2017年5月5日金曜日

1-03-b-02 レティツィア・ボナパルト(2)

母后レティツィア
レティツィア夫人の節約好き以外にも、彼女が慈善にも喜びを感じていたことを紹介せねば不公平だろう。施しや損害を受けた者への手当てを促す為にしばしば息子を訪ねており、その尽力が成功した時にはいつも喜んで、急いでその成功を享受者たちに伝えに行った。

ジョゼフィーヌからアンギャン公逮捕の情報を知らされた際、トゥイルリー宮殿に飛んで行くと、母親が持ちうるあらゆる権限を第一統領に対して発揮しようとし、更には彼の膝に取り縋ってこの不幸な王族への慈悲を哀願した。彼女はナポレオンがフォンテーヌブロー城で教皇にした仕打ちを不満に思い、弟のフェッシュ枢機卿にこう述べた。「あなたの甥はこのままで行ったら、本人も私たちも破滅させるだろう。あの子は今いる所で止まるべきだよ。あまりに多くを手に入れようとすると、あの子はいつか全てを失ってしまう。私は家族みんなに注意を喚起しているわ。雨の日に向けて構えておくのが正しいとね」。事実、彼女の性格をよく知る機会を得た人々は、彼女の貯蓄好きは強欲による過剰な用心深さに多くを由来するものでは無いと主張した。彼女は一時期の困窮がもたらした恐怖を覚えており、息子が急激に栄達していく間も、その恐怖はいつも彼女の心に取り付いていた。「誰も知る由もないだろうが、私はいつかこの王様たち全員にパンを与えるようになるだろうね」。そしてナポレオン自身が証言している通り、彼女は子供達にひそやかに多大な援助をしていた。

往往にしてレティツィア夫人は、相当なプライドと気位の高さが組み合わさった、尋常ならざる気力を発揮した。ナポレオンが帝位を僭称して間もない頃、たまたまサン・クルー宮殿の庭で母親と出くわした際、半ば冗談、半ば真剣な気分で、彼女に接吻するよう手を差し出した。彼女は憤然としてその手を跳ね返すと、自らの手を差し出し、従者たちの前でこう叫んだ。「産んだ者の手に接吻するのがあなたの義務よ」。ナポレオンは即座に足を進めて手を取ると、愛情を深く接吻した。

1814年4月、連合国軍がパリに進軍してくると、母后はマリア・ルイーザとその廷臣たちに伴ってブロワに向かった。そこでは、彼女はいつも通りに慎重さと分別を発揮し、未払いとなっていた彼女への手当金が375,000フランと告げられた時、その夜には大部分の従者を解雇した。

パリ条約の締結によって、彼女はかろうじて「母后」の称号の保持でき、フランスの名の下に保証された20,000フランの年金が付与されることになった。その年の8月、2人の女官と家令のコローナ氏と共にエルバ島の息子の後を追い、15日の息子の誕生日の記念舞踏会の主宰者となった。

ナポレオンがエルバ島を脱出すると、母后はローマに戻り、以降その街に落ち着いた。その時から死に至る間の間、彼女の心はある一つの人物—かつて栄光の絶頂時にその高慢を彼女が窘めた者—のことだけで占められていた。彼がワーテルローで決定的な敗北を喫した後、すぐさま彼女はこの世で持ちうる全てを与えて彼の再興を援助した。ナポレオンはこう述べた。「私の為ならば、母は不平を言わず、黒パンで食いつなぐまでに落ちぶれるようとする。彼女の心は依然として高尚な気運に支配されていた。誇りと高邁な向上心は貪欲によって侵食されていなかった」。


セント・ヘレナ島にてナポレオンが母親について述懐した内容は、ラス・カーズ伯が欧州に帰還した後に著作にて明らかにした。彼が元皇帝の身の上を詳細にするやいなや、「彼女の全財産は息子が自由に使える」と使者から返答を受けた。1818年の10月、彼女はアーヘン会議に集う君主たちに愛情の込められた手紙を送り、ナポレオンに代わりこう訴えた。
「君主の皆様、私は一人の母親で、息子の命は自分より大事なのです。各国の陛下方もご存知のように本質が善なるわが息子に代わりまして、何とぞ彼の不幸を終わらせ、自由の身にして下さるよう懇願いたします。その為には、私は神にも、地上における神の代理たる君主の皆様にも哀願する次第です。国家的理由には限度があります。そして不滅をもたす繁栄は何よりも征服者の寛大さを崇敬するものです」。

さらに、1819年にナポレオンが病状の深刻さがどうであろうとも、絶対にイギリスの医者にかからないと決定し、またカトリックの僧侶を供連れとしたいと望んだ際、フェッシュ枢機卿が選び、教皇ピウス6世の承認を得た、アントマラッチ医師、敬虔にして善良なるボナヴィータ神父そしてヴィニャーリという名の聖職者からなる一団をセント・ヘレナに派遣する費用を喜んで支払った。


ボナパルト宮殿
(旧ファルコーネ宮殿)、ローマ
レティツィア夫人は弟のフェッシュ枢機卿と共に、ファルコーネ宮殿に住んだ。見事に整えられ、通常のイタリアの家よりも小綺麗さと快適さに気が配られた広い区画に彼女は居住した。彼女の住まいは壮麗だったが、公けにされず人目にもつかなかった。彼女はそこで隠居暮らしをし、とりまく人々も数名の親密な友人のみだった。ローマに住まう彼女の子供たち、孫たち、ひ孫たちは飽きることなく彼女に心づかいをした。彼女はもう80才になるが、未だにかつての美貌の名残を留めている。カノーヴァの手による彼女の胸像は、モデルに素晴らしく類似していると共に、賞賛すべき芸術の見本であると見なされている。
レティツィア像
(カノーヴァ作)



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