若いうちからリュシアンは、革命的な教義に熱をあげており、そして兄ナポレオンの立身によって彼の前にも名誉と富への前途が開かれた。しばらくの間、彼は兵站部の雇われ人をしていたが、 1797年に政界入りし、五百人会の一員へと復帰した。
議会での彼は弁舌巧みにして、そして少なくともたまには健全で高尚な見解を述べていた。 しかし、彼を最も際立たせていたのは、活力に満ちた身振りと、当時の政府への献身ぶりだった。
ナポレオンがエジプト遠征で不在の間、リュシアンは総裁達の動向を窺うスパイ役となっていた。総裁らは無能で、さらに世論においては強硬派からはその手ぬるさを、善良な人々からは隠しようもない強欲さを軽蔑されているのを見てとったリュシアンは、勇ましい者の手によって彼らをその席から放り出し、最高の権力を掌握する時が来ていると察した。ナポレオンの帰還を急がせたのは彼であり、またその後のクーデターの立役者になったことは論を待たない。ナポレオンが非武装で評議会に入ったとき、リュシアンはナポレオンに対して宣告されようとしている『法の外に置く』判決に断固として抵抗した。ナポレオンは、抗議しても何の役にも立たないことを知ると、首魁としての威厳をかなぐり捨て、馬に飛び乗ると軍隊に号令を発し、議員らを退場させるよう強いたのである。要するに、ナポレオンに統領の座を確保しただけでなく、ギロチンから彼を救ったのはリュシアンだったのである。内務大臣の地位はその成功の報酬であり、その管理能力においても彼は評判を得ないでもなかった。
ブリュメール18日のクーデターにて、軍隊に号令を発するナポレオン |
しかし、リュシアンが第一統領にした貢献は素晴らしいものであったが、この二人の兄弟の間の兄弟愛に満ちた関係は長く続かなかった。おそらく二人は同程度に野心家だった。リュシアンの目的は、国家の最高権力をもう一人と共有することであったが、ナポレオンはそそんな魂胆を見破り、妨害した。リュシアンは自分より上の存在に我慢がならず、ナポレオンは己に並び立つ存在を許容できなかった。両者の関係は冷え切り、その溝はボーアルネ家の面々によって入念に広げられた。彼らは縁者のナポレオンの味方であり、リュシアンの巧妙な手管と不敵な性格に常に不信感を持っていた。リュシアンはマドリッド駐在大使に任じられたが、これは体のいい追放でしかなかった。
リュシアンは大使として兄の意図を全面的に推進した。彼の振る舞いは強権的で横柄かつ腐敗していた。 彼がカルロス4世の愚劣な政府を軽蔑していたのは間違いない。裏切り者で愚か者の平和公ゴドイを、リュシアンはその日の目的に最も適した方法で持て囃したり、小突き回したりして、そうすることで望むものを何でも手に入れた。彼の金銭欲は相当だった。リュシアンは公費から莫大な金額を抜き出し、ポルトガル政府にフランスの侵略から免れる対価として500万フランの支払いを強要したと言われている。彼はエトルリア王国の創設と、パルマ公国、ピアチェンツァ公国、グアスタッラ公国のフランスへの割譲を主張した。その後1802年にパリに戻ると、第一統領と表面的な和解をした。
はすぐにトリーアの議員に任命され、古代の選帝侯たちが所有していたソッペルズドルフの地所を与えられた。リュシアンはその後、ベルギーとレーヌ地方への使節団に任命されたが、帰国後、第一統領を怒らせる行動に出た。彼はユベルトン夫人と結婚したのである。ユベルトン夫人は派手な生活を送っている女性として知られており、リュシアンは以前から同棲していたと言われている。これはナポレオンの体制にとって打撃だった。口論になり、彼はフランスから離れるように命じられた。1804年4月、統領政府から帝政への政権交代の1ヶ月前に彼はイタリアへ出奔した。この出来事は彼にとってある意味幸運なことだった。彼の不遇の要因は、兄の野心的な政策に反対したことにあるとの印象を人々に与えたからだ(彼もあえて否定はすまい)。
