2017年7月16日日曜日

1-05-a ジョゼフ・ボナパルト (2)


スペイン国王ホセとして

1801年、ナポリ王位を平穏に楽しんでいたところ、ジョゼフは一層輝かしく、そして一層悩ましい運命が待ち受けるスペインへと呼び出された。彼は猛々しいスペイン人は奴隷のごときナポリ人よりも幾分御し難いだろうと気づいており、国王の地位を辞退するというまともな感覚を有していた。しかし彼の意向は取るに足らぬと判断され、彼はピレネー山脈を無理やり越えさせられた。彼のマドリッドでの統治は、彼の裁量の及ぶ範囲では、ナポリにおけるそれと似通っていた。弟の従順な手下であったが、彼自身の性格は強権的でも残酷でもなかった。すなわち、前と同じように怠惰で無能、放蕩にして無為であったので、彼の新しい血の気の多い臣民からは、憎まれるというより嘲りの対象となった。軍隊による国防は彼の部下たちに任され、彼らはジョゼフに従うよりも頻繁に彼をナメてかかった。この国の一部分は常に民衆暴動に苛まれ、他方では外国の敵がはびこっていたため、彼の権威の及ぶところはフランスの軍隊が占領している範囲に限られた。その中においてさえも、彼の権威は名目だけで、実際の権限は第一に皇帝本人が、次いで元帥たちが掌握していた。スペインの王笏が彼の慎ましい手にはあまりに重いと気づいたジョゼフは、何度も望んでいない重荷から解き放って欲しいと願い出た。彼が持ちえた僅かばかりの権力でさえも不安定だった。彼は2度にわたって首都から追い出され、2度帰還し、彼自身はさほど手を下さなかったが、フェルナンド[スペイン王太子]派パルチザンに向けられた過酷な報復を目の当たりにした。3度目に首都を脱出すると、彼はそこに戻ることはなかった。彼は敵軍に至近距離まで迫られ、ヴィットリアにて対峙したが、決定的な敗北を喫した。彼の財宝および王笏、王冠は勝利者の手に落ちたーあわや彼も同じ運命をたどるところだった。彼は這々の体でバイヨンヌにたどり着く。これは彼がその国民の意思に反して、王位を簒奪して自分のものとしたことへの報いだった。

『酔いどれホセ』
スペインの風刺画

1814年、皇帝が戦場に赴いている間、前国王は帝国の副将軍としてパリに置かれ、国民衛兵を指揮すると共に、皇后の国事行為の代役となるかたわら、迫ってくる敵軍に備えて首都の防衛にあたった。彼は観兵の際、兵士らに共に最後まで戦うと宣言した。しかし、連合国軍がパリに到着すると、家族への愛が弟への義務感を上回り、降伏条件の調整をマルモンに丸投げして逃亡した。彼は最初にオルレアンに向かい、ついでブロワに行き、ナポレオンが退位した後、スイスへ逃亡した。その地で彼は地所を高い金を出して購入した。だがこれは、彼が民意に無頓着でいながらも、自分に関わるものには執着していたという証拠となる。

1815年、ナポレオンがパリに帰還すると、元国王も同じく戻ってきて高い地位を再び授けられるが、すぐにそれを失う羽目になる。ワーテルローの後、ジョゼフは弟と同様に、アメリカに逃亡する望みをかけてロシュフォール港に急行した。9月、彼はニューヨークに上陸し、フィラデルフィア付近に身を落ち着かせ、現在もシュルヴィリエール伯爵の呼び名でそこに滞在している。彼は相当な数のフランス人亡命者に囲まれ、結構な土地を所有し、かなりの金持ちとみなされている。彼がパリから2度目に逃亡を図った時の略奪ぶりは大層なものだったのは確実と言えよう。

1820年代のジョゼフ

一個人としてのジョゼフの性格は、愛想が良い以上に才能が不足していたと評価される。彼の立ち居振る舞いは疑いもなく穏当で謙虚であり、気質は幾分優しかった。彼は寛大な夫にして父親であると見なされ、ナポレオンに対してはずっと誠実な兄であった。しかし彼は強欲かつ放蕩であり、略奪者かつ道楽者でもあった。しかしながら、ナポレオンがセント・ヘレナに追放されるまで、彼は哲学的見地を有し、豊かな知識の持ち主と評されていた。1799年、『ムワナ』と題された短編小説を出版し、その15年後その第2版を世に出しているが、我々は最も熱狂的なボナパルティストを含めそれを賞賛しているのを見聞きしていないことから、彼らにとっても誇りとするに値しない出来と考えられる。彼の人物像を一文でまとめるならば、高尚な精神も威厳も雅量も持たない、柔弱で享楽的な大人しい人物だったと言えるだろう。

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