2017年6月2日金曜日

1-47-a ジャン=シャルル・ピシュグリュ(2)

ピシュグリュ

この将軍はギアナの砦の中で、8ヶ月に及ぶ過酷な日々を過ごした後、同じ7名の追放者らと共に脱獄に成功した。彼らは夜半過ぎに、他の衛兵たちが寝ているうちに、歩哨を一人捕まえると縛って猿轡を噛ませ、衛兵詰所にある武器を全て取り去った後、音も立てず砦を抜け出し、無事スリナムの首都パラマリボにたどり着いた。オランダ政府当局の好意によって、イギリスへ渡航する手段を得て、1798年の9月23日にディールに上陸した。その地からピシュグリュは急いでロンドンに向かうと、この首都で亡命生活を送っている数多くの王党派と合流した。彼ら王党派はこの時期ブルボン家の復権に向けて無数の謀略を練っていた。

1804年の1月、ピシュグリュはいよいよ決定打を撃つと心に決めて、イギリスのカッター船からフランスの沿岸に上陸した。そこにて彼はジョルジュ・カドゥーダル、モンガイヤールとジョヨーと会い、4名はパリへ急行する。ジョルジュの目論見は第一統領の暗殺であり、シュアヌリ[ふくろう党]の同志のいずれもこのような犯罪行為に対し微塵も躊躇していなかった。過激かつ容赦のない彼らは、このような一か八かの計画を実行するにあたり、正義感も同情心もかなぐり捨てていた。しかし、ピシュグリュ将軍がこのような忌まわしい強硬手段に関与する気があった可能性は乏しく、その証拠は無かった。

しかしながら、陰謀者らは既に連れの一人モンガイヤールに裏切られており、パリ到着後の彼らは厳重な監視の対象となった。警察はピシュグリュとモローとの少なくとも2度の面会を確実に関知しており、後者が逮捕されると直ちに入念な捜索が前者に対し行われた。ピシュグリュはこうして悲惨な浮浪の身となり、家から家へさまよい、人目を忍んで身を隠し、ただ暗闇の中でしか戸外に出てこようとしなかった。時には、彼は一晩中屋外で過ごす事もあった。このような生活は死よりも一層ひどかった。助けが必要となり、彼はようやくある家に身を寄せようとする。そこの主人は彼を保護すると約束していたが、この男は警察に与しており、客人を裏切った。真夜中に24名の憲兵を伴った総監がピシュグリュを捕まえる為、彼の居る部屋のドアを破ってなだれ込んだ。この不屈の将軍はおよそ15分にわたって男たちと格闘した。しかしついに力尽きると、捕縛され、タンプル塔に身柄を移された。

ピシュグリュの逮捕

ピシュグリュは地下牢で、アンギャン公の処刑とモローの逮捕を知らされる。モローの逮捕について彼は、かの将軍は申し立てられてる罪状に対し全く無罪であると、この上もなく厳かに宣言したと言われる。この様な宣言が白日の下で行われたら、モローを破滅させたいボナパルトは彼の釈放を余儀なくされただろう。それゆえピシュグリュは裁判に出廷されぬ運命となった。そして司法の聖域ではなく、タンプル塔の地下牢にて、かの暴君の闇の工作員によって何度か尋問を受けた後、4月7日、ついに彼は死体となって発見される。彼は縊死を遂げていた。彼の黒い絹のハンカチが喉に巻かれ、その折り重なった部分が小さな棒切れで貫かれて、止血帯として用いられていた。そして政府の公式見解に反して、彼が自ら命を絶ったのではないとする噂が立ち、それは今も広く共有されている。噂は噂以上となり、彼は第一統領がエジプトから連れてきた4人のマムルークによって絞め殺されたと主張された。その数日後、ライト大佐[イギリス軍人]が同じ様に監獄で、耳から耳までぱっくりと喉を切り開かれた死体で発見され、それも同様に自殺として片付けられた惨事は、世人の陰鬱な疑惑を増大させた。

ピシュグリュの最期

ピシュグリュは勇敢な兵士にして有能な将軍だった。我々は彼に対しこれ以上の賞賛を与えようがない。彼はロベスピエールの友人であり、総裁政府から託された信頼を裏切った。この行為は、いくら政府が見下げ果てた政治を行っていたとしても決して正当化されない。彼がカドゥーダルの血に飢えた手先では無かったと希望を持てる根拠はある。しかし、彼の悲運はさほど同情を引かないのは確実である。とは言え、彼を殺した疑いを抱かれている者の汚名を更に根深いものにした。

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