しかし、リュシアンが兄同様に民衆の自由に無頓着であったこと、そして兄同様にあらゆる局面で私利私欲に基づいて行動していたことはほぼ確実である。リュシアンは、コンコルダートを熱心に支持したことでローマ教皇の好意を得ており歓迎された。 彼はティルジットの和約が成立するまでローマに留まっていたが、ナポレオンとマントゥアで会談するよう勧められた。和解するかと期待されたが、実現しなかった。彼はある程度までは皇帝から提案された条件に応じるつもりでおり、その中には長女とオーストリア皇族との結婚も含まれていた。しかし、彼の名誉のために付け加えなければならないのは、妻を犠牲にするのを拒否したことである。離婚の同意がナポレオンの厚遇を得られる唯一の条件であったが、リュシアンは決して応じなかった。実際のところナポレオンの好意など気にする風でもなかった。それから逃げて来たのに、再び足枷を嵌められるつもりはなかった。豪華な所有物と教皇の保護を堪能できるローマでの暮らしは、ナポレオンの厳しい支配下で得られると思しき寵遇よりずっと 充足に感じられた。 彼を誘惑するためにスペインの王位が提示されたことは疑う余地がないが、彼はフランスの臣下として君臨することを嫌っていたし、スペイン王族に係る処置を自分自身に課すのを嫌がった。加えて、彼はスペインのことをよく知っていたので、王位を簒奪して事が上手く運ぶなどとは期待していなかった。両者の間で怒りの言葉が飛び交った。ナポレオンはリュシアンを侮辱し、リュシアンは教皇が虐げられていることに不平を言った。二人は会う前よりも不仲になって別れた。
リュシアンはローマに留まるのを許されなくなり、カニーノに購入した地所に隠棲した。教皇はその地を公国に昇格したので、リュシアンはカニーノ公としてローマ貴族に列することになった。しかし、彼はすぐにイタリアがもはや安全な隠れ家にはならないと察した。彼は密かにチヴィタ・ヴェッキアに逃れ、義理の兄であるミュラが用意した船に乗り、1810年8月に合衆国に向かって出航した。嵐によってカリアリの海岸に打ち上げられあが、サルデーニャ国王は彼の上陸を拒否し、更には英国海軍司令官から身の安全の保証を得られなかった。出航を余儀なくされたリュシアンは、2隻の英フリゲート艦に捕らえられ、マルタに運ばれ、彼に関する英国政府の命令を待つ身になった。その命令に従い、彼はイギリスに移送された。彼は12月18日にプリマスに上陸し、すぐにシュロップシャー州のラドローに移送された。
リュシアンがイギリスで過ごした3年間は、彼の人生の中で最も幸福なものだったろう。ラドローから15マイルほど離れた美しい土地を購入することを許され、家族と一緒にそこに腰を据えた。彼は主に叙事詩の作成に時間を費やした。それは 『シャルルマーニュ、または救われし教会 』と題されている。彼の生活スタイルは極めて質素であり、彼の莫大な財産を考えると、ある意味驚きである。ある日、とある友人が彼にその理由を尋ねてみたところ、彼の答えはあたかも未来を予知しているかのようだった。「私がそのうち4、5人の王様たちを養うようになるという事が分かりませんか?」
1814年の英仏間の停戦により大陸へ帰還する道が開かれたリュシアンは、旧友であり保護者でもあるピウス7世のもとに戻ってきた。二人の兄弟は長いこと不仲であったにもかかわらず、リュシアンが妹のポーリーヌを介してエルバ島のナポレオンと文通していたことは疑いようがない。1815年3月のエルバ島脱出の企てに彼が関与していたかどうかは定かではない。ただ、彼がすぐにパリの皇帝のもとに駆けつけたことだけは確かな事実である。彼のパリ行きの表向きの目的は、ミュラに侵攻されたローマ教皇領から避難することにあった。それが果たされた後、彼はイタリアに戻る準備をしたと言われているが、ナポレオンにフランス出国を阻止された。しかし、それにもかかわらず、彼は貴族院に姿を表すと、かつて帝国が最も繁栄していた時期には決してしなかった、帝国への献身を訴える熱弁をふるった。ワーテルローの大惨事の後、彼は皇帝に帝位にしがみ付くよう促したが、不運に意気消沈している皇帝に自分の活力を注入することはできなかった。ナポレオンの二度目の退位により、リュシアンはニュイユに後退すると、そこでフランスを離れる準備をした。しかしトリノで逮捕され、しばらく拘束されていたが、教皇の執り成しにより、聖下の監視下に置かれることを条件に釈放された。幸いなことに、彼はローマに家族を残していたので、すぐに合流できた。未だに彼はローマ領内に留まっている。
