2017年5月26日金曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(2)


イタリア副王 ウジェーヌ

数週間のうちに、彼はこの独裁者の意向に即座に服従した事への報酬の抵当のようなものを受け取った。じきに彼はそこから収益を得ると見込まれていた。彼はフランクフルト大公国における首席君主の継承者との宣言を受ける(1810年3月3日)。よしんば彼の期待がそれ以上の地位を望まなかったとしても、ヴェネツィアとフランクフルトの統治権—両方とも世襲されるーはこの上なく甚だしい野望を満足させるに十分だった。これらの領土によって彼は欧州で最も富める王侯となった。

ロシア遠征時
ロシア遠征では、副王は大陸軍の第4軍団を率い、極めて厳しい状況下でも優れた働きを見せる。ナポリ王[ジョアシャン・ミュラ]が突如大陸軍を離脱すると、彼にその指揮が押し付けられた。マグデブルクにて駐軍し、かつて巨大な軍勢だった物の方々に散らばった残骸を掻き集めると、皇帝が約束した補給を待った。連合国軍によって追撃された為、思い切って撃って出るが、完膚なきまでに打ち負かされる。しかしこの敗北はフランス軍の公告では微塵も言及されなかった。こうした文書のみならず、帝政下の国史に関したフランスの書物のほとんど全てに共通した欺瞞を上回るものは存在しなかった。戦勝は念入りに誇張されたが、逆の場合は注意深く隠匿されていた。のみならず、最も決定的な敗北さえもしばしば相当な成功へと置き換えられた。ルッツェンで彼はフランス軍の左翼を率いたが、オーストリア軍の攻撃を引き付けておくだろうと予想した皇帝によってイタリアへ送還される。

実のところ、鉄王冠を確保するには良い潮時であった。
ロンバルディアの鉄王冠
オーストリアのヒラー将軍がイリュリアに向けて進軍中だったのだ。8月、副王はフランス=イタリア軍とともに戦場に行く。それと同時に、全イタリアの民衆に向けて、彼が本気で述べるところの、「不統一の国家の上に長年君臨し続けた敵」に対して蜂起するよう布告を発した。しかし、民衆はその呼び出しに微塵もなびかなかった。たとえ彼らが外国の支配に屈せざるをえないとしても、実のところ、そうなるのは不可避だと彼らは身に沁みて学んでおり、また彼ら自身の度胸の無さ、そして団結力の欠如はおそらく未来永劫変わらないので、オーストリアの穏やかな統治の方が、コルシカ人がかける鉄の軛よりもずっと好まれたのだった。ヒラーは前進し、何度か小競り合いが発生したが、決め手となる物はなんら行われなかった。対峙し合うふたつの軍勢は互いに単なるにらめっこをしたがっているようで、時たま大したことない行動をしてみせていた。両方ともこの戦役の決着はここではない場所でつき、よって彼らの奮戦がその運命に多少も影響しないことを良く分かっていた。しかしオーストリア政府はこの将軍が遅々として前に進まないのを不満とする。彼はベルガルデ元帥に取って代わられた。これはウジェーヌにとってまだ最悪な出来事では無かった。イタリア軍はかなりの人数が脱走しはじめていた。そして、それまで中立を装っていたミュラが公然と連合側に付くと宣言したのだった。危険を察した副王はミンチョに後退すると、強固に防御を固める。だが、物事の様相が脅威に満ちていたにも関わらず、敵二人からの本気の攻撃を怖れる必要性は生じなかった。片方はフランスへの敵意ではなく、ただ単に新たな友軍の味方であると示す目的で戦場に赴いており、もう片方は自国の軍隊がパリの門にたどり着いていることを察知して、前者に倣ってほとんど何もしないでいた。こうした暗黙の停戦期間中には、それぞれの陣営の指揮官の間で時たま親善の挨拶が交わされることもあった。ベルガルデは敵の宮殿を訪問し、副王の生まれたばかりの子供を洗礼の水盤から引き上げる役を務めた。ウジェーヌはこの格別な客を可能な限り慇懃に遇している。両者とも西方で起きている重大な出来事の行く末をハラハラしながら見守っていた。

ミンチョ川の戦い(1814年)

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