2017年5月5日金曜日

1-01-b ボナパルト一族

 ボナパルトの一族はイタリア・トスカーナ地方に起源を持つ。中世にはフィレンツェ、ボローニャ、サルザーナやトレヴィソなどの共和国議員やローマ教皇庁の高位聖職者を家系から輩出した。一族はメディチ家、オルシーニ家、ロメリー二家とも繋がりをもった。彼らの中には国家の政務に従事する者もいれば、ルネサンス期に文化活動に携わる者もいた。ピコロ・ボナパルトはその時代において最初期の喜劇である『未亡人』の作家である。その初稿はパリの国立図書館に収められており、マツケリー[Mazzuchelli]著作の伝記にて著名なイタリアの作家のひとりとして光栄にも言及されている。あるボナパルト家の者はピサ大学に後に有名になる法学課程を導入した。またパリ国立図書館には『1527年のブルボン公シャルル3世によるローマ略奪』と題された著作が収めらており、それはその事件の目撃者でもあるジャコポ・ボナパルトの手による。

ナポレオンが1796年にフランス軍総指揮官としてボローニャに入城した際、評議会の命令で訪ねて来たマラスカルチ伯、カパラ伯、アルディニ伯らはボナパルト家の名前と紋章が刻まれた黄金の本を見せた。更にはアルコラ戦の後、トレヴィソの主だった住民たちがやって来てナポレオンの先祖がかつて市の第一人者であった事を示す証明書を差し出している。また、未だにフィレンツェの幾つかの家には、石に刻まれたボナパルト家の家紋が残っている。

サン・ミニアートの街

 この一族は、その他の多くの家門と同様に、イタリアの諸都市を荒廃させた数多の革命によって深刻な被害を被った。内戦期、神聖ローマ皇帝派に属しており、従って教皇派から追われる形で、ボナパルト家の分家のひとつがトスカーナからサルザーナへ、その後コルシカのアジャクシオへと逃れてその地に定着した。その後継はなべてその島土着の貴族層に取り込まれ、その貴族としての特権を享受した。しかしボナパルト一族間の交流は途絶えることはなかった。彼らの子孫はサン・ミニアートに住まう分家と絶えず連絡を取り合い、子弟をピサで教育受けさせるにあたって同族の者にその世話を託していた。

ナポレオンの第1次イタリア遠征の頃には、イタリアにおけるボナパルト一族はサン・ミニアートの司教座聖堂参事会の大修道院長フィリッペ・ボナパルトのみになっていた。彼は大いに尊敬され、かつ少なからぬ財産を有する老人であった。ナポレオンはレグホーンへ向かう行軍の途中で、このトスカーナに残された一族最後の係累に会うことに多大な関心を寄せ、サン・ミニアートに立ち寄りこの親類の家にて部下共々もてなしを受けた。夕食時の主な会話は、一族出身で一世紀前に列福されたカプチン会修道士のボナヴェントゥラ師についてだった。そこで大修道院長は、費用が多大なため達成できていない列聖を斡旋してもらえるようナポレオンに心から請願した。翌日、この善良な老人が一族について興味深い話をしてくれたお礼として、ナポレオンは自分の裁量にあった聖ステファン十字勲章を贈呈した。この後、時を置かず大修道院長は死去し、ナポレオンに全ての財産を遺贈した。ナポレオンはそれをトスカーナの公的な慈善事業のひとつに充てた。

ナポレオンの曽祖父にはジョセフ、ナポレオンそしてリュシアンという名の3人の息子がいた。長男のジョセフにはシャルルと名付けられた息子が一人いた。次男のナポレオンにはエリザベスという娘が一人いて、この娘はオルナーノ家の当主と縁づいた。三男のリュシアンは僧侶で1791年に80才でこの世を去っている。彼はコルシカ島にて尊崇の対象であったアジャクシオ聖堂参事会の助祭長を務めていた。パオリの反乱期に大いにかき乱された家族内の秩序を立て直したのはこの人物の分別と経綸による。彼は尊敬の対象であり、この地方の権威的な存在であった。農民たちは自発的に揉め事の解決を彼に託していた。

アジャクシオのボナパルトの一族の家

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