2020年5月5日火曜日

1-23-a ピエール・オージュロー


ピエール=フランソワ=シャルル・オージェローは、パリ郊外の貧しい果樹農家の息子として、1757年11月11日【10月21日という説もある】に生まれた。幼い頃から武術に傾倒していた彼は、ナポリ軍に入隊したが、誇れるような成果はほとんどなく、1787年にはまだ二等兵だった。出世の見込みがほとんどないことを知って、嫌気がさして軍を去った彼は、ナポリに住みつつ、大得意の剣術を教えながら生計を立てていた。しかし、1792年、革命への同調を疑われたフランス人は皆ナポリ領を追われることになったため、オージュローは祖国に戻り、南部共和国軍の志願兵となった。

通常、35歳にして一般的な兵士よりも高い階級に達していない者が、その職業で成功しようとすれば、確かに楽観的だと見なされるだろう。しかし、オージェローは優れた洞察力に恵まれていたわけではないが、フランスとヨーロッパの君主国との間に大戦争が迫っていることを予感せずにはいられず、その中で大活躍しようと決意した。彼はすぐさま彼のその後のキャリアを特徴づける、激烈な大胆さを発揮する機会に恵まれた。「敵はどこにいるのか」さえ知れれば、彼は相手の数が多かろうが、自分の位置が不利であることすら気にせず、猛牛のように敵地に向かって突進した。彼はそれゆえに、彼が熱望していた名声と、それによる揺るぎない報酬を手に入れた。 1794年には准将になり、さらに2年後には中将になったのである!4年という短い期間で、一番下からほぼ最高位まで昇進したのは、並々ならぬ功労と比類なき幸運の両方のおかげに違いない。

1796年にイタリア方面軍に加わった後のオージェロー将軍の敢闘ぶりを列記すると、2、3、押し返しがあったぐらいで、ほとんど成功続きと言ってよかった。うち最も印象的なものを紹介する。

カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
2日間の強行軍の後の、オージュローの最初の任務は、ミレシモの前哨基地を攻撃し、それを守る要塞を制圧し、2,000兵でもってしてロヴェラをオーストリア軍の本隊から切り離すことだった。彼はすぐにセヴァの要塞陣地を襲撃し、アルバとカサーレを抑えた後、ロディ橋を大勢で守備している敵軍に遭遇した。その橋を通過しようとしたら敵からの砲弾の雨を覚悟せねばならなかった。彼は他の将校と一緒に前に向かって突撃した。軍隊はそれに続き、こうして橋の奪還作戦が開始された。オージュローの後方を指揮していた将校たちが反撃を受けたため、彼は決死の覚悟でカスティリオーネの敵陣地を急襲した。血みどろのせめぎ合いを経て、彼はうまくやり遂げた。オージュローがカスティリオーネを得たことでフランス軍は優位に立つことができ、やがてその地名にちなむ公爵の称号が彼に授けられる。彼はプリモラーノ、カヴェロ、ポルト・レガーニョ、聖ジョルジオ砦を奪取し、優勢のオーストリア軍の隊列をバッサーノにて壊滅的な撤退に追い込んだ。短期間だが重大なこの戦役における、オージュローの最後の活躍はアルコレの戦いであった。フランス軍の戦列が敵の凄まじい砲撃により崩れかけているのを察知した彼は、旗手から軍旗を奪い取り、高く掲げて前進して見せることで兵士らを鼓舞して後に続かせ、ナポレオンの勝利に大きく貢献したのである。
 アルコレの戦いでのオージュロー
   (1796年11月15 日〜17日)

