2017年5月18日木曜日

1-32-a ジャン=バティスト・ジュールダン


ジャン=バティスト・ジュールダンは1762年4月29日に、リモージュに出生する。16の歳に軍隊に入隊するとアメリカ独立戦争に従軍した。フランスに帰還すると、中尉の将校任命辞令を受け、1790年には地元の国民衛兵の猟兵大佐となった。その翌年、彼は大隊の隊長としてデュムーリエの指揮する北方軍に派遣された。

この時以降、1797年まで、彼はベルギーやドイツ方面の戦線に絶える事なく従事し、連合国軍との重要な戦いのほとんどに参加した。以降の彼の昇進は急速で、1793年には将軍まで昇進を果たし、サンブル・エ・ムーズ軍の司令官として、いくつかの成功を収めた。彼は数多くの砦を攻落し、たびたびオーストリアの軍団を打ち負かした。だが、ラティスボン[現在のレーゲンスブルク]近傍にてカール大公に翻弄され、ライン川まで手ひどい潰走を強いられた。

続く2年間、ジュールダンは総裁政府から召還され、五百人会の議員となった。しかし1799年、彼は再びかのオーストリア大公と矛を交えに向かう。シュワーベンで対峙したが、2度目の敗戦を喫し撤退を強いられ、マッセナと交代させられた。
帝国元帥 ジュールダン

ブリュメール18日の政変時、ジュールダンはボナパルトに荷担しなかった。よって彼は五百人会から除外され、更には政府からも追放された。けれども、彼には幾ばくの軍事的名声が無いわけではないので、ゆくゆく恩典のようなものを受けるようになる。1800年、彼はピエモンテ軍の司令官となり、1802年には国務院の議員となった。翌年にはイタリア方面軍の司令官となる。そして1804年の記念すべき年に、元帥に任命された。しかし、オーストリアとの戦争が勃発した時(1805年)、再びマッセナに取って代わられた。彼はこの不面目な仕打ちに不平を言ったが、効果は無かった。1806年にジョゼフ・ボナパルトの下でナポリを統治した。そして1806年、ジョゼフに伴って副将としてスペインに同行した。

ジュールダンは他のフランス軍の将帥の誰よりも頻繁に敵から叩きのめされたと言われる。あだ名の『かな床』は彼の不成功を十分に表現している。彼は置かれた状況が彼の身に余ると即座に判断した。彼とジョゼフは相互に文句を言い合った。意欲を失い、うんざりさせられた彼は1809年の終わりに辞任を求め、受理された。

ロシア遠征が決定された時、この元帥は嫌々ながらもスペインに無理やり戻され、マドリードからの無残な撤退を指揮し、しまいにはヴィットリアの戦いにて大敗北を喫した。この決定的な敗北は彼のこれまでの戦績を曇らせてしまった。この戦場から撤退する際に、彼は元帥杖を取り落とし、それを見つけた英国兵によって晒し物にされてしまう。ジュールダンはパリに帰着するまで気が休まることがなかった。パリにて彼は主君の没落を静かに観察し、その退位の後、ルイから軍隊の指揮権を与えられる。

 ボナパルトがエルバ島から帰還すると、ジュールダンは田舎に引きこもった。彼はしばらくの間どの進路を取るべきか決められなかったが、最終的に貴族院の議員となる旨同意した。戦場での失態ぶりは周知の事だったので、ワーテルローでは用いられなかったが、ブザンソンの統治を任された。ナポレオンの2度目の退位の後、彼はルイの復権を誰よりも先に受け入れた。1817年に第7師団を任され、翌年には一新された貴族制の一員に加えられた。

「ジュールダンはまずい指揮官だった」とナポレオンはセント・ヘレナにて述べている。また「彼は愚かだ」とも付け加えた。しかし彼の心は頭脳より優れていた。1800年の彼のピエモンテ統治はとても穏当だったので、その16年後、サルディーニャ国王はダイアモンドで煌びやかに装飾された彼の肖像画を送っている。

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