2020年5月16日土曜日

プロイセン軍人(6)ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(1759–1830)


ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(Johan DAVID LUDWIG YORCK VON WARTENBURG)は、1772年にプロイセン軍に入隊したが、7年間の務めたのちに、不服従のため罷免された。3年後にネーデルラント軍に入隊し、1783年から84年にかけての東インド諸島に向けた遠征に大尉として参加した。1785年にプロイセンに戻ったヨルクは、フリードリヒ大王の死後、ようやく軍務に復帰し、1794年にはポーランド戦役に参加し、特にシュチェコチニの戦いで活躍した。その5年後、ヨルクは軽歩兵連隊の指揮官として名を馳せ始め、散兵の訓練に力を入れた最初の一人となった。 1805年には歩兵旅団の指揮官に任命され、悲惨に終わったイエナの戦いでは、後衛の指揮官として特にアルテンザウンで目立った活躍をした。 彼はリューベックにおけるブルヒャー軍団の最後の戦いで重傷を負い、捕虜となった。ティルジットの和約後に始まったプロイセン軍の再編成では、ヨルクはその中心人物の一人となった。最初は西プロイセン旅団長、後に軽歩兵総監を務め、最終的にはグラーヴェルト将軍の副官に任命された。彼は1812年のロシア遠征にてフランスによりプロイセンが派遣させられた予備軍団の指揮官に任じられていた。グラーヴェルトはフランスとの同盟を公然と支持し、ヨルクは熱烈な愛国者であったため両者は衝突したが、間もなくグラーヴェルトは引退し、ヨルクが指揮を執ることになった。リガへの進撃では、ロシアのシュテインゲル将軍に対抗して、彼は一連の戦闘で優れた技術を発揮し、敵軍をリガへの撤退に追い込んだ。この戦役を通して、彼はロシア側の将軍たちから何度も誘いを受けた。ずっと拒否していたが、やがてフランス軍が劣勢にあると気づく。彼の直属のフランス軍上官であるマクドナルド元帥は、ロシアのディーピッチュ軍団の前から退却し、ヨルクは孤立していた。軍人としての彼の義務は包囲を突破することにあったが、プロイセン愛国者としての彼の立場はより複雑だった。ドイツ解放戦争を引き起こすに有利なタイミングを見計らわねばならず、下士官たちの熱意がどうであれ、ヨルクは勝手なことをしては自分の首が無事で済むと思っていなかった。12月30日、将軍は決心した。タウロゲン条約をロシア軍と締結してプロイセン軍を「中立化」したのである。このニュースはプロイセン国内で熱狂を引き起こしたが、プロイセン政府はまだ表面的には素知らぬ風で、ヨルクを指揮官から停職処分とし軍法会議を待つ旨命令を発した。ロシアのディーピッチュはヨルクを自分の陣地を通過させることを拒否したが、カリシュ条約によってプロイセンが対仏連合側につくことが確定したため、ヨルクは最終的に無罪放免となった。 ヨルクのこの行動はプロイセンの歴史の転換点となった。彼の元に古参兵たちが東プロイセン軍の核となり、ヨルク自身が公にの軍の司令官として宣言することで決定的な解放戦争への一歩を踏み出したのである。1813年3月17日、ヨルクは愛国心に溢れた歓喜の中、ベルリンに入国した。同じ日にプロイセン国王はフランスに宣戦布告した。1813年から14年の間、ヨルクは古参兵を率いて大成功を収めた。バウツェンの戦いの後のブリュッヒャーの退却を援護し、カツバッハの戦いでは決定的な役割を果たした。ライプツィヒに向けて進軍する間、10月4日のワルテンブルクの戦いで勝利し、10月18日の大決戦にも参加した。フランス戦役では、ヨルクはモンミライユの戦いでロシアのサッケン軍団を壊滅から救い、ランの戦いで勝利に決定的な役割を果たした。パリ攻撃が彼の最後の戦いだった。 1815年の戦いでは、ブリュッヒャー軍には年長者は一人も採用されなかった。これは、プロイセンの将軍の中で最も優秀なグナイゼナウが、ブリュッヒャーが戦死した際に、気兼ねすることなく指揮を執ることができるようにするための措置であった。ヨルクはプロイセンの予備軍に任命されたが、自分が必要とされなくなったと感じ、軍を退役した。プロイセン国王はしばらく辞表を受け取らず、1821年にヨルクを陸軍元帥に任命した。彼は1814年にヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵になっていた。彼の人生の残りを、国王から贈られたクラインエールズの所有地で過ごした。彼は1830年10月4日にそこで死亡した。1855年にベルリンで彼の像(ラウチ作)が建立される。

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