2020年5月12日火曜日

プロイセン軍人(4)ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(1757-1807)

ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(Heinrich von Bülow)は1770年にブランデンベルクのファルケンベルクで生まれた。彼の兄はプロイセン軍人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ビューローである。彼はベルリンの陸軍士官学校で学び、その後プロイセン軍に入隊する。だがすぐに退役し、ポリビウス、タキトゥス、J.J.ルソーの研究に没頭し、その後、ネーデルラントに短期間赴任した。その後、劇場の設立に着手したが、すぐにその計画を断念し、アメリカを訪問した。金欠ながらも経験を蓄えた彼は帰国すると著作に取り掛かる。彼の最初の仕事は「戦争術」に関するもので、その中で彼は並々ならぬ才能を発揮した。貨幣に関する本を書き、ムンゴ・パークの旅行記を翻訳し、1801年には1800年の戦役についての本を出版した。1804年には『近代戦争論』(Lehrsätze des neuern Krieges)を書き、他にもいくつかの兵学書を書いているが、その中に『あるべき近代の戦術』がある。前者では、彼は戦略と戦術の区別を指摘し、三角形をすべての軍事作戦の基礎としている。彼のこの原則は、ジョミニをはじめとするフランスの著者たちによって反論されている。1805年の戦争史を書いたことで、ロシアとオーストリア政府の要請でプロイセンにて投獄された。1807年、神経性の熱病でリガの牢獄で死去。スヴェーデンボリの信奉者であった。

=参考文献=
Encyclopædia Americana: A Popular Dictionary of Arts, Sciences, Literature, History, Politics, and Biography, Brought Down to the Present Time; Including a Copious Collection of Original Articles in American Biography; on the Basis of the Seventh Edition of the German Conversations-Lexicon, 第 2 巻

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