ワグラムでは、彼はオーストリアの側面に向けて騎馬を繰り出した。激しいぶつかり合いが起き、彼はあわや致命傷を被りかける。弾丸によって騎馬から放り出され、つかの間、彼は戦死したかと思われた。愛する指揮官の最期に直面して、部下たちの嘆きぶりは他に勝るものは無い程だった。しかし喜ばしいことに、負傷は軽微なもので済んだ。部下たちの彼に向けた愛着は深く、この結果は何よりのことだった。彼は敬意を受けるに値する勇敢さを有しているだけではなく、飾り気のない人柄の良さ、人当たりの穏やかさ、気立ての良さ、最下級の兵士たちにさえ喜んで親しく接する態度は、部下たちの心を確実に掴んでいた。「ベシエール、」彼らと同じくベシエールが助かった事を喜んで皇帝はこう述べた。「そなたはあの弾丸に義理を感じねばならんぞ。あれは私の親衛隊全員をそなたのために嘆かせたんだからな!」
ワグラムの戦いで負傷するベシエール(1809年) |
1811年、ベシエールは古カスティリヤ[カスティーリャ・ラ・ビエハ]とレオンの総督に任じられ、1812年には、光栄にもロシア遠征に随行した。次の戦役[1813年のドイツ戦役]では 、ベシエールはミュラが担っていた職務、すなわち全軍の騎兵部隊の指揮官となった。この重要なポストを担うにあたり、彼は主君からの一層の信頼を勝ち取ることができた。しかし、皇帝の栄華は傾きだした。まるで運勢は、勝ち誇る英雄たちに月並みの不運の辛苦を与えるだけでは飽き足らないようであった。皇帝の失墜が世界中を驚かすに足るほど急速で、それは彼の栄達よりなお早かったが、没落の最中に昔からの忠実な部下たち、彼が何よりも愛し、彼の栄達と権勢を支援した者たちは、彼の側から引き離されていった。ベシエールも例外ではなかった。
5月1日、ルッツェンの戦いの前夜、この元帥はポセルナとリパッハ間の隘路を突き進んでいた。彼はいつも通り、狙撃歩兵を従えて、危険の真っ只中を突破しようとした。隘路の突破が成功した時、一つの弾丸が彼の胸を貫き、彼は息絶えて地面に横たえられた。彼の死骸は即座に白布に包まれ、その死は、翌日の戦勝がこの悲報をより受け止めやすくするまで、彼が長いこと指揮していた勇敢な部下たちの目から隠された。
ベシエールの最期 |
かくして、この優れた軍人にして良き人物は斃れた。彼の性質は、その他のナポレオンの将帥らと比して、言い表せないほど好ましいものだった。彼は略奪に手を染めず、死にあたり、彼の遺族を貧しい境遇に置いたのみならず、相当な負債を残していた。彼はご機嫌とりでもなく、彼は主君を非常に敬愛しており、甘言で欺こうとしなかった。彼の人道性、慈愛心以上に、彼の美徳を証明するものはなく、それはフランスの名が当然ながら忌まわしく記憶に残るスペインに置いても、彼が統治を任された幾つかの街の住民は自発的に集まりベシエールの魂のためにミサを捧げた。
オーストリア、プロイセン、ポーランドにて、彼は全力を傾けて戦争の惨禍の軽減に努めたので、偉大な人物としての記憶を後に留めた。のみならず、ロシアにおいてさえ彼の人道性は賞賛された。モスクワが炎上した時、家を失い凍えた大量の住民が、彼が居住している宮殿に避難を求めた。住民らが中に入ると、彼と従者たちは丁度食卓につくところだった。あまりに悲惨な状況に心打たれて、彼は彼の参謀らに「諸君、どこか他の場所で夕食をとることにしよう!」と告げると、即座に飢えて衰えた者たちを食卓に座らせた。マラヤスロヴェッツからの恐ろしい撤退の間、彼の人道性と勇気は絶えることなく発揮された。彼は兵士達からの信頼と愛情の対象だった。
ベシエールは息子を一人残した。彼はルイ18世によってフランス貴族に叙せられる。
ベシエールの胸像(ベルサイユ宮殿) |
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