クリスチャン・カール・アウグスト・ルードヴィッヒ・フォン・マッセンバッハ(CHRISTIAN KARL AUGUST LUDWIG VON MASSENBACH)は、1758年4月16日にシュマルカルデンで生まれた。ハイルブロンとシュトゥットガルトで教育を受け、主に数学を専攻した。1778年にヴュルテンベルク軍の将校となり、1782年にはそこを去ってプロイセン王国のフリードリヒ大王に仕えた。彼の階級の給料は少なかった上に、主計総監付参謀に任命されたことにより、2頭の馬を飼う必要があったため、余暇に数学の学校の本を書いてその費用を捻出した。彼は戦争に係る技能習得をないがしろにしていたが、このように早期に彼は理論家としてだけでなく、数学者として頭角を表そうとしていた。若いルイ王子の数学教師の役を務めた後、彼はオランダ遠征軍に加えられ、プール・ル・メリット勲章を授けられた。プロイセンに戻った彼は軍事工学校で数学の教師になった。1792年、教職を辞し、参謀将校としてフランスとの戦いに向かう。彼のヴァルミーの戦いにおける地形工学者としての働きに対して、ミンデンの聖職禄が授与された。1793年と1794年の戦役に従軍した後、彼はその際の軍事的な出来事に関する多くの回想録を出版した。しかし、彼は主に、当時放置されていたプロイセン軍参謀本部の再編成の計画を練ることに専念しており、彼の提案の多くは受け入れられた。ブロンサルト・フォン・シェレンドルフは著作『参謀本部の任務』の中で、マッセンバッハの仕事について次のように述べている。「彼が提案し、実行した組織は、1806年から1807年の大惨事【訳注:フランス軍に大敗したこと】にも耐え、現在も元の大枠を守ったまま存在している。」あの大敗の責任がどれほどマッセンバッハの言説に起因するかを考えれば、これは結構な賛辞と受け止められよう。彼の努力により参謀システムに、形式的なものより大きな利点がもたらされる。それは参謀将校に一貫した忍耐強い個人努力を求める伝統を定着させたことである。しかし大佐になったマッセンバッハが教えた実際の教義を要約すると、おかしなまでに過剰に「配置」を強調していた。 彼の主張によると、参謀将校の役割とは平時からケースに応じた作戦計画を用意しておくことにあった。作戦の立案は戦時に軍の指揮官に課せられるものであったため、この考えは責任ある立場の将官たちからは嘲笑された。また、特定の政治的状況に合わせた作戦計画案についての回想録は、非常に不必要な詳細で作成されていた。注目すべきは、彼が提案した作戦計画のどれもがフランスを敵と見なしていなかったことである。
1805年、ナポレオンとの戦いの脅威がプロイセン王国に迫ってきたが、マッセンバッハはこれに強く反対していた。彼はホーエンローエ公の主計総監(参謀長)として仕えることになったが、すぐにホーエンローエ公より上位に立って影響力を及ぼすようになる。アウステルリッツの戦いでフランス側が勝利を収めたことにより、普仏間の戦いは一時的に回避されたが、1806年10月に本格的に戦争が勃発した。1806年のマッセンバッハの采配は全プロイセン軍の動きを鈍化させる。
イエナ=アウエルシュタットの戦いで敗北し、ホーエンローエ公軍の降伏が交渉された。背信行為として咎める声も上がり、マッセンバッハは軍法会議にかけられそうになったが、ホーエンローエ公がマッセンバッハの行動の全責任を総司令官として自らに課したたために未然に終わった。マッセンバッハはその後、ポーゼン県に蟄居し、小冊子や回想録などの執筆に没頭した。領地がワルシャワ大公国に移った後もプロイセンの領内に留まり、解放戦争が始まると、プロイセン軍に参謀として士官しようと熱心に懇願した。ナポレオンの没落後、ヴュルテンベルクの政治に関わり、シュトゥットガルトとハイデルベルクから追放された後、すぐにフランクフルトで逮捕され、プロイセン当局に引き渡され、回想録で国家機密を公表したという疑惑から14年間の禁固刑に処せられた。彼は1826年まで獄中にいたが、フリードリヒ・ウィルヘルム3世が事故から回復した際に、恩赦を受けて解放された。彼は1827年11月21日にポーゼンのビアロコシュツにある所有地で死去した。
=参考文献=
Encyclopædia Britannica, Volume 17(1911年刊)
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