2017年5月15日月曜日

1-20-a ユーグ=ベルナール・マレ(2)

セモンヴィル
パリ帰還の直後、彼はナポリ王宮への全権使節に任命された。1793年の7月、彼はコンスタンチノープル大使のセモンヴィルと共に目的地に向けて出発したが、両人ともオーストリア人に捕まり、マントゥアの牢獄に収容された。これは国家の主権侵害とは見なされなかった。フランスは共和国として認可されておらず、従って彼らは公人の身分を有していなかった。彼らに対する認識はつまるところ、隣国に反乱の火の手をつけて回るゴロツキの一団以上でもそれ以下でもなかった。また、オーストリアがこのような仕打ちをする特別な理由があった。時のオーストリア皇帝の叔母[マリー・アントワネット]は監獄に収容中で、処刑された彼女の夫君と同じ運命をまさに辿ろうとしていたからだ。

マレが収容された牢獄の衛生環境は劣悪で、彼の健康は深刻な被害を受けた。偶然にも、また偶然以上に名誉なことに、彼はより健康的な場所へと身を移すことができた。著名な医者である彼の父は、実証哲学の分野でも際立った成果を残しており、かつては欧州中に名声を轟かせていた。マントゥア学術院の総長であるカステラーニ教授は若きマレが収容されている事を聞きつけ、学術者から構成される代理委員会の議長として当局にかけあい、科学の世界で名を良く知られた人物の息子を解放してもらう許可を得た。彼らの仲裁によって、彼と彼の共連れ達はより空気が清浄で快適な牢獄があるチロルのクーフシュタイン砦へと身柄を移された。以前より厳戒な監視下に置かれたが、彼らの健康は急速に回復していった。


この砦での退屈な時間から逃れるために、マレは日々を著述に費やした。彼には物を書くにあたり必要な材料を持ってなかったが、彼の化学の知識がインクになる素材の生成を可能にした。彼は部屋の隅に古いペン軸があるのを見つけ、また看守から請い受けるか盗むかして紙を数枚入手した。これらの数枚の紙と、使い古したペン軸によって、彼は実際に喜劇を2、3作と、5幕から成る悲劇を書き上げたのである。これだけではない。彼は石炭の端くれを用いて、彼の牢屋の4つの壁を科学に関する論文で埋め尽くしたのである。このような逆境の中で著作が与えてくれる慰めの実例を目にできるとは喜ばしい限りである。

オーストリア軍に連行される2人
22ヶ月に及ぶクーフシュタインでの収容生活の後、マレとその仲間、そしてデュムーリエが明け渡した共和政府の代表団たちは、マリー・テレーズ王女(後のアングレーム公爵夫人)との捕虜交換によって解放された。これは1795年の12月の出来事で、翌年早々にマレとセモンヴィルはパリへ帰還した。前者は疑いもなく、3年近くにも及ぶ収容生活の後なので、何らかの見栄えが良く実入りの良い地位に即座につけるのではないかと期待した。しかしながら、総裁政府はこの二人の大使が勇気と節度で持ってしてフランスの名声を高めたとの判断を行うにあたり対応に苦慮させられた。彼は国王殺しに手を下した者達からの感謝もしくは正義を求めた愚直さによって当然のごとく処分を受けた。1年半もの間彼は無職で過ごし、あまりに貧乏なため然るべき必需品にも事欠くようになった。もし総裁政府が、彼がイギリス政府関係者数名と知己を得ている事を思い出し、それゆえ計画中のリールでのマルムスベリー卿との交渉に彼が役に立つと気づかなければ、彼の苦境はより長引いた事だろう。よって彼はリールに向かったが、フリュクチドール18日の政変は、イギリス政府に1日も安定したところない政府と交渉する事の不可能さを確信させたのみならず、総裁政府内の反和平派をより強化させた。彼は呼び戻され、再び無職となった。しかし彼の不遇は、ミラノ評議会が捕虜生活による損失の補償として付与した15万フランによって慰撫された。この結構な贈り物はボナパルトの勝利の賜物であり、フランス・イタリア政府のいずれからの好意に因るものではなかった。

クーフシュタイン砦

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