彼の勇敢さは確かに立派だったものの、彼の恥知らずな貪婪さがそれに汚点を与えていた。彼はこの戦役で莫大な富を得たが、その大部分は、彼が無情にも3時間の略奪に晒したルーゴの町で得たものだった。彼の金に対する貪欲な渇望は相当だったので、この略奪者だらけの軍隊においてさえ、こんな言い回しが生まれたぐらいだ。金のない兵士がいると、同僚たちは決まって「お主はオージュローの火かき棒を持ってないのかね?」と囃した。これは、彼らの将軍が隅々まで隠れた宝を探し回っていた事を表している。多くの点で、我々が恐れる通り、オージュローは革命期の大悪党の一人とみなされている。彼は民家同様に教会も略奪し、最低でも無力で罪のない人々への暴行という重い罪を働いた事で非難されている。不運なルーゴの町が略奪された時に、逸脱行為の多くが行われたのは確かだ。何よりも人間性を持つ者には信じがたいことに、「この将軍の確かな承認によって、妻や娘たちは夫や父親の目の前で暴行された」という。

1797年の始め、ナポレオンによってオージェローはパリに派遣された。マントゥア陥落前に獲得した数々の戦利品を政府に献呈するというのがパリ派遣の口実だったが、実際のところ、三人の総裁たちが他の二人の総裁を排除しようとしており、その秘密の企てへの支援が本当の目的だった。軍人としてのオージュローの名声は当然高く、総司令官の手紙の中でも非常に褒め称えられていたので、総裁たちは彼に良い印象を持った。総裁たちは豪胆で忠実な男、分別があるというより、血の気が多い男を必要とており、彼らはこの恐れ知らずの、無節操な軍人にそれを見出した。オージュローはそうすることで己の得する所の見当がつけば、なんであろうと「権力者」の下で働くのに躊躇いはなかった。更に総裁たちは、オージュローの鈍い思考力では、とても権力を手にすることはできないと思えたので、より道具として適任と判断したのだった。

オージュローの置かれた状況として、計画を漏らせば、必然的にそれを頓挫させることになるので、細心の注意が必要とされた。普段と違う何かが企てられているのではないかという不確かな疑念がすでに存在していたが、オージュローがパリ防衛隊の指揮官に任命されたことで、その疑念は増した。今やすべての視線が彼に注がれ、皆あらゆる手を使って彼の口から何か聞き出そうとした。とある元老院議員は議会にて、オージュローにお世辞ついでに鎌をかけた。彼は政府の意図をあれこれ推測して言ってみて、首都の安全が懸念されるものの、オージュローのような愛国心のある軍人がいれば何も危害が及ばないと確信していると告げた。この鎌かけは実に巧妙だったが、この狡猾な軍人からは「パリが俺を恐れる必要はない。俺もパリ生まれだ!」とのつっけんどんな返答以外に得るものはなかった。決行の日(フリュクティドール18日)、オージュローは武装した部隊の先頭に立って立法府の会議場に突入すると、名高くも目障りな軍人であるピシュグリュの肩から肩章をもぎ取り、彼と他の約150人の議員を逮捕して、議会をめちゃくちゃにした。こうして勝利を収めた側から、オージュローは祖国の救世主と称されたが、彼はそれ以上に実利のある報酬を期待していた。彼の雇い主は、彼がどんなに才能に欠けていようとも、主義主張と野心があることに気がついた。総裁らがオージュローを一員とするのを拒んだところ、彼は抗議し、更には脅迫という手段に出た。総裁らは身の危険を感じたが、運が良いことに、やがて彼がライン=モーゼル軍の司令官職を引き受けてくれたことで落着した。

フリュクティドール18日のクーデター
(1797年9月4日)
この見栄えはするものの、実働を伴わない役についていた間、オージェローは生活様式を非常に華美なものにしており、一層服装や身だしなみを飾り立てていた。こうした華やかさと彼の作法や習慣の下品さとのコントラストは際立っており、滑稽ともいえるものであった。やがて総裁たちはオージュローを恐れ始める。シュヴァーベンに革命を起こすとの彼からの馬鹿げた報告を耳にしたことで、総裁たちは自分たちをひどく煩わしかねないポストからオージュローを穏便に追い出そうとした。総裁政府は、ポルトガルに向けた遠征の指揮を執るという口実で、彼を第10師団(在ペルピニャン)の司令官に任命した。このようにして、フリュクティドール将軍(以降そう呼ばれるようなった)は、かつてその道具として仕えた連中からカモにされたのである。

