2017年5月13日土曜日

シャンパニィ 補記

初版があまりに簡潔すぎた反省か、改訂版ではアメリカ独立戦争に参加した事、海軍を再組織した事、バイヨンヌ会談で手腕を発揮した事が追記されているが、全体的に評価も芳しくない上、情報量も少ない。
このまま放っておくのも何なので、ちょっと調べて経歴を補充してみた。ネタ元は、Encyclopædia Britannica(1911)とフランス版Wikipedia。

【シャンパニィ略歴】
• 1771年、パリ軍事学校を卒業した後、15歳で王立海軍に入隊し、1775年に士官になる。そしてアメリカ独立戦争等に従軍し、1782年のセインツ海戦では、クローヌ号の副指揮官として参戦し、重傷を負う。働きにより、聖ルイ勲章の「シュヴァリエ」を授けられる。

• 1775年には、フランス海洋アカデミーの会員に選出される。その後1787年に退役する。

• 1789年、フォレの貴族院代表として三部会に送られる。出自に関わらず、彼は第三身分と協働して憲法制定国民議会を支援し、海洋法の制定や海軍の再組織に尽力する。1791年9月に憲法が制定され議会が解散されると、彼は所領にて引退生活を送る。

• 1793年、恐怖政治下に貴族であることから嫌疑を受け投獄されるが、翌年のテルミドール政変によって解放される。以降、表舞台から引いて暮らす。

• 1799年、ブリュメールのクーデターで政権を握ったナポレオンによって、国務院議員に選出され、立法府にて「共和暦8年憲法」を追認する国民投票結果について熱弁をふるった。こうした事から、ナポレオンからの好意を得た。

• 1801年から1804年にかけ、ウィーン駐在大使として赴任。フランツ2世には、産まれた子供の名付け親になってもらったとの事。フランツ2世は「帝国代表者会議主要決議」が決定したドイツ諸国の再配置を受け入れたが、ウィーン政府にナポレオン帝政を認めさせることができなかった。そしてパリに召還される。

• 1804年、内務大臣に任じられ、以降3年間、行政管理の第一人者として用いられる。同年12月に帝国議会が開会された際、彼は立法府に対し、帝国の置かれた状況を下記の様に述べ、共和政から帝政へ転換する事への弁明を計った。
「世襲制の他に偉大な国家を救済する物は無いのだと最終的に判明した。議会は公衆の不安を生み出す器官以外に成り得なかった」。
彼は国内の公共事業を監督するほか、学術振興やエトワール凱旋門の建築にも携わった。また大陸軍を維持する徴兵を実施した。ナポレオンが彼をこの重職に任じたのは、勝手な行動を怖れる必要が無く、従順に指示された事を実行するからだと言われる。

• 1805年、レジオン・ド・ヌール勲章の「大鷲」を授けられ、1808年に帝国伯爵に、そして1809年にカドーレ公爵に叙された。

• 1807年、ナポレオンはタレーランの後任としてシャンパニィを外務大臣に任命。前任者より気弱で言う事を聞きやすい人物なので、選ばれたと言われる。外務大臣として、1808年の教皇領の接収、スペイン王カルロス4世の退位に采配を振るう。後者に関しては、スペイン王家の内紛を見て、手を下そうとするナポレオンに「あの国の政治に秩序を再度もたらし、崩壊に突き進むのを食い止めるには強硬な手段が必須です」と手紙を書いて駆り立てた。彼は大陸封鎖令を各国に施行させ、また1809年のシェーンブルンの和約とナポレオンとオーストリア皇女マリア・ルイーザとの縁組の調整も行った。

• 1811年、ナポレオンとの諍いにより、大臣職を更迭される。アレクサンドル一世と親しく仏露関係を重視するシャンパニィとナポレオンとの間に意見の不一致があったとされる。以降、実入りの良い閑職の帝国主計総監に回される。

• 1814年、皇后マリア・ルイーザの摂政政府の国務長官として共にブロワに向かった。ナポレオンが退位すると、皇后からフランツ1世にナポレオン2世を認可してもらう為の使者として送られるが無益に終わった。その後ブルボンに帰順し、貴族院議員と提督のポストを得る。

• 百日天下時には再びナポレオンについた為、ルイ18世から貴族の身分をはく奪される。彼はルイ18世に自分の行動を正当化する覚書を渡したという。

• 1819年に貴族の身分を回復し、議会では右派に属した。その後七月王政期においても死去するまで貴族院に中道右派として議席を有した。

• 1834年、パリにて死去。彼の3人の息子はそれぞれの分野で名を残している。完。

管理理能力に優れ温順だが、腰巾着的なところもあった感じか。本文で言及される横領などの腐敗行為について、具体的に述べている資料は未だ見つけられていない。

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