2017年5月30日火曜日

ウジェーヌ 補記

ウジェーヌ・ド・ボアルネ

ウジェーヌの章であるが、初版からは上昇志向はやたら強いものの、ナポレオンの継子であることから、周囲のお膳立によって一人前にやれている残念な人物との印象を受けるが、改訂版では、その辺りフォローがされている。ロシアからの地獄のような撤退戦を懸命に指揮したことをより詳細に描写されており、またナポレオンの退位まで、断固としてオーストリアの進軍を妨げたとして賞賛されている。人柄についても、寛大で、飾り気が無く、義理堅く、気立てがよいとの同時代人の評価を紹介している。後年の優等生的なイメージにより近くなっているのかもしれない。

ウジェーヌはナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの連れ子として、継父ナポレオンから大いに引き立てられる。1804年の帝政の幕開けに伴い、正式に王朝の一員とされ、次いで1806年にナポレオンの養子となる。ただし本書で述べられるようなフランス帝国の後継者としての立場だが、他にもナポレオンの兄ジョゼフや弟ルイの息子なども名を取りざたされており、実際の優先順位は流動的だったと思われる。ジョゼフィーヌの離婚の後、フランクフルト大公の継承権を授与されたが、これは彼が皇統から除外された事を公布するものだと理解されている。

1813年から1814年かけての北イタリア戦役での彼の戦いぶりは、ナポレオンへの忠誠もしくはイタリア王位を確保したいという思いのいずれが動機か色々な見方ができるだろうが、後者に関してはナポレオンはさほど配慮する気はなかったようである。1814年のパリ条約では、ウジェーヌは「フランス国外に相応しい地位を付与される」と簡単に規定するのみで、ナポレオンは彼のイタリア王位継承について保証をしていない。

公式には皇統から外されたが、ナポレオンの退位の後、実子のローマ王と並んで継承者候補に推されたことは、フランス国内外で彼を支持する向きがあったことを示す。また百日天下後の2度目の退位の後も、フーシェらによって擁立を画策されたと伝えられる。実子と競合する継子、そうした視点で、帝国が傾いていく時期の彼の動静をナポレオンとの関係をからめて眺めても面白いのかもしれない。

帝国崩壊後、2,000万フラン以上の価値のあるイタリアの領土は失ったが、ウィーン会議にてウジェーヌはバイエルン王国のロイヒテンベルク公およびアイヒシュテット公の称号を認められる。またロイヒテンベルク公家は、バイエルン王家嫡流が絶えた際に王位請求権を有する旨宣言を受け、ボナパルト家であるよりもバイエルン王家の分流として名実共に列強から認可される。以降、彼の子女は婚姻によって欧州の君主諸侯と一層融和していくのである。

ナポレオンはその遺書でウジェーヌに、モントロン(セント・ヘレナの随行員の一人)に20万フランを譲渡するよう指示したが、ウジェーヌはそれを拒んだため、モントロンから起訴された。ウジェーヌの死後もモントロンは遺族に対し1850年代まで支払いを請求し続けた。

本書ではリンダウとあるが、実際はミュンヘンにて1825年2月21日に没する。

ロイヒテンベルク宮殿(ミュンヘン)
ウジェーヌと家族の居城として1821年に完成。
建設費は1819年のバイエルン王国の建設用予算
総額にあたり、建造当時のミュンヘンで最大級
の宮殿だった。内部のロイヒテンベルク・ギャ
ラリーには、公家累代の芸術作品が所蔵されて
いる。

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