2017年6月21日水曜日

1-26-a ジャン=バティスト・ベシエール(1)







ロット県のカオールに程近い町プライサックに、1768年8月6日、ジャン=バティスト・ベシエールは生誕した。彼の出自は同郷人のミュラ同様に低く、二人とも軍人なろうと強く意気込んでいた。彼はルイ16世の立憲衛兵を志願し、入隊の機会を得る。こうした中、1792年8月10日の騒乱の折、彼は慈悲深くも危険を顧みず奮闘して、王妃に近侍していた人々を何名か救い出した。この行動は、以降に彼が獲得する戦勝の桂冠以上に、彼に名誉をもたらした。

ベシエール
立憲衛兵が解体されると、若きベシエールはピレネー方面軍の騎兵連隊へ配属された。スペインの北部にて彼は良い働きをし、一兵卒の歩哨から大佐に昇進する。彼の才能か、もしくは所属する旅団の上部の判断によるものか、1796年に彼はイタリア方面軍に配属するやいないや、他の将軍の誰よりも軍事に優れた人物を見出し、報酬を与えようとする人物の目に止まった。彼がボナパルトの目を引き始めた最初の瞬間、まさにこの時から彼の運勢の地盤は固まった。ある日彼がオーストリア軍の砲兵中隊に向けて前進している時、乗っている馬が殺された。彼は急いで倒された馬から身を離すと、兵器類が大きくひとまとめとなっている上に飛び移り、それを守備する砲兵に向けて勇壮にサーベルを突きつけた。彼の二人の部下が援助しに騎馬で駆けつけてくれたので、彼は意気揚々と砲を持ち去ることができた。司令官は彼の行動の威勢の良さに感心すると、この勇ましい士官を自身の守備隊の指揮官とした。この部隊は、拡大を遂げ、やがて有名な皇帝親衛隊となり、この新たな寵臣はその指揮を死去するまで取り続けることになる。

オーストリア砲兵と戦うベシエール
(ロヴェレートの戦い:1796年)

帝国元帥ベシエール
帝政下では、この士官は今や帝国元帥となり、引き続き能力と熱意を主君への奉仕に向けて発揮し続けた。1805年、彼はドイツで幕を開けた戦いに駆けつけ、そしてティルジットの和約の締結まで絶えることなく用いられた。彼はイエナ、ハイルスベルク、フリートラントそしてアイラウの戦いに参戦し、これらの重大な戦役の間全てにおいて、勇ましさと用心深さを並存したところ—これらはナポレオンの部下でさえ稀にしか持ち合わせてなかった—を披露した。1808年、次いでこの元帥はスペインに活躍の場を移す。彼は第2軍団の司令官となり、司令部をブルゴに置いた。立派な振る舞いと、フランスの指揮官には稀な穏健さを併せ持っていた彼は、愛国心に燃える民衆たちによって延々と勃発する反乱を、誰よりも上手に宥めた。彼のこうした献身は貴重であり、民衆たちから喜びをもって受け止められはしたが、おそらくピレネー山脈の向こうに届く彼の名声に一層の光彩を加えるものではなかった。しかし運勢は彼の名に同僚の元帥たちよりも一層の輝きをもたらす機会を与えた。勇敢だが慎重なスペインの将軍のキュエスタは、フランスとマドリードの連絡線を遮断する目的で、大軍を率いてブルゴに向け進軍した。ベシエールは13,000以下の兵力しかなかったが、躊躇せず打って出た。双方の軍勢はメディナ・デル・リオセコの近くで相見え、そして激戦の火蓋が切って落とされた。非常に多くの兵力を抱えているスペイン軍は当然ながら幾度も優位に立ったが、フランス騎兵による左翼への突撃がそれら全てを突き崩し、最終的にその日の勝敗の動向をひっくり返した。スペイン兵は完全に潰走し、彼らの物資は勝者の手に落ちた。もし近郊の僧侶の言うことが正しければ、27,000の死体が戦場に埋もれたとされる。

メディナ・デル・リオセコ の戦い(1808年)   
この戦いの成功はナポレオンにとって決定的な物だったので、彼は「これは2度目のビリャビシオサ[1710年に起きたスペイン継承戦争中の戦い]だ。ベシエールは私の兄を王位につけさせた!」と声を上げた。この勝利はマドリードへの道を開き、そこにてジョゼフは即座に王家の標章を我が物とした。またこれによって元帥は、イギリスがスペインの愛国者たちに提供した武器や軍備品を獲得した。

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