2017年5月28日日曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(1)



ウジェーヌの父、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵は、西インド諸島のマルティニーク生まれだった。彼はまだ若いうちから共和主義に深く傾倒し、北米の独立戦争に身を投じた。その戦争が成功のうちに終結したことが引き起こした興奮は欧州を駆け巡り、彼はフランスにおいても同じ事が出来ないはずは無いとの望みを抱くようになった。彼の若い妻ジョゼフィーヌと共に先祖の土地へ帰還すると、1789年にブロワ貴族によって三部会の代表とされた。その後、国民公会の一員となる。革命の大義に示した熱意によって、彼は2度に渡って国民公会の議長に選ばれ、ついには重要なライン方面軍の指揮権を委ねられた。しかし、パリの民主主義者らが貴族出身の将校を罷免、さらには追放させる法令を通過させたため、彼は任務を強制的に解かれ、国外退去を命じられた。
監獄のボアルネ子爵と家族

妙にのぼせ上がった彼はその命令に従わず、兄のボアルネ侯爵の地所に引退した。もし彼が、自分が潔白だと思う以上に、自由という大義に向けた己の努力が、邪魔者から政府当局の怪物たちまで、あらゆる者を狩りたてる血に飢えた猟犬から身を守ってくれると期待したのならば、彼は直ちに哀れなまでに現実に気づかされる。彼は逮捕され、投獄されると、彼を裁く者たちにとってさえ取るに足らないような罪状で有罪とされ、1794年7月23日、ギロチン刑に処された。

彼の息子ウジェーヌは1780年9月3日にブリュターニュ地方にて出生し、そして14歳の時、父の死に直面した。未亡人となった彼の母がボナパルトと結婚すると(1796年)、かの将軍の幕僚としてイタリアやエジプトに伴い、将軍の運勢が上昇するとその分け前を得るようになった。若くして統領の近衛旅団の指揮を委ねられ、マレンゴの戦いでは何度か目覚ましい働きをした。彼の継父が権勢の頂点に到達したことは、彼の野心にとってさらに好都合だった。彼は帝国の皇子とされ、大法官の任命を受け、そして1805年の6月、北イタリアの副王位に据えられる。

ウジェーヌ

ウジェーヌはそれでもまだ繁栄の絶頂には至っていなかった。1806年が明けると、ナポレオンの養子と公表され、ナポレオンによってバイエルン国王の娘のアウガスタ・アメリアと縁組された。同年ヴェネツィアがイタリア王国に併合されると、数か月後にヴェネツィア公に叙爵され、ロンバルディアの鉄王冠の継承者との宣言を受ける。
バイエルン王女との婚礼
子のいない皇帝の養継子にして国王の義理の息子、そして立派な領土の正式な継承者である彼は、自身の光輝溢れる運命に心から満足したことだろう。そして、あたかも希望と幸福以外の未来は想定できないと安心しきっていた。彼はこの素晴らしき地位がどれほど不安定な地盤の上に組み上がっているか気づくにはあまりに若すぎた。他の者たち同様、彼は皇帝を無敵で、更には、たとえフランスのでなくとも、少なくともイタリア王位継承者の地位は確実と信じていた。彼は自分の母親が、実の世継ぎを諸国の支配者としたい夫によって離婚を画策されている事さえ知る由もなかった。

1809年、フランツ皇帝によって新たに戦端の火蓋が切られ、ヨハン大公が指揮するオーストリア軍がイタリアに侵入すると、副王は危険な状況に置かれた。6万以下の兵力しかない彼はあえて危険を冒そうとしなかった。相当な被害を受けつつヴェローナまで撤退したが、塹壕で囲まれたカルディエロで地歩を固める事で、敵軍の猛攻に対抗できるようになった。しかしながら、ふたつの出来事によって安全が確保されなければ、彼は降伏を余儀なくされただろう。そのひとつはマクドナル将軍が軍の作戦を指揮するために到着したこと、もうひとつはフランス軍のウィーン入城である。それまで優勢だったオーストリア軍にこの情報がもたらせるや否や、意気消沈した彼らは戦闘の継続は無理と判断して撤退を開始し、逆に追われる身となった。マクドナルはトリエステを押さえ、ウジェーヌはクラーゲンフルトを占領した。ウジェーヌがオーストリア領内を進軍している時、偶然にもヨハン大公と合流しようと八千の兵と共にレオーベンに向かっているイェラチッチ将軍と遭遇した。副王はこの小さな集団を攻撃すると、たやすく勝利を収めた。彼は行軍を続けたが、優勢の敵軍からの襲撃を懸念する必要はなかった。不安にかられたナポレオンは、彼を探すためにローリストンを派遣した。5月26日に両者は出会うと、副王はボナパルトの司令部があるエベルスドルフへ向かい、そこにて多いに満足の意を受けた。皇帝は彼の軍事的才能を激賞し、彼がこの戦役にて偉大な指揮官の資質を存分に発揮したと明言した—が、これはその対象には過度な評価であった。

ラーブの戦い(1809年)

彼はすぐさまオーストリアの皇子たちの招集軍隊を追い散らすためにハンガリーに送られた。あたかも運勢が彼の継父に2度目の賞賛の機会を与えようとしたかのように、6月14日、彼はラーブにてヨハン大公を相手に重要な勝利を収めた。しかしながら忘れてはならないのは、彼はより優れた将軍たちに補佐されており、兵力もかなり優勢で、彼が指揮していた兵員のほとんどはベテランのフランス兵だった。あまりの偶然のため述べておくが、この戦いの間、彼はおよそ1世紀半前にモンテクッコリがトルコを破った場所と同じ地にいた。この善戦が繰り広げられた場所より、彼は勝者として皇帝の元へ帰還した。皇帝から彼に浴びせられた賛辞はヴァグラムでの彼の勇敢な戦いぶりによって更に増大した。

ジョゼフィーヌの離婚
しかし、この勝利を収めた戦役が幕を閉じる頃、ウジェーヌが長いこと楽しみに思い描いていたおとぎ話がぶちこわしになる。パリに召喚された彼は、オーストリアの皇女が彼の母に成り代わって皇后の位に据えられるとの屈辱的な情報を知らされる。この状況はふたつの面で痛ましかった。この縁組は彼が愛着を感じていた両親の幸福を永遠に破壊し、そして彼自身の壮大な望みを消滅させた。しかし、彼はどのような異議も通らないと理解すると、ジョゼフィーヌに倣って服従を決めた。ウジェーヌは彼の家族の繁栄はひとえにナポレオンひとりに懸かっており、おそらく不当な仕打ちをすることなく、かつて気前良く授けてくれた寵愛の幾ばくかを再びもたらしてくれるのではと思い直した。そのうえ彼は、この途方もない帝国の領域、もしくはフランスの意のままに支配者を受け入れる状況に置かれた多くの国々のいずれかの、独立した国家の統治者となる希望を引き続き抱くことができる立場に据え置かれた。

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