2017年5月7日日曜日

1-04-b フェッシュ枢機卿

フェッシュ枢機卿
レティツィア・ボナパルトの母は、最初の夫と死別したのちに、たまたまコルシカに駐屯していたフランソワ・フェッシュというフランス王国軍のスイス人連隊の大佐と再婚した。彼はバーゼル出身でプロテスタントだったため、彼女との結婚するにあたりカトリックへの改宗を求められ、それに従った。

 ナポレオンの叔父のフェッシュ枢機卿はこの再婚によって生まれた子供である。彼は1763年1月3日にアジャクシオに出生し、13才になってプロヴァンスのエクスにある神学校に送られるまでアジャクシオで暮らした。神学校には1789年に教皇によってアジャクシオ聖堂の助祭に任じられるまで在籍した。この助祭の座は、ナポレオンの大叔父リュシアン・ボナパルトが辞任して以来空席となっていた。


ナポレオンがフランスにカトリックの再導入に成功すると、彼の叔父フェッシュはコンコールダート(政教協約)の締結直後にリヨンの大司教となった。1802年の8月、彼は教皇の遣外使節のカパラによって聖別を受け、翌年のはじめ頃には枢機卿の赤帽を献じられた。


ローマの教皇庁との関係は一新され、フェッシュ枢機卿は大使として赴任した。誰もこの赴任を「キリスト教徒的信仰の美徳」の表れとして賞賛する者はいないだろうと考えたナポレオンはシャトーブリアン子爵を大使館の筆頭事務官とした。ローマ教皇からフェッシュは立派なもてなしを受ける。このキリスト教世界の首都に滞在している間、彼は宮殿で音楽会を開催し、時には受難節であっても、同じ聖職者の仲間たちを招待した。しかし、ラ・ソマーリア教皇代理枢機卿からの通達によって、大部分は出席を拒否した。


フェッシュとナポレオン

1804年、フェッシュは教皇に伴ってパリに向かい、甥の戴冠式の補助を行った。翌年に大施物分配人に任じられ、レジオン・ド・ヌール大勲章を授けられ、またロトの選挙区に選ばれて議席を得た。彼はスペイン国王からも金羊毛勲章を授与された。1806年、大主教が彼を補佐司教かつ後継者に任じた。そして1809年、彼はパリ大司教に任命される。このような高位にも関わらず、フェッシュ枢機卿はフランス皇帝と教皇との間にそれまでにあった紛議を理由として、これらを拒否するのが義務と見なしていた。1810年にフランスの首都の聖職者評議会の主席に選ばれると、ナポレオンの教皇への荒々しい仕打ちに対して断固として反対したことは万民を驚嘆させる。この立派な行為は善良な人々からの敬意を得たが、彼にとっては不利益な結果をもたらす。ナポレオンは叔父をリヨンへ強制的に追いやると、大主教からフェッシュへ与えられた恩典への手配を却下した。

1814年1月にオーストリア軍がリヨンに迫ってくるまでこの状態は続いた。この時枢機卿は、血縁への愛情と愛国心とを秤にかけると、胸のうちで前者がより重みがあると判断し、司教座を辞してロアーヌの当局の後を追った。しかし、彼が言うところの「敵の接近に対して自己防衛をしない驚くべき愚行」をしたリヨン市民に裏切られたとの冷淡な思いは愉快なものではなかった。

ロアーヌからかつてプラディーヌで見つけた修道院に向かったが、そこに着くや否やその退去先を放棄させられ、あわや敵の騎兵分遣隊によって捕らえられそうになった。実際、枢機卿猊下のすぐ近くまで敵が迫ってきたので、彼は大慌てで馬に乗ると全速力で馬を走らせて逃げ出した。オーヴェルニュ、低ラングドックそしてヴィヴレの山地を横切ると、フェッシュ氏は疲労でもうへとへとだったが、運良くブロワにたどり着いた。そこではマリア・ルイーザと廷臣たちがちょうどオルレアンに向けて出発しようとしていた。しかしながら彼は逃亡者の列に加わることを選び、最後に言及された街にて降誕祭の日曜日と月曜日の休息を取ると、姉のレティツィア夫人と共にローマに向けて出発した。ローマでは、旧友たる教皇ピウス6世から心のこもった応対を受けたことで彼のこれまで疲労はすぐに解消された。

フェッシュの胸像
(カノーヴァ作)
この時期以降、フェッシュ氏は大いに身を潜めて不安な日々を過ごした。だが、ナポレオンがエルバ島から脱出したと聞くや否や、彼は宮殿の扉を開けると新たな生活を再開する。彼はいつになく陽気で、豪奢な夜会を開催し、おおっぴらに甥のフランスへの帰還は神の摂理の特別な計らいと表明した。ナポレオンがパリに近づくと、枢機卿はローマを去って同地に向かい、ワーテルローの戦いのわずか2週間前にボナパルトの貴族院の一員とされた。だが、彼のフランス滞在は短期で終わる。国王の2度目の帰還にあたり、枢機卿は慌ててローマへの帰路に踏み出した。以降ローマにて彼は聖下の恵み深い政府の庇護の下、平穏に暮らしている。リヨンの大司教座を辞任するよう繰り返し懇願されても、彼は即座に拒否している。また補佐司教の任命も行おうとしない。かつてナポレオンが権力の頂点にいた時、教会を侵害していたことに強固に反対し、犯罪に追従するよりは自発的な不面目を被る方を選んだ高位聖職者のものと思えば、この頑固さは驚かれないだろう。板挟みになったローハン大修道院は最近になってリヨン大総代理を任命した。

甥が皇帝の座にあった時、フェッシュ枢機卿は惜しみなく浪費した。とりわけ芸術作品に対しては、賢明かつ気前の良いパトロンとして、金を振りまいた。彼の画廊は住まいの優雅な宮殿の3層を占めている。なべて14,000点以上から成るコレクションはローマにおいて最上かつ最多の物である。多くはイタリアの一線級の巨匠の作品であるが、フランドル派やオランダ派の作品も極めて豊富に所蔵している。

枢機卿は宮殿を見たいと思う訪問者全てに気前良くそして愛想良く接している。人となりは、背は高いが堂々としたところは無く、作法に威厳は無いかもしれないが、少なくとも尊大では無く、髭の無い落ち着いた容貌をしており、整っていて恰幅が良く、上機嫌さと恵まれた境遇にいることに起因する物腰の良さが彼の体の節々に備わっていると描写されている。

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