2017年5月25日木曜日

1-29-a ウジェーヌ・ド・ボアルネ(3)

ウジェーヌ

パリ降伏の報がもたらされると、副王はこれ以上の抵抗を望まなかった。それまで有していた権力の支柱は彼の足元から取り外され、イタリアの王冠を継承する望みは崩れ去った。それでも副王は依然として、たとえ国王の高位は無理としても、副王位もしくは少なくともヴェネツイア公爵位を連合国の君主らに認可してもらえるのではと期待した。実際、彼が請求権を有すると思っている物を手にいれる為に、公使を派遣してそれが議会の意向であると喧伝しようとし、欧州の調停者ら対し、そう主張する文書へ署名するよう将校達に指示した。しかし、議会、軍隊ないし民衆から多大な好意を得ていると思い込んでたとしたら、彼は直ちに現実に気づかされる。彼はその三者全てから嘲弄され、憎悪されていた。嘲弄、それはフランスの支配者の傀儡であったせいであり、憎悪は彼があの独裁者の命令を執行した際のやり方と、土地の住民らに向け頻繁にとった侮蔑的な態度のせいである。彼が己の地位を確保する陰謀に着手しているとの疑惑は暴動を引き起こし、その渦中で彼の大臣のプリナは虐殺され、また彼の考えに同調していると思われた数名の議員達は呪詛と脅迫の対象となった。まっとうな反応であるが、彼は自分の命が部下のそれ以上に尊ばれていないだろうと恐れおののいた。そしてかねてより集めていた最も大事な貴重品をマントゥアにて回収し、彼の首都[ミラノ]を夜間のうちに抜け出して、バイエルンの宮廷を目指して逃亡しようと決意する。しかし彼の目論見は人に漏れたか、少なくとも疑いを持たれた。軍隊への莫大な金額が未払いのままになっており、軍人達は代表数名を遣わしてその金を請求した。フランス軍の擲弾兵からなる代表団は、彼の心情に微塵も配慮すること無く与えられた任務を遂行した。実際のところ、彼は国家の負債のために支出されるべき金を国庫から盗み取っており、敬意を払うに値しなかった。軍人達は彼を「ムッシュー」と呼び、大声で即座に金を支払うよう主張した。彼らの不遜な態度を罰しようにも状況がそれを許さなかった。彼が長年統治を任されたこの街のただ中で、捕縛されかねなかったのだ。彼は軍人達に彼らが自由に使える金を手一杯振舞うと出立した。もはや一刻の予断も許されなかった。家族および選ばれた随行員を伴って、彼は内密にマントゥアに急行すると、彼の財宝を確保した。

ミラノ民衆による大臣プリナの虐殺(1814年)

ミュンヘンに向かうには、皇子はチロルを横切る必要があったのだが、ローヴェレドに差し掛かった時に思いもよらぬ難局に出くわす。そこの司令官であるオーストリア人の大佐から、「皇妃はチロルを何も心配すること無く通過できるが、皇子は命の危険なしに大ぴらにそう出来ないだろう」との脅しを受ける。チロル人は数年前に彼らが最も崇敬する同郷人[アンドレアス・ホーファーと思われる]をウジェーヌがスパイとして逮捕の末に銃殺したことを記憶しており、よって血を血で贖わせる気概にいやというほど満ちていた。状況はのっぴきならなかった。ミラノに戻れば、彼が給金を掠め取った軍人と、抑圧してきた民衆の憤怒に身を晒すことになるからだ。オーストリア人司令官は彼に制服、馬車、記章そして従者を提供し、この窮地から救い出した。司令官は、この国を全速力で通過すること、そして何よりもフランス語を決して口にしないよう迫った。ウジェーヌはこの親切な助言に従い、無事ミュンヘンにたどり着いた。

アンドレアス・ホーファー
(フランスの支配に抵抗した
チロル人リーダー)

皇子がミュンヘンに着くや否や、母が死去したためにパリに呼び戻される。ルイ18世は彼を良く遇し、本来のボアルネ将軍ではなく、「皇子」と呼びかけた。会議にて寛大な処置を懇願するため、彼はパリからウィーンへ足を向けた。そこにて彼が君主諸侯から受けたもてなしは、彼の懇願がおそらく完全に失敗したわけで無いと立証し、且つ、彼が今まさにエルバ島から大陸に戻ったナポレオンに、セント・ヘレナに身柄を移送させようと連合国君主らが考えていると告げたとの深い疑惑が実は存在しないのではと思わせた。この疑惑—おそらく疑惑以上だろうーは、彼を新たなフランス貴族の一覧に入れたナポレオンによって確定される。もはや君主らの恩情は期待できないので、彼はまずバイロイトに、次いでミュンヘンへと身を退くと、事の成り行きを見守った。1816年4月、彼のより高みを目指そうとする夢が潰えた時、彼は家族と妹のオルタンスと一緒にコンスタンツ湖[独:ボーデン湖]の側のリンダウの街に住居を構え、1825年にそこで死去したとされる。

リンダウ、ドイツ・バイエルン州

ウジェーヌの才能は他よりも劣っていた。彼はもっぱら甚だしい虚栄心に満ちており、冷静沈着で堅実な判断を必要とする状況における慎重さが全くもって欠落していた。兵士としても勇気がかけており、将軍としてもフランス軍の中でほとんど最下位にいた。彼を最優秀の元帥たちと肩を並べさせようと望んだボナパルトの桁外れの賞賛は、何の驚きももたらさなかった。なぜならば、この尋常ならざる人物の判断は、偏見とえこひいきと気まぐれによって頻繁に歪む事が良く知られていたからだ。実際のところ、皇帝は自身の派手派手しい賞賛を反証するかのように、若き副王がオーストリア軍からの猛攻撃によって危険に晒されている時、必ず熟練した将軍をイタリアに派遣していた。

統治者としては、ウジェーヌはより好まれていた。しかしながら、彼は身の回りを、彼の名前をおそらく抑圧の道具として利用した貪欲かつ無節操な廷臣たちで固めていたので、民衆の不満の矛先となった。1813年から1814年の戦役中、彼はイタリアの臣民を臆病者と激しく非難して、許しがたいまでに彼らを立腹させた。確かに彼らは臆病者であったが、統治者である彼はそれを言ってはいけなかった。もし彼が賢ければ、憤慨させることなく、あらゆる手を使って彼らの勇気を奮い立たせただろう。こうして、ウジェーヌはあらゆる者からの憎悪の対象となった。その中には、ウィーン会議にて彼の鉄王冠の請求権を申し立てたることになっていた数名の議員さえ含まれていた。彼らは進んで憎しみを犠牲にしても利益を確保しようとしており、かくも弱々しい統治者の下では、彼らの権勢と強欲さはひたすら放埓となっていた。

ウジェーヌの娘のひとり、ロイヒテンベルク公女は現在ブラジル皇后になっている。もうひとりはスウェーデンの王位継承者オスカル・ベルナドットと結婚している。

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