2020年5月2日土曜日

1-17-a アンリ・クラルク




アンリ=ジャック=ギョーム・クラークは1765年10月17日、ランドルシーで生まれた。父はアイルランドの冒険家であり、フランス軍の大佐だった。幼少に、陸軍に入隊し、パリの陸軍学校で教育を受けた。

1784年には大尉となり、1792年には騎兵連隊の大佐となった。1784年には大尉、1792年には騎馬連隊の大佐になっているが、どのようにして彼がその地位に上り詰めたのかは不明だがはっきりと言えるのは能力のおかげではない。彼の部下が彼の無能が引き起こした惨事から連隊を救っていなければ、彼の連隊は何度も全滅していたであろう。1793年に旅団長に任命され、その新ポストで失態を繰り返す矢先に、貴族であることを理由として投獄された。しかし、すぐに解放されたクラルクは、可能なら復職を、少なくとも同程度には高い地位を得ようとパリに急いだ。

彼はカルノーに、激烈な革命思想の提唱者だと自己アピールをした。平等と国民主権を支持しないものには、炎と死だけをお見舞いしてきたと告げた。彼が出世するには、他にどんなチャンスがあっただろうか?戦争はからっきしなので、欲しいものを手に入れるには口を上手く使う以外になかった。カルノーはクラルクの血の気の多さを優しくたしなめると、その熱意に慎重さを足すよう促した。それでも、この誠の市民クラルクのために何かをしてやらないわけにはいかなかった。こうしてクラルクは地形委員会に配属された。彼の唯一の目的は、「権力者」にすりよって生きていく事にあり、上の立場の者の意に沿うためならば、己の意見を曲げるのに躊躇いはなかった。よって彼はあの凶悪な公安委員会ともうまくやっていた。

政権をめぐる波乱が近づいてくると、それが収まるまで身を伏せた。やがて総裁政府が樹立する。この時になってクラルクは初めて最初の革命政府の形態はあまりにも急進的で、その過激さで自らを落としてめていたと声を上げた。そして「しかし、最も優秀で高潔な5人の総裁の下でフランスは理想国家になるだろう」と言い始めたのである。

またしても、変わり身の早さが功を奏した。懐が温まっただけではなく、クラルクはウィーンへの極秘任務に派遣され、帰国後にはボナパルトへのスパイ行為という極秘かつより重要な任務を任された。

当初から総裁たちはナポレオンを警戒していた。あいつは政府転覆してその席に収まろうと目論んでいやしないか、念入りに見張って置かねばならん、と。クラルクは、オーストリアが幽閉しているラファイエットらの釈放交渉という口実でミラノにやって来たが、ボナパルトはすぐにこのスパイの本性を見破った。この最も節操のない人物を、総裁たちから自分に寝返るよう仕向けるのに言葉はほとんど要しなかった。クラルクはパリからどんな指示を受けたとしても、ボナパルトにそれを見せ、その返信内容はほとんどの場合ナポレオンの指示通りだった。このように総裁どもの間抜けで、不義理で、嫉妬めいた入念な嫌がらせは、ナポレオンにとってこの上なく役に立つ結果となった。

だが、フリュクチドール18日のクーデターによりカルノーが失脚し、クラルクは支援者を失った。クラルクは召喚されたが、カンポ・フォルミオの和約が成立するまでイタリアを離れまいとし、再度命じられるまでパリに戻らなかった。彼が雇い主に裏切りが知られていると疑っていたのは間違いなく、当然のことながらそれによる処分を恐れていた。パリに到着しところ失脚させられたが、予想に反して投獄を免れた。

ジャコバン党、モンターニュ派、テルミドール派、そして総裁政府のお仲間だったクラルクは、ブリュメール18日のクーデターの後より統領政府の奴隷となった。彼はただ議会に手堅い席を確保しただけでなく、いくつかの重要な任務を任された。帝政に移行して、彼がさらに出世したのはは想像に難くない。総裁政府の時には、彼は旅団長であったが、今や国務審議官や陸海軍の国務長官等の顕職を与えられていた。だがこうした地位は、彼が他の臨時の役職に就くことを妨げるものではなかった。皇帝は、彼の軍人としての愚かさと臆病さをあまりにもよく知っていたため、彼を戦場で出そうとはしなかったが、いくつかの重要な指揮を任した。1805年にはウィーンを治め、その後、エルフルトとベルリンを治めた。ベルリンでは、彼はその振る舞いの冷酷さと強欲さで名をはせた。彼が莫大な徴収金を住民に課し、その相当額を彼自身の懐に入れたのは、今なおも憎悪の的となっている。それよりも彼のプロイセン王家への仕打ちは半永久的に恨みの対象となるだろう。美しく気の毒なプロイセン王妃は彼によってかなりの侮辱を受けていた。