ボナパルトの時代、リュシアンの才能はフランスの学術関係者たちに賞賛されていた。彼は1816年3月21日の国王令によって排除されていた研究機関の会員として認められた。彼の最高傑作であり、ピウス7世に捧げられた『シャルルマーニュ』は、1814年にロンドンで全2巻で出版された。翌年には、バトラーとホジソンによる詩の翻訳が出版された。イギリスとフランスの両国での成功ぶりに差異はない。この重厚な叙事詩の他に、リュシアンは2つの作品を発表している。小説『ステッリーナ(1799年刊)』、詩『Cyrneide、あるいは救われしコルシカ(全2巻。1819年刊)』である。これらの作品はすべて忘れ去られている。
カニーノ公は、才能を有しているが、それ以上に虚栄心が強かった。相当な気骨の持ち主ではあったが、それ以上に無謀だった。私人としては尊敬されていたが、見知らぬ人にはよそよそしかった。彼が妻に忠実でナポレオンの無遠慮な申し出を拒否したことは、彼の名を高めている。しかし、彼の富への飽くなき欲望と、それを得る際の悪どい手口は、彼のどんな美点さえも相殺する以上のものにはなっていない。
リュシアンは大使として兄の意図を全面的に推進した。彼の振る舞いは強権的で横柄かつ腐敗していた。 彼がカルロス4世の愚劣な政府を軽蔑していたのは間違いない。裏切り者で愚か者の平和公ゴドイを、リュシアンはその日の目的に最も適した方法で持て囃したり、小突き回したりして、そうすることで望むものを何でも手に入れた。彼の金銭欲は相当だった。リュシアンは公費から莫大な金額を抜き出し、ポルトガル政府にフランスの侵略から免れる対価として500万フランの支払いを強要したと言われている。彼はエトルリア王国の創設と、パルマ公国、ピアチェンツァ公国、グアスタッラ公国のフランスへの割譲を主張した。その後1802年にパリに戻ると、第一統領と表面的な和解をした。
リュシアンの二度目の妻 アレクサンドリーヌ |
しかし、リュシアンが兄同様に民衆の自由に無頓着であったこと、そして兄同様にあらゆる局面で私利私欲に基づいて行動していたことはほぼ確実である。リュシアンは、コンコルダートを熱心に支持したことでローマ教皇の好意を得ており歓迎された。 彼はティルジットの和約が成立するまでローマに留まっていたが、ナポレオンとマントゥアで会談するよう勧められた。和解するかと期待されたが、実現しなかった。彼はある程度までは皇帝から提案された条件に応じるつもりでおり、その中には長女とオーストリア皇族との結婚も含まれていた。しかし、彼の名誉のために付け加えなければならないのは、妻を犠牲にするのを拒否したことである。離婚の同意がナポレオンの厚遇を得られる唯一の条件であったが、リュシアンは決して応じなかった。実際のところナポレオンの好意など気にする風でもなかった。それから逃げて来たのに、再び足枷を嵌められるつもりはなかった。豪華な所有物と教皇の保護を堪能できるローマでの暮らしは、ナポレオンの厳しい支配下で得られると思しき寵遇よりずっと 充足に感じられた。 彼を誘惑するためにスペインの王位が提示されたことは疑う余地がないが、彼はフランスの臣下として君臨することを嫌っていたし、スペイン王族に係る処置を自分自身に課すのを嫌がった。加えて、彼はスペインのことをよく知っていたので、王位を簒奪して事が上手く運ぶなどとは期待していなかった。両者の間で怒りの言葉が飛び交った。ナポレオンはリュシアンを侮辱し、リュシアンは教皇が虐げられていることに不平を言った。二人は会う前よりも不仲になって別れた。
