ピシュグリュの章は、初版に比べ改訂版では表現がマイルドになっているが、内容に大きな差はない。ピシュグリュの章に関わらず、本書は各人物の生涯の概略を述べるよりも、作者視点で特筆すべき事項により筆を割く傾向にある。これは本書の成立時期が古く、読者の多くは登場人物と同時代人なため、万事を説明しなくとも、経緯が頭に入っているせいかも知れない。
彼の革命戦争期以前の軍歴については、結構省略されているので補足する。
ピシュグリュ |
1783年に第一砲兵連隊に入隊したのち、アメリカ独立戦争に短期間従軍。
フランス革命が勃発すると、ブザンソンのジャコバン党員となり、ガール県の志願兵連隊の中佐に選出される。そしてライン方面軍にて際立った働きをして参謀に任命されたのち、すぐさま中将に昇進する。
1793年、非貴族出身の将軍を求めていたサン・ジュストにオッシュ共々見出される。オッシュが率いるモーゼル軍と協働しつつ、ライン方面軍司令官となったピシュグリュは、アルザスの再征服と軍の再組織に成功する。1793年12月、オッシュは政府に逮捕されるが、これは彼の同僚たち(ピシュグリュ含む)に嵌められたと見る向きもある。
そしてピシュグリュはライン=モーゼル軍の司令官に就任したのち、1794年の2月、ジュールダンを引き継ぐ形で北方軍の司令官となる。そして一年のうちに、3つもの戦役を戦い抜くことになる。英軍、オランダ共和国軍、オーストリア軍はサンブル川から海にかけて勢力を張っており、ピシュグリュはクラーファイ率いるオーストリア軍をカッセル、メーネン、コルトレイクの戦いで破る。
フランス革命が勃発すると、ブザンソンのジャコバン党員となり、ガール県の志願兵連隊の中佐に選出される。そしてライン方面軍にて際立った働きをして参謀に任命されたのち、すぐさま中将に昇進する。
1793年、非貴族出身の将軍を求めていたサン・ジュストにオッシュ共々見出される。オッシュが率いるモーゼル軍と協働しつつ、ライン方面軍司令官となったピシュグリュは、アルザスの再征服と軍の再組織に成功する。1793年12月、オッシュは政府に逮捕されるが、これは彼の同僚たち(ピシュグリュ含む)に嵌められたと見る向きもある。
そしてピシュグリュはライン=モーゼル軍の司令官に就任したのち、1794年の2月、ジュールダンを引き継ぐ形で北方軍の司令官となる。そして一年のうちに、3つもの戦役を戦い抜くことになる。英軍、オランダ共和国軍、オーストリア軍はサンブル川から海にかけて勢力を張っており、ピシュグリュはクラーファイ率いるオーストリア軍をカッセル、メーネン、コルトレイクの戦いで破る。
イプレ攻囲戦 |
停戦期間が明けたのち、1794年の6月1日から13日にかけ、イプレ砦の攻囲戦を指揮するかたわら、部下のスアムとマクドナルによって、砦の近郊のルーセラーレとホーフレーデに布陣したクラーファイを撃退させた。その後18日に砦は降伏する。
ジュールダン率いるサンブル・エ・ムーズ軍がフリュールスの戦いで勝利を収めた後、ピシュグリュは2度目の戦役を開始し、10月18日にムーズ川を渡り、ナイメーヘンを押さえるとオーストリア軍をライン川東岸へと撤退させた。
ピシュグリュ軍の氷上渡河 |
そして冬営せず、冬季戦役を開始し、12月28日に氷を張ったムーズ川を渡るとボンメレルワールトを急襲し、そして同様に凍ったワール川を越えて英軍を駆逐すると、1月19日にユトレヒトに、そして20日にアムステルダムに入城した。こうして全オランダは征圧される。アムステルダムは当時最も裕福な都市であったが、ピシュグリュの軍は規律が保たれていた為、略奪は行われなかった。この様な自制心は、革命戦争〜ナポレン戦争期のフランス軍には稀だったという。ピシュグリュの人道面でのもう一つの逸話として、国民公会はイギリス兵を一人も残さず処分し、またコンデ(1793年)や、ヴァランシエンヌ(同)、ランドルシー(1794年)の攻囲戦の敵兵をたとえ降伏しようとも助命するなと命じていたが、ピシュグリュは従わなかった。
ピシュグリュ将軍のアムステルダム入城 |
また1月23日の夜、海が凍結した為、身動きが取れなくなったオランダ艦隊をフランス軽騎兵連隊が拿捕した。騎兵による艦隊の拿捕は軍事史においてほとんど例が無く、この「デン・ヘルダーのオランダ艦隊拿捕」は、フランス革命戦争期における奇妙な出来事として記録に残る。とは言え、オランダ艦隊は事前に抵抗するなとの命令を受けており、フランス軽騎兵は単純に艦隊の指揮官と会って降伏交渉をしただけとの説もある。
デン・ヘルダーのオランダ艦隊拿捕 |
かつてサン・ジュストと親しかったが、彼をギロチン送りにしたテルミドール派に協力する。公会はピシュグリュをライン=モーゼル軍の司令官に任命するが、彼はまた同時にモロー下の北方軍およびジュールダン下のサンブル・エ・ムーズ軍も指揮した。4月1日、パリでサン・キュロットが暴動を起こした際には呼び戻されて制圧にあたった。その功によって、公会から「祖国の救世主」との称号を得る。
1795年5月にマンハイムを押さえると、彼の名声は絶頂に達したが、まさにこの頃から、ルイ18世を復位させる策謀に関与するようになったと言う。彼はコンデ公と接触し、王政復古の暁には報酬を約束されたと伝えられる。敵に向けて前進すべきところを退却し、同僚のジュールダン軍を敗北せしめるなど、恣意的な行動に疑いの目が向けられるようになった。パリに召喚され隠居生活を送った後、五百人会に選出され、そしてフリュクティドールのクーデターによってギアナ流刑となる。
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