1799年、上ガロンヌの地方政府により五百人会の代表に選出されたので、オージュローは益体もない司令官職を放り出すと、パリへ急行した。ボナパルトはすでにエジプトから帰還していた。ジュールダンは彼の有名な「祖国は危機にあり!」の決意表明をしており、オージュローも彼に倣っていた。彼はまたサン=シュルピス教会でのイタリア方面およびエジプト遠征の英雄を讃える催しにも顔を出さなかった。だがジュールダンは孤立しており、ベルナドットでさえも沈黙を守っていた。ミュラ、ランヌ、ベルティエ、ルフェーブル、ベシエール、そしてイタリア方面軍の主要な指揮官たちのほとんどが旧主の元に集結していた。もはや一刻の猶予もない。ボナパルトの元に駆けつけると、抱擁し、優しく咎めるような声音でこう言った。「なんと!あんたの可愛いオージュローをお忘れですかい?」

オージュローはこのタイミングのいい転向のおかげで、いくつかの重要な指揮権を与えられ、帝国が成立した後は、元帥杖と公爵の称号を授けられた。1805年にはオーストリア、1806年にはプロイセンを相手に活躍した。イエナの戦いでは、それまでの多くの戦場で勝利に寄与した猛勇ぶりだけでなく、誰にも負けない機動力を発揮し、彼の評判をさらに高めた。血みどろとなったアイラウの戦いでの彼は、あたかも騎士道の時代を思い起こさせるようなヒロイズムを見せた。戦いが始まったとき、彼は熱病で重度の体調不良に陥り、まっすぐに座ることができなかった。彼は従者を呼ぶと、彼を馬に乗せて、鞍に体を固定するように命じた。 こうしてオージュローは自分の軍団を招集すると、激戦にすぐさま身を投じたのである! 彼は腕に傷を負って、後退せざるを得なくなった結果、彼の部下は混乱に陥り、深刻な被害を受けた。彼の体が衰弱していたことは酌量されず、他に類を見ない努力をしたのに賞賛さなかったのは、軍団が敗北したために皇帝の不興を買ったせいだろう。征服の旗を得意げに掲げていたナポレオンは、その戦いが決着がつかなかったことに憤慨し、オージュローに怒りをぶつけた。オージュローは失意のうちに帰国した。

アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)

カスティリオーネ元帥・公爵が主人の寵愛を完全に回復するまでに時間がかかった。しかし、1809年には、サン・シールに取って代わってジェローナの包囲戦を指揮し、強硬な抵抗の末に勝利を収めた。しかし、バルセロナの近くで敗戦し、呼び戻された。その後、2年以上もの間、屈辱的な活動休止状態が続いた。 ロシア遠征の間、彼は第11軍団とともにベルリンに駐屯し、ドイツ戦役ではライプツィヒの戦いにて際立った働きを見せた。

次いでリヨンの防衛を任されたが、これは最も重要な任務であった。ナポレオンの命令は、「貴公の以前に収めた勝利を思い出せ!自分が劣勢にいることは忘れろ!」というものであった。オージェローは、オーストリアのブブナ将軍をジュネーブに退却させたが、ビアンキの堅牢な要塞とヘッセン・ホムブルク公が指揮する数で勝る敵軍の前に身を翻した。4.5万の敵兵はオージュローを追ってリヨンの門まで迫って来た。