リュシアンはローマに留まるのを許されなくなり、カニーノに購入した地所に隠棲した。教皇はその地を公国に昇格したので、リュシアンはカニーノ公としてローマ貴族に列することになった。しかし、彼はすぐにイタリアがもはや安全な隠れ家にはならないと察した。彼は密かにチヴィタ・ヴェッキアに逃れ、義理の兄であるミュラが用意した船に乗り、1810年8月に合衆国に向かって出航した。嵐によってカリアリの海岸に打ち上げられあが、サルデーニャ国王は彼の上陸を拒否し、更には英国海軍司令官から身の安全の保証を得られなかった。出航を余儀なくされたリュシアンは、2隻の英フリゲート艦に捕らえられ、マルタに運ばれ、彼に関する英国政府の命令を待つ身になった。その命令に従い、彼はイギリスに移送された。彼は12月18日にプリマスに上陸し、すぐにシュロップシャー州のラドローに移送された。
リュシアンがイギリスで過ごした3年間は、彼の人生の中で最も幸福なものだったろう。ラドローから15マイルほど離れた美しい土地を購入することを許され、家族と一緒にそこに腰を据えた。彼は主に叙事詩の作成に時間を費やした。それは 『シャルルマーニュ、または救われし教会 』と題されている。彼の生活スタイルは極めて質素であり、彼の莫大な財産を考えると、ある意味驚きである。ある日、とある友人が彼にその理由を尋ねてみたところ、彼の答えはあたかも未来を予知しているかのようだった。「私がそのうち4、5人の王様たちを養うようになるという事が分かりませんか?」
1814年の英仏間の停戦により大陸へ帰還する道が開かれたリュシアンは、旧友であり保護者でもあるピウス7世のもとに戻ってきた。二人の兄弟は長いこと不仲であったにもかかわらず、リュシアンが妹のポーリーヌを介してエルバ島のナポレオンと文通していたことは疑いようがない。1815年3月のエルバ島脱出の企てに彼が関与していたかどうかは定かではない。ただ、彼がすぐにパリの皇帝のもとに駆けつけたことだけは確かな事実である。彼のパリ行きの表向きの目的は、ミュラに侵攻されたローマ教皇領から避難することにあった。それが果たされた後、彼はイタリアに戻る準備をしたと言われているが、ナポレオンにフランス出国を阻止された。しかし、それにもかかわらず、彼は貴族院に姿を表すと、かつて帝国が最も繁栄していた時期には決してしなかった、帝国への献身を訴える熱弁をふるった。ワーテルローの大惨事の後、彼は皇帝に帝位にしがみ付くよう促したが、不運に意気消沈している皇帝に自分の活力を注入することはできなかった。ナポレオンの二度目の退位により、リュシアンはニュイユに後退すると、そこでフランスを離れる準備をした。しかしトリノで逮捕され、しばらく拘束されていたが、教皇の執り成しにより、聖下の監視下に置かれることを条件に釈放された。幸いなことに、彼はローマに家族を残していたので、すぐに合流できた。未だに彼はローマ領内に留まっている。
ボナパルトの時代、リュシアンの才能はフランスの学術関係者たちに賞賛されていた。彼は1816年3月21日の国王令によって排除されていた研究機関の会員として認められた。彼の最高傑作であり、ピウス7世に捧げられた『シャルルマーニュ』は、1814年にロンドンで全2巻で出版された。翌年には、バトラーとホジソンによる詩の翻訳が出版された。イギリスとフランスの両国での成功ぶりに差異はない。この重厚な叙事詩の他に、リュシアンは2つの作品を発表している。小説『ステッリーナ(1799年刊)』、詩『Cyrneide、あるいは救われしコルシカ(全2巻。1819年刊)』である。これらの作品はすべて忘れ去られている。
カニーノ公は、才能を有しているが、それ以上に虚栄心が強かった。相当な気骨の持ち主ではあったが、それ以上に無謀だった。私人としては尊敬されていたが、見知らぬ人にはよそよそしかった。彼が妻に忠実でナポレオンの無遠慮な申し出を拒否したことは、彼の名を高めている。しかし、彼の富への飽くなき欲望と、それを得る際の悪どい手口は、彼のどんな美点さえも相殺する以上のものにはなっていない。
リュシアンとその家族 |
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