2017年5月21日日曜日

ジュールダン 補記

帝政期よりも革命戦争で活躍した人物であるが、初版ではいまいちその辺りが伝わらない。他方、改訂版では加筆されており、司令官として有名なワッチニーやフリュールスの戦いで勝利を収めたことが触れられている。また議会では熱烈なジャコバン派軍人として、王党派や宗教界よりのピシュグリュやカミーユ・ジョルダンに対抗し、フリュクチドール18日のクーデターにおいては「剣にかけて」共和政に忠誠を誓ったことが述べられている。そして何よりも重要な、国民皆兵への道を開く画期的な『1798年の徴兵令(ジュールダン法)』の制定に彼が関わったことを書き漏らしていない。オーストリアのカール大公にシュトックアハの戦いで打ち負かされたが、それは総裁政府の軍事作戦の無知によるものとの彼自身の意見も紹介している。

フリュールスの戦い(1794年)

個人的に興味深かったのは、改訂版におけるブリュメール18日の出来事として、セント・ヘレナのナポレオンが当時を振り返って、
「ジュールダンらは私に軍事独裁を取るよう勧めた」
と発言したことに対し、ジュールダンの
「ボナパルトは16日に私を晩餐に招待した。席を外した際に我々は話をした。その内容はいずれ他のブリュメール18日に関連する文書とともに出版されるだろう。その時にわかるだろうが、あれから数日後の追放者リストに私の名があるとしたら、それはあの将軍が最高権力を濫用すると予測し、私は決して彼の手助けはしないと宣言したからだ。彼が曖昧な口約束でなく、民衆の自由を積極的に保証しない限りは。もし軍事独裁を勧めていたのなら、私はもっと良い扱いを受けていたはずだ」
との反論を紹介している箇所である。

元帥任命以降の描写は大きくは変わらないが、1830年に七月王政が樹立されると、ルイ・フィリップ(かつてジュマップで共に戦った)から廃兵院の長官に任命されたことが追記されている。

実際のところ、軍指揮官としての彼は政府上層部にかなり翻弄され続けた。北方軍司令官の時には公安委員会に目をつけられ、あわや逮捕されそうになるわ、サンブル・エ・ムーズ軍司令官の時はカルノーやサン・ジュストに尻を叩かれるわ、1796年の戦役が失敗に終わった根本的な原因は政府から押し付けられた無茶苦茶な作戦にあるのに、スケープゴートとして責任を取らされるわ、散々である。ジョセフ・ボナパルトの軍事顧問として共にスペインに行ったが、他の元帥連中はナポレオンからの直接指示を仰ぐ一方、ジョセフにも彼にも注意を払わなかった。ただし人柄は寛容で、生涯にわたって自由主義者であり続けたと言われる。それをナポレオンも認識していたのか、セント・ヘレナにて「私はこの人物をひどく扱った。彼こそ真の愛国者だ」と(珍しくも)改悟している。

老ジュールダン

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