2020年5月15日金曜日

プロイセン軍人(5)カール・フライヘル・フォン・ミュフリング(1775-1851)



フリードリヒ・カール・フェルディナンド・フライヘル・フォン・ミュフリング( FRIEDRICH KARL FERDINAND Freiherr von MÜFFLING)は1775年6月12日に生まれ、1790年にプロイセン軍に入隊する。1799年にはライプツィガー中尉が編集した軍事辞典に寄稿し、1802年から1803年の冬には下士官として、新たに結成された参謀本部の 「主計大尉」に任命された。ミュフリングは天文学者F.X.フォン・ザッハ(1754-1832)の下で測量を任されることになった。1805年、フランスとの戦争に備えて軍隊が戦時体制に入ると、ミュフリングは大尉に昇進し、フォン・ワルテンスレーベン将軍、ホーエンローエ公、ブリュッヒャー将軍の参謀に相次いで任命された。1806年には、ザクセン・ワイマール公、ホーエンローエとブリュッヒャーに仕え、ブリュッヒャー軍団と共にフランス軍の捕虜となった後、ワイマール公の下で民政官となった。1813年に解放戦争が勃発すると軍に復帰し、シレジア軍の司令部に配属された。ミュフリングの仕事ぶりと堅実な判断力は高く評価された。とはいえ彼とグナイゼナウの間には性格の違いからしばしば摩擦が生じた。とりわけ彼がイエナの戦いの大敗北の原因となった古風な「地形学」的アプローチを行なう戦略家の代表であったことも摩擦の要因となった。パリ占領から百日戦争までの間、ミュフリングはロシアのバークレイ・ド・トーリー将軍とクライスト・フォン・ノレンドルフ将軍の参謀長を務めた。ワーテルローの戦いではウェリントン公爵の司令部付として派遣され、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍との連絡役となった。ナポレオンの再退位後は、フランス占領軍の参謀を務め、数ヶ月間はパリの軍事総督を務めた。ライン川では測量の仕事に従事し、フリードリヒ・ウィルヘルム3世の外交使節団にも採用された。1821年にはベルリンの参謀長に就任した。彼は軍事訓練を脇に置いて地形学の仕事に没頭していたと非難されたが、参謀システムの組織化をやりとげ、かつ精緻で実用的な測量成果をあげたので、無駄にはならなかった。1829年、ロシアとトルコの和平交渉に関連して、コンスタンチノープルとサンクトペテルブルクを訪問した。その後もプロイセンの民政と軍事両方で功績を残した。1838年から1847年まではベルリンの総督を務めたが、健康を害して引退し、1851年1月16日にベルリン近郊のリングホーフェンの自宅で亡くなった。

彼は、以下のような、軍事や歴史に関する重要な作品を執筆した。

・『軍隊 1806年』(ワイマール、1807年)
・『オーストリアの将軍たちのための、カール公の高等戦争術の原則』
・『軍隊および1806 年のホーエンローエ軍の出来事についてのリューレ・フォン・リリエンシュテルンの報告書について』
・『1813年の休戦までのプロイセン・ロシア戦線』(ベルリン、1813年)
・『1815 年のウェリントンとブリュヒャーの下での従軍記』(シュトゥットガルト、1817 年)
・『1813 年から 1814 年の軍事的展開:休戦終了からパリ征服までのシレジア軍の戦役』(ベルリン、1824 年)
・『1813 年から 1815 年の主要な作戦と戦闘についての考察』(ベルリン、1825 年)(原題:Armee 1806)
・『ナポレオンの戦略 1813 年』(ベルリン、1827 年)
・『ライン川下流のローマ街道に関する小稿(』ベルリン、1834年)

ミュフリングは、地図の暈おうの発明者でもある。彼の回想録『我が人生より』は1851年にベルリンで出版された。

=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 18 巻(1911)

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