2017年5月11日木曜日

1-16-a ジャン=バティスト・ド・シャンパニィ

シャンパニィ
ジャン=バティスト・ド・シャンパニィの公人としての人生は、事実、その主とほぼ同一であり、従って我々が彼個人について知りうる内容はとても簡潔である。

彼はルアンヌ出身で、その地に1756年に出生した。彼の家系はフランス人が呼ぶところの貴族に属しており、それ故、世襲の財産によるか、もしくは聖職者か軍人のいずれかの職業に就くことで、生計を立てるのが必定とされた。当初、彼は海軍を選び、1789年にフォレの貴族階級が彼を三部会の貴族院代表とするまで軍属であり続けた。しかし、革命政府期には人目をひく事は無かった。1793年、彼は追放者リストに名があるという理由で投獄されたが、政変によって自由を取り戻す。それ以降彼は公務から身を退いた。もしくは統領政府が確立するまで公務に戻るのは安全ではないと判断をした。


外交官としてのキャリアはシャンパニィの才能と性質に唯一合致しており、彼はすぐさまウィーン大使として赴任した。この時(1810年)から1814年の退位に至るまで、彼は皇帝の指図を完遂する目的に常に用いられた。彼以上に忠実かつ実直な臣下を有した主君は他にいないであろう。内務大臣であった1804年から1807年にかけ、彼は帝国の破壊的な戦争が必要とする徴兵を熱心に推し進め、また、この独裁者の極めて不評な施策を躊躇うことなく執行させた。外務大臣であった際(1807年から1811年)には、大陸封鎖令の施行を徹底的に支援した。だが大抵の場合、彼の私生活における行状は、彼を絞首台送りするに足るものであった。不実、不公平、横領、これらの言葉が意味する最悪の要素が彼の行為を特徴づけており、更に言えば、彼はそれらを執行する手先と成り果てていた。彼が示したあらゆる献身にも関わらず、1811年に外務大臣を更迭させられ、彼は帝国領土内の管理を任されるようになった。もし彼が権力を失った事を惜しんだとしても、カドーレ公爵の称号と築いた富を手にしながら、儲けをもたらす新しい役職によって己を慰めることができたはずだ。


皇帝が退位した時、彼は新しい体制へ忠誠を誓い、ルイによって貴族に列せられた。しかしながら、このように臣下として無節操な経歴の持ち主であった為、立派な政府からの厚遇を得る見込みは無いと判断した彼はナポレオンの復権を画策し、百日天下の際に再び帝国領土内の管理を任された。この為、彼はルイの2度目の復帰の際には貴族の称号を失うが、1819年には他の裏切り行為を働いた連中同様にその地位を取り戻す。

著しい害をもたらした政策の張本人との悪名をカドーレ公に帰する事が出来無いとしても、彼は十分なまでにそれを執行した。おそらく彼の能力は相当な物であろう。しかし彼には広い展望が欠けており、またもっぱら根深いまでの偽善に満ちていた。

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