2017年5月8日月曜日

1-15-b アルマン・オーギュスティン・ルイ・ド・コーランクール(1832年版)

コーランクール

アルマン・オーギュスティーヌ・ルイ・ド・コーランクールは1773年12月9日にピカルディのランに程近い先祖伝来の地コーランクールにて、その地の侯爵の息子として出生し、15の年に軍務に就く。1792年、彼は未だに大佐であったが、投獄されてしまう。その理由だが、おそらく民主主義者たちにとって気に触ることをしでかしたのだろう。彼は単なる擲弾兵まで降格するという条件で解放された。そのまま3年過ごしたところで、オッシュ将軍のとりなしを得て、元の階級に復帰した。イタリア方面とドイツ方面にて2、3の戦役に従軍し、その過程で幾つか重傷を負いつつ、竜騎兵まで昇進し、その後ボナパルトの副官となった。

人を選ぶ時はいつも誰よりも優れた洞察力で持って、自分に良く仕えてくれる人物を即座に発見できると公言しているナポレオンが、コーランクールの外交面の才能を見出すのに長くはかからなかった。よって、アレクサンドル1世の即位に伴い、名目上は新しい皇帝の即位にあたり祝辞を述べる為にサンクト・ペテルブルクに派遣されたが、実際の目的はロシア宮廷へのイギリスの影響を弱める為だった。この任務を端緒として、ボナパルトは評価と信頼と共に彼を遇するようになる。

1804年、彼は中将、馬事総監、そしてレジオン・ド・ヌール大十字勲章を授けられ、それからしばらくしてヴィチェンツァ公に叙爵された。これらの栄典は彼が躊躇いなくバーデン大公国の領土を侵害し、アンギャン公の逮捕をもたらした事への見返りだと噂された。彼の友人達は、確かにタレーランから彼に公爵逮捕の命令書は通達されていたが、実際に執行したのはオルドゥネ将軍だと主張した。その時コーランクールはオッフェンベルクにてライシュ男爵夫人の逮捕に携わっており、また次にあるアレクサンドル帝の手紙は本件に関しての皇帝の意見を明らかにしている。「将軍よ、私はドイツにいる使節からの情報を元に、あなたが言及してるこの痛ましい処置について、あなたが無関係であったことを承知している。そしてあなたが私に提示した文書によって、この確信はいっそう強固なものとなった。私は喜んでこう告げると共に、あなたへの私の評価を保証したい」。領土を侵略されたバーデン大公がアレクサンドルの義父にあたり、アンギャン公の殺人がフランスとロシアの間の不和を引き起こした結果を考慮すれば、この証言はより揺るぎない物と捉える事ができよう。

1807年、コーランクールはロシア宮廷への大使に任命され、彼自身の心からの懇願によって辞任するまで4年間その任務にあたった。おそらく彼は前途に暗雲が垂れ込めているのを見越しており、自身の義務を裏切るか、もしくはアレクサンドルからの目覚ましい心遣いに対して喜んで追従するかの板挟みの境遇に身を置くのを望まなかったのだろう。1812年、彼はナポレオンの破滅的なロシア遠征に随行する。一説では、彼はこの遠征に反対していたと言われ、また兄を失う不幸に見舞われた。モスクワの炎上の後、皇帝は彼をスマルホニからの逃亡の道連れに選び、匿名で移動をするため彼の称号を騙った。だが両者の容姿は全くもって異なっており、ヴィチェンツァ公は背が高く、骨ばった、いかめしい見た目をしていた。14昼夜、彼らは二人してソリもしくは馬車に乗って旅を続けた。おそらく、主君と臣下がこんなにも長い時間を共に過ごした事はなかっただろう、かくも尋常ならざる状況下にて!

ヴィチェンツァ公以上に確実かつ有益な真実をナポレオンの耳に入れる人物はいなかった。彼はしばしば皇帝に対し、流血をもたらす支配体制を放棄しない限り、いつか彼はフランス人民から見捨てられ、外国の勢力によって玉座から追いやられる事になると諫言をした。ただ、彼は皇帝の絶頂時には批評者であったが、逆境時には友となった。

ナポレオンの運勢が傾いた時期、コーランクールはシャティオンに集う連合国の全権大使たちを相手に和平交渉役を務めた。そこにて彼は単身で欧州の勝者たちの団結した外交術に対抗を試みた。そして、彼の個人的意見の有益性を論じなくとも、その書き手への尊敬の感情抜きに彼の書簡を閲読するのは不可能である。ある目撃者はこう述べた。「私はコーランクールに公平な評価を下さねばならない。まるで彼一人が頼みの綱であるかのように、彼は日に日に苦境の度合いを増している皇帝の為に、和平を獲得しようと切望していた」。ナポレオンの退位にあたり、皇帝個人の代理人として連合国君主の元へ向かい、パリ条約の交渉の任についた。タレーランは彼が旧主を見捨てるように仕向けることができれば、彼を臨時政府の一員に加えていただろうが、「しかし、交渉が上手く行った後、コーランクールは信念を曲げようとしなかった」。アルトワ伯爵が亡命から帰還した際、コーランクールはテュイルリー宮殿に姿を現した。彼の存在に気づいた伯爵は、「コーランクール殿、貴殿は最も怖しい犯罪の従犯者との汚名に塗れている。貴殿は自己正当化できるかも知れんが、それまでは私は貴殿を歓迎するつもりは無い」と告げた。コーランクールはすぐさまロシア皇帝の元へ向かうと、起きた出来事を知らせた。ロシア皇帝はこう返答をした。「案ずることなかれ。私があなたの為に一肌脱ぐとしよう」。こうして彼はアルトワ伯爵を晩餐に招待すると、自身の右側に伯爵を配し、更にその右隣にコーランクールを座らせた。

1815年のナポレオンのエルバ島からの帰還について、彼は内々に関知する立場だったと一般に見なされており、テュイルリーにて皇帝に喝采をあげる最初の一人となった。百日天下の間、彼は躊躇いがちではあったが外務大臣を拝命し、外交関係を構築する為に払ったあらゆる努力が無益となったことを痛感させられた。ブルボンの2度目の復帰にあたっては、彼は7月24日の追放者リストに名を連ねたが、強力な友人が彼の為にフランス滞在許可を獲得してくれた。彼は直ちにエーヌ県の彼の領地に隠退すると、以降農業に時間を費やして暮らしている。

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