ティルジットの和約の後、クラルクは陸軍大臣のは最高の地位に昇りつめる。クラルクの能力はこの役目にそぐわなかったが、能力以外の面においては適任だった。彼は決して皇帝の御意に異論を唱えず、またそれを忖度するに怠りはなかった。クラルクはイギリス政府への嫌悪を公言していた。あるナポレオン不在時、フリッシンゲンに上陸しようとするイギリス軍に対し、クラルクは急遽ベルナドットを指揮官とした国民衛兵を収集し、対抗させた。このような迅速かつ果敢な措置については、他の大臣(特にフーシェ)も貢献したが、クラルクだけが褒美をもらった。レジオンドヌール大勲章とフェルトレ公爵の称号を授与されて、クラルクはほとんど真っ当な感覚を失ってしまう。彼は自分が大物だと勘違いし始め、先祖がどうだったとか口走るようになった。他のアイルランドの同郷人たちとは違って、彼は自分の先祖が古代ミレー人の小王と推量するだけでは満足しなかった。なんとこの見栄っ張りの成り上がりはプランタジネット朝の本物の末裔だと称したのである。ナポレオンはこの戯言を笑い飛ばし、ある日、貴顕居ならぶ中で、「なぜ貴公はイギリス王位継承権をもっていることを私に知らせなかったのかね?」とクラルクに話しかけて面食らわせた。この馬鹿なホラ吹きが何も言えなかったのは確実だろう。

ナポレオンがロシア遠征で不在の間に起きたマレ将軍の反乱は、クラルクの決して明晰でない頭脳を吹き飛ばした。彼は反乱を予見できなかっただけでなく、反乱勃発した後のそれを抑え込めなかった。他のより機敏な者たちによって反乱が完全に鎮圧された後になって、俄然クラルクはその反乱者の処罰にやる気を見せ始めた。この腰抜けは、常に卑怯であり、また冷酷だった。この男は血の報復に熱中するあまり、ナポレオンの寵愛を失ってしまった。

クラルクはずる賢い男だった。とは言え自分の利益に関しては知恵が回るが、他のすべてのことには愚鈍であった彼は、恩人ナポレオンの運命の衰退を用心深く観察していた。フランス軍が劣勢との報が入れば、ナポレオンの不在を預かる摂政皇后マリア・ルイーザの前に姿を見せなくなったかと思うと、フランス軍勝利の報がもたらされたら、皇后の前に興奮した様子で馳せ参じた。彼は復位したルイ18世に臣従し、その見返りとして貴族入りした。主人と同様、政治信条さえも軽々と変えていた。ナポレオンの下では、独裁政治を支持しており、ルイ18世の下では、貴族院議員として「王と法は同じものであり、一方が望むことは、他方が望むことである」と高らかに言い張った。1815年にナポレオンがエルバ島を脱出してフランス本土に上陸した時、クラルクはナポレオンはどうしたらよいか途方に暮れた。ルイ18世はスルトを陸軍大臣から罷免し、クラルクを代わりに任命したが、ナポレオンが再び失脚することがなければ、国王との結びつきなど何の役にも立たなかっただろう。 タレーランが国王側についているのを見て、その行く末を疑う者は果たしていただろうか?クラルクはもはや逡巡せず、ルイ18世の後を追ってヘントに向かった。

ブルボンが再度復古すると、フェルトレ公爵は再び陸軍大臣の任に就き、軍部に大きな損害を与えたことで、彼の行政能力の如何を証明した。1817年には解任されたが、フランス元帥となり、ルーアンの第15師団の総督に任命された。しかし、長くその名誉ある地位に留まることはできなかった。相当な財産と悪評を後に残し、クラルクは1818年に死去する。


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