コーランクール |
アルマン・オーギュスティーヌ・ルイ・ド・コーランクールは1773年に先祖伝来の地コーランクールに出生した。
15の歳にコーランクールは軍務に就くが、目立った成功を収められなかった。1792年、彼は大佐であったが、投獄されてしまう。その理由だが、おそらく民主主義者たちにとって気に触ることをしでかしたのだろう。彼は単なる擲弾兵まで降格するという条件で解放された。そのまま3年過ごしたところで、オッシュ将軍のとりなしを得て、元の階級に復帰した。だが、彼の軍事的才能はその職位に追いついていなかった。実際にイタリア方面とドイツ方面で従軍し、受けた傷も一つではすまないが、10年間実戦経験を得たにも関わらず、大佐以上に昇進できなかった。当時一般的に軍人たちは3年から4年程で師団を率いるようになるが、彼のこのような遅い昇進は、彼の持つ勇気が他の軍事的資質と等しいと想定された事によってのみ説明がつく。彼の卑屈かつ狡猾な精神は媚びへつらった廷臣の役割もしくは策を弄して人を出し抜く外交官により適していた。後者の役割に関してボナパルトは即座にその資質を見抜き、気を配って彼を採用した。彼の最初の任務として、サンクト・ペテルブルクに帝位を継承したアレクサンドル1世にうわべの敬意を表しに行ったが、実際はロシア宮廷へのイギリスの影響を排除するのが目的で、彼は熱心かつ悪辣に、そしてしばしば彼の主君の意図を上手いこと遂行した。
ナポレオンの意思に沿った奉職は、期待通りの報酬を彼にもたらした。1804年、彼は中将、馬事総監、そしてレジオン・ド・ヌール大十字勲章を授けられ、それからしばらくしてヴィチェンツァ公に叙爵された。これらの栄典は彼がバーデン大公国の中立を侵害し、アンギャン公を逮捕するという咎められるべき任務を快く引き受けた事への報酬だと噂された。友人たちは、彼は逮捕に手を下しておらず、非難はむしろオルドゥネ将軍とザヴァリーとの間で分けられると申し立てた。この3者が有罪な事に疑いは無く、とは言え、オルドゥネはコーランクールより、コーランクールはザヴァリーより罪の度合いが薄かった。
15の歳にコーランクールは軍務に就くが、目立った成功を収められなかった。1792年、彼は大佐であったが、投獄されてしまう。その理由だが、おそらく民主主義者たちにとって気に触ることをしでかしたのだろう。彼は単なる擲弾兵まで降格するという条件で解放された。そのまま3年過ごしたところで、オッシュ将軍のとりなしを得て、元の階級に復帰した。だが、彼の軍事的才能はその職位に追いついていなかった。実際にイタリア方面とドイツ方面で従軍し、受けた傷も一つではすまないが、10年間実戦経験を得たにも関わらず、大佐以上に昇進できなかった。当時一般的に軍人たちは3年から4年程で師団を率いるようになるが、彼のこのような遅い昇進は、彼の持つ勇気が他の軍事的資質と等しいと想定された事によってのみ説明がつく。彼の卑屈かつ狡猾な精神は媚びへつらった廷臣の役割もしくは策を弄して人を出し抜く外交官により適していた。後者の役割に関してボナパルトは即座にその資質を見抜き、気を配って彼を採用した。彼の最初の任務として、サンクト・ペテルブルクに帝位を継承したアレクサンドル1世にうわべの敬意を表しに行ったが、実際はロシア宮廷へのイギリスの影響を排除するのが目的で、彼は熱心かつ悪辣に、そしてしばしば彼の主君の意図を上手いこと遂行した。
ナポレオンの意思に沿った奉職は、期待通りの報酬を彼にもたらした。1804年、彼は中将、馬事総監、そしてレジオン・ド・ヌール大十字勲章を授けられ、それからしばらくしてヴィチェンツァ公に叙爵された。これらの栄典は彼がバーデン大公国の中立を侵害し、アンギャン公を逮捕するという咎められるべき任務を快く引き受けた事への報酬だと噂された。友人たちは、彼は逮捕に手を下しておらず、非難はむしろオルドゥネ将軍とザヴァリーとの間で分けられると申し立てた。この3者が有罪な事に疑いは無く、とは言え、オルドゥネはコーランクールより、コーランクールはザヴァリーより罪の度合いが薄かった。
ヴィチェンツァ公はロシアの宮廷にて大使というよりもスパイとして4年を過ごす。彼はナポレオンの狂気じみたモスクワ遠征に随行した。彼はこの遠征に反対したと言われるが信じるに値しない。なぜならば、スモレンスクで軍議が行われた際、ネイを始め経験豊富な将官たちが反対したにも関わらず、彼は更に進軍すべきだと意見をしたからだ。疑いもなく彼は皇帝を喜ばせるためにそう述べたのであり、彼は皇帝の物事を軽んじる傾向を常に上手いこと持て囃した。この独裁者にとって彼以上に浅ましく卑しい奴隷はいないので、スマルホニから惨めな逃亡を図る際に、この帝位についた脱走兵の道連れに選ばれた。
ナポレオンの運勢が傾き出すと、コーランクールは連合国との交渉役に任じられたが、彼の主君が束の間の勝利を収めると、連合国との約束していた事項を取り消す旨の指示を受ける事が頻繁あった。退位にあたって、連合国君主へのナポレオンの個人的な代理として状況の修復にあたり、確実に最後まで忠実に使えた。彼は1815年の旧主の帰還を内々に関知しており、テュイルリー宮殿で彼に喝采をあげた最初の一人となる。この変節行為によって彼は7月24日の追放者リストに名を連ねたが、強力な友人が彼の為にフランス滞在許可を獲得してくれたおかげで、それ以降彼は農業に時間を費やして暮らしている。
熟練の元帥たちはコーランクールを軍人の資質がないと軽蔑し、皇帝に追従して悪意と偏見を吹き込んでいるとの理由で彼を憎悪した。恐ろしいことに、彼は党派や専門が何であれ、それらに対する尊敬の念がなかった。彼は主君を喜ばせるためならば、良きにせよ悪しきにせよ、どんな目的でも着実に遂行した。しかしながら、彼が独裁者の意思に反対した過去があり、それはあまりに例外的な出来事だったので看過されなかった。ある日、皇帝がコンピエーニュに向かっている時、移動の遅さに苛立って馬車の窓から顔を出すと、大きな声で御者たちにもっと迅速に前に進めと号令した。コーランクールはそれを聞いていたが、同時に御者たちに速度を維持するよう命じ、もしそうしないとクビにするぞと断言した。御者たちは帝国の主よりも馬事総監に従った。コンピエーニュに到着するとナポレオンは旅がノロノロとしていた事に文句を言った。「陛下、」コーランクールは冷淡に返答する。「御厩を援助する資金を私にお与え下さい。さすればお好きなだけ御馬を殺す事ができるでしょう」。この問題は即座に落着した。
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