彼はイタリア方面での重要な軍事作戦に常に参加しており、この途方もない戦役の間ずっと司令官のナポレオンと上手く協働していたので、ある時ナポレオンは「貴官の軍は他の将軍の軍より強力で、また貴官ひとりの働きぶりは6千の兵士にも匹敵すると言っても差し支えないだろう」との手紙を送っている。オーストリア皇帝との和平締結についてパリへの伝達役に選ばれたマッセナに向けた総裁政府のもてなしぶりは、これ以上ない程であった。

表向きにはデュパ将軍暗殺への報復措置として、実際にはカトリック教会の力を削ぐ目的で、共和国軍はローマを占領した。現地政府はベルティエの監督下のもと数ヶ月の間はとどめ置かれたが、ローマ市民の反発を押さえつけるため、より強固な統制力が必要となり、マッセナが派遣されることになった。しかしながら彼の着任はローマに駐留している軍人たちとって、好ましいものではなかった。フランス軍の将帥の中で、彼以上に兵士たちから不人気な者はいなかった。彼は飽くなき貪欲さで、征服地の住民だけでなく、彼が指揮する兵士たちからも搾取していた。 彼の強欲を満たす対価なしに、衣服も、ワイン一杯も、一口分の食べ物でさえも兵卒たちは手にすることができなかった。 彼はあらゆる連隊に徴収のための手下を配置していた。手下どもが責務を忠実に果たすたびに、兵たちはマッセナへ呪詛の言葉を浴びせていた。不平不満の声は頻繁に上がったが、ほとんど聞き入られなかった。※ 事実、後にナポレオンは、ありていに言えば、マッセナがお気に入りの横領制度を放棄するのであれば二百万フランを払うと提案した。マッセナは金を受け取った上で、再び忌まわしい振る舞いを再開した。これが他の将軍であれば、言語道断であっただろうが、マッセナの軍才ゆえに完全にお咎めなしとなった。ローマへの途上、兵士たちがパンテオンに集結し、例の搾取構造の廃止を訴える宣言書にサインをしていることを知る。そしてマッセナがローマに入城するや否や、彼の鼻先にその宣言書が突きつけられた。この僭越行為に激怒したマッセナは、宣言書に署名した兵たちに翌日ローマを去るよう強制したが、従う者はいなかった。己の威勢がもはや通用しないと自覚したマッセナは、次席の将軍に全ての指揮権を委譲して退任すると、パリに帰還した。

第2次チューリッヒの戦い (1799年9月25日)
ボナパルトがエジプト遠征で不在の間、マッセナは主として東部戦線に駆り出された。彼はドナウ軍およびヘルヴェティア軍の二つの大軍の司令となり、よって彼の指揮範囲はイゼールからデュッセルドルフまでに及んだ。しかし戦況は一転しようとしていた。ロシアのスヴォーロフが他の将軍が指揮するフランス軍をイタリアから一掃せんとする傍らで、マッセナ自身もオーストリアのカール大公に手ひどくあしらわれたため、スイス側からフランスへの敵軍の侵略を許す瀬戸際に追い込まれた。幸運なことに、連合国軍の指揮官の間に意思疎通の齟齬が生じたことで、チューリッヒにてオーストリア=ロシア連合軍の片翼に大打撃を与えることができた。連合国軍の足並みがより揃っていれば、もしくはスヴォーロフの狙いが阻害されることがなければ、ロシアとオーストリアの軍隊はフォンテーヌブローの退位より15年も早くパリ入城を果たしていただろう。

オーストリア軍に投降するマッセナ
ナポレオンの帰還は戦局を様変わりさせる。ナポレオンがアルプス越えを行う一方でマッセナは、陸からはオーストリア軍に包囲され、海からはイギリス海軍によって封鎖されたジェノアの防衛を任じられた。彼は何度か決死の突撃を試み、うち一つは成功を収めたが、悲惨のうちに終わるものもあった。物資が枯渇し、住民の降伏を求める声が高まるに及んで、マッセナはついに投降した。だが、あと数時間持ちこたえれば、マレンゴの勝利者が救援にやってきたという事実を一層の屈辱とともに知ることになる。これより3、4年の間、彼はパリもしくはリュエルにある壮麗な居城で日々を過ごした。この城はかつてリシュリュー枢機卿が建設したもので、マッセナが購入できたのはひとえに略奪で得た富による。共和主義者であった彼は、第一統領の政権には好意を持っておらず、立法院議員となっても、政府の方針に対して賛同するよりも、反対する方が多かった。マッセナは間違いなくボナパルトを嫌悪しており、また彼からも嫌われていた。だが、政治的判断によって両者は互いに何食わぬ顔をしており、やがて自論も遠慮も打ちやったマッセナは、ナポレオンが皇帝即位を宣言した同日に、フランス元帥に任命された。

帝国元帥マッセナ
※しかしながら、ある時皇帝はマッセナを罰したことがあった。彼の指揮権を剥奪するのではなく、悪辣な方法で得た金を法的に取り立てるのでもなく、ナポレオンはマッセナが得た金の中から 2~300万フランを渡すよう、マッセナの金庫番に請求した。その金庫番は皇帝の命令に逆らいたくはなかったが、主人の許可なしにそれをする気になれなかった。かの独裁者は「金を払え。もしあいつがそのつもりなら、いくらでも悪あがきをさせておけ!」と言った。当然のごとくマッセナはみじんも抵抗することなくそれを許した。

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