1791年、志願兵連隊の大佐になって以降、ずっと現役の軍人であり続ける。ピシュグリュ、モローおよびマッセナの指揮のもと、ライン方面、スイス方面を戦い抜き、中将まで昇進を果たした。彼はボナパルトのお気に入りそのもので、アミアンの和約が決裂すると、直ちにハノーファー[当時イギリス王国と同君連合]を占領した事への報酬として、元帥杖を与えられる。
革命戦争期のモルティエ |
1805年から1807年にかけ、モルティエ元帥は大いに名声を上げたが、最後の3年間のハンブルク統治の間、ナポレオンの専断的な命令を熱心に執行したため、軍歴に影を落とした。この搾取と抑圧の対象となった街から大陸軍に帰投すると、戦役がフリートラントの森林地帯で決着がつくまで軍務についた。
トレヴィーゾ公となったモルティエは次いでスペインに呼ばれたが、成功を収められなかった。さらに破滅的なロシア遠征では、彼は以前のような勇猛さを失い、少なくともクレムリン宮殿を爆破させた以外の活躍を耳にしていない。ドイツ戦役では、再度勇気を取り戻し、フランスの地をかけた戦役でも、連合国軍の圧倒的な大軍に対し最後まで奮闘した。彼はルイ18世に帰順し、称号と地位を確約されたが、ボナパルトの帰還にあたって寝返ったため、2度目の復古の際には当然ながら貴族院から締め出された。しかしながら、彼が長いこと重要な指揮権を与えられていたという功績は忘れられることはなく、1819年、貴族の身分を回復された。
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