この「フリュクティドール将軍」の変わり身の早さについては、前例があるので読者の知るところである。オージュローはここで、自分の血の最後の一滴までリヨンを守るとの決意を表明し、兵士と住民に向けて全力で抵抗するよう促し、ナポレオンへの強い忠誠心を公言した。しかし、事態は予想外の速さで進行する。帝国の運勢は刻一刻と暗転していき、元帥にとっても無関係ではいられなくなった。オージュローは何年もとは言わないまでも何ヶ月かは守るだろう予想されたリヨンを明け渡したのである。なおも彼はヴァランセに後退すると、そこで兵士たちに向けて、「アンリ4世の正統なる後継者にして、全フランス人の敬愛の対象」とのルイ18世を持ち上げる布告を出しした。凋落した皇帝についてはこう述べた。「全フランスが排除したいと願っていた忌まわしき独裁者にして、軍人として死ぬことが出来なかった姑息な臆病者だ!」

この後すぐに、フリュクティドール将軍と元皇帝は、エルバに向かう途中のヴァランセの近くで偶然にも出くわした。二人は抱擁しあったが、前者は明らかにぎこちなく、後者は冷然としていた。「王宮に行くつもりか?」とナポレオンが尋ねた。「ずいぶんと愚かな布告をしたものだな! 私を罵倒したいのか?国民が新君主を支持したのだから 軍隊の義務はそれに倣って ルイ18世万歳と叫ぶのだ、とだけ言えばよかったのではないか?」 それ対して元帥は、彼の旧主の圧政とフランスを破滅させた野心を非難すると、彼は落ちゆく主に背を向けて立ち去った。

オージェローは報酬を受け取るためにパリに急いだ。そして、聖ルイ十字勲章が与えられた。より高い恩恵を受けようと辛抱していた彼は、ルイ16世を偲んで祝われた葬儀で司会を務め、信心深い人々を仰天させた。これを機に、彼はフランス貴族となった。7月、リヨンの国民衛兵駐屯軍のための催しに出席していたオージェローは、「私たちの愛する国王であり父であるルイ18世」との祝辞を述べる役を果たし、その後すぐにノルマンディーの第14師団の司令官に任命された。

オージュローがノルマンディーにて師団とともに駐留している時、ナポレオンのカンヌ上陸の報がもたらされた。彼はナポレオンの布告のうち2つで、自身が公然と裏切り者呼ばわりされているのを知った。カスティリオーネ公爵は沈黙を保った。かつて総裁政府のために働いた彼は、状況の経過をじっくりと窺うことにした。ナポレオンがパリに到着し情勢は決したと見た彼は、兵士たちに布告を発する時が来たと考えた。「皇帝は首都にいるぞ!戦勝の証たるその名前を聞くだけで、敵は駆逐されるだろう。幾ばくかの間、彼は運勢に見放されていた。祖国の幸福のためという崇高な思いから、自分の栄光と帝冠を犠牲にすることがフランスへの義務だと信じていたのである。彼の王権は無効化できるものではなく、彼はそのこの上なく神聖な権利を取り戻しにやって来たのだ。かつて幾たびも諸君を栄光へと導いた不滅の鷲の旗を頭上に掲げ、いま一度進軍せよ。」しかし皇帝は、数ヶ月の間に二人も主君を裏切り、しかもその際に、背信が常であったその時期においてもセンセーションを巻き起こすほどの無礼な布告を行なった人物をもはや信用することはできないと考えた。軍の指揮官にも貴族院の議員にも就けなかったオージェローは、田舎に引きこもることを余儀なくされ、ルイ18世が再度復位すると、再度国王に向けて熱烈な支持者である旨アピールした。しかし、国王は彼に耳を貸さず、以前同様に軽蔑と笑いの対象となった彼は再び田舎に逃げ込み、1816年6月12日に死去するまでそこにいた。

この元帥の軍歴を見ても、燃えるような不屈の勇気以上に称賛すべき点はほとんど見当たらず、彼の個人的性質は、あらゆる面から見ても忌まわしいものであったように思われる。

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