改訂版では文量は変わらず少ないが、若干より詳しい描写がされている。スペインのバダホスを55日間の攻囲の後陥落させたこと、捕虜に親切で、人道的であったことで知られたことが述べられている。初版では、良く言われてなかった百日天下時の『寝返り』についても、事前に指揮を任された北方軍の上司オルレアン公ルイ・フィリップより、彼自らの名において義務から解放され、自身の判断で行動しても良いとの手紙を受理していた事に言及し、一定の弁護を行っている。その後、王政復古を経て七月革命後にルイ・フィリップに帰順したことに触れ、締められている。
老モルティエ |
モルティエだが、ナポレオンの元帥の中ではマイナーな方に部類されるだろう。革命戦争中はオランダやライン方面に従軍し、帝政期も占領地の総督職を長く務めており、1812年に若年親衛隊の指揮官となるまでナポレオンとの関係性が薄いのがその理由かもしれない。1814年のフランス戦役では後衛を務め、パリ防衛戦ではマルモン、モンセー両元帥とともに、親衛隊を率いて防衛にあたり、その後マルモンと共に、連合国との降伏交渉を行った。
ルイ・フィリップの七月王政期では、1830年から翌年まで駐サンクトペテルブルク大使を、1834年から翌年まで陸軍大臣と首相を務めたが、1835年7月28日、国王の国民衛兵観兵式に随行した際に、コルシカ生まれのフィエスキという過激派から、25の砲身を持つボレーガンの砲撃を受け、他の11名と共に命を落とす。
観兵式で襲撃を受けるルイ・フィリップ一行 |
ジュゼッペ・フィエスキ |
モルティエはフランス語で「迫撃砲」を意味する。また本人の身長は2m近くあり、「射程の短い巨大迫撃砲」と評されたという。あと、元帥の中ではベルナドットと仲が良かったと言われる。
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