2020年5月17日日曜日
プロイセン軍人(7)カール・フォン・グロルマン(1777-1843)
カール・ウィルヘルム・ゲオルグ・フォン・グロルマン(KARL WILHELM GEORG VON GROLMANN)はプロイセンの軍人で、1777年7月30日にベルリンで生まれた。13歳で歩兵連隊に入隊し、1795年には旗手、1797年には少尉、1804年には中尉、1805年には大尉補となった。下士官としてシャルンホルストの側近となった彼は、1806年のドイツ戦役以前より、その精力的で大胆不敵な性格で知られ、イエナの戦いからティルシットの和平に至るまで参謀として従軍し、戦功により少佐の称号を得た。ティルジットの和約とプロイセンの崩壊後は、軍の再編成(1809年)でシャルンホルストの助手の一人として活躍し、トゥゲントブント(※1)に参加し、フェルディナント・フォン・シルの失敗に終わった蜂起(※2)に参加した後、オーストリア軍に参謀少佐として入隊した。その後、ナポレオンとの戦いでスペイン軍を助けるためにカディスに渡り、1810年にはヴィクトル元帥との戦いで義勇兵を率いて同港を防衛した。アルブエラの戦い、サグントゥムの戦い、バレンシアの戦いに参加し、そこで降伏して捕虜となった。しかし、すぐにスイスに逃れ、1813年の初めに参謀本部の少佐としてプロイセンに戻った。1813年の戦役では、ドルフス大佐とクライスト将軍の下でよい働きをし、またロシア軍のバラクライ・ド・トーリー将軍の司令部付として派遣された。クルムの戦いではクラインストとともに勝利に貢献し、ライプツィヒの戦いでは重傷から回復して出陣した。1814年のフランスでの戦いでは目立った活躍をし、その後少将に任命された。そして、ブリュッヒャー元帥の補給担当将軍となり、1815年のワーテルローの戦いでのプロイセン軍の指揮において、ブリュッヒャー、グナイゼナウに次いで、グロルマンは最も大きな役割を果たした。1815年6 月18 日のワーテルローの戦いの最終局面、プロイセン軍内でウェリントン軍の支援に向かうべきか意見が割れた際、グロルマンは積極的に同意した。プロイセン軍がワーテルローに近づくにつれ、ブリュッヒャーとグナイゼナウは一瞬ためらいを見せたものの、グロルマンが自ら前進命令を出すことで戦況を変えたと言われる。1815年の和平後、グロルマンは陸軍省と参謀本部で重要な地位を得た。彼の最後の公務はポーランドでの総司令官職で、実質的にはポーゼン県の行政管理だった。1837年に歩兵大将に昇進し、1843年6月1日にポーゼンで死去した。彼の二人の息子はプロイセン軍の将軍となった。プロイセン第18歩兵連隊は彼の名を冠している。
フォン・グロルマン将軍は、フォン・ダミッツの『Gesch. des Feldzugs 1815』(ベルリン、1837-1838刊)や『Gesch. des Feldzugs 1814 in Frankreich』(ベルリン、1842-1843刊)などの多くの書物を監修し、世に出した。
※1ナポレオンに敗北したプロイセンの国民精神を復活させるために、1808年6月に設立された準フリーメーソンの秘密結社
※2プロイセン軍のシル少佐率いる義勇軍「シル猟兵団」らによる、シュトラールズンドにおけるナポレオンの支配に対する武装蜂起。鎮圧されシルは戦死し、また部下の士官らは処刑された。
=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 12巻(1911)
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