レティツィア・ボナパルト |
若い頃のレティツィア |
生まれる前の出来事を口にする時、いつもナポレオンは彼の母親が疲労と危険を物ともせず持ちこたえた勇気と胆力を賞賛した。「彼女は女の双肩の上に男の頭を持っていた。導き手も守る者もいない中、彼女は揉め事に自ら対処しなくてはならなかった。その負担は彼女の力量にとって大した物では無かった。彼女はすべての事をその年齢と性別には似つかわしくない賢明さで取り仕切っていた」。
レティツィア夫人は35歳になるばかりで未亡人となったが、夫との間に13人もの子供を産んでいた。うち5人の息子と3人の娘が父親より生きながらえた。息子とは、一番目がジョセフ、後にナポリおよびスペイン国王に成りおおせる。2番目がナポレオン本人。3番目がリュシアン。4番目がルイ、後のオランダ王である。5番目がジェローム、後にヴェストファーレン国王になる。娘とは、1番目がエルザ、後にトスカーナ大公妃になる。2番目がパウリーヌ、後にボルゲーゼ公妃となる。3番目はカロリーヌ、後のナポリ王妃である。
1793年、パオリがコルシカをイギリスの手に明け渡すと公言した時、ボナパルト家は引き続きフランス派の頭目であり続けた為、押し寄せる住民たちによって生命の危険に晒された。すなわち、一家は国民招集をかけられて攻撃されたのである。数千の農民たちがアジャクシオの山中から急襲してきた。一家の住居は略奪された。ナポレオン(たまたま母を訪ねにコルシカに来ていた)と兄弟のジョセフとリュシアンは生まれ故郷からの追放を命じられ、ボナパルト夫人は3人の娘と共に、まだ子供のジェロームを連れて息子たちに守られて船出した。最初にニースに、その後マルセイユに落ち着いたが、この頃一家は困窮による過酷なまでの不自由さに耐え忍ばなければならなかった。
幸運の最初の兆しが見え始めた頃からナポレオンの母親に向けた愛着は顕著なもので、常に自らの利益の取り分をレティツィア夫人にも分け与えていたため、彼女の境遇は比較的困窮した状況から安楽した身分へと急速に向上していった。ナポレオンを統領政府の筆頭に押し上げた1799年11月の政変の直後、ボナパルト夫人は子供達と共にパリに転居し、世間から身を引いて暮らした。1804年に彼女の息子が皇帝即位を宣誓した時まで、彼女が世間の注目を集めることは無かった。そして彼女は『母后』の称号と共に100万フランもの収入を手にする。カッセ・ブリザック伯爵が彼女の家令に、カーズ氏(後にルイ18世のお気に入りの大臣となる)が執行機関の長官に任命された。そして、彼女に政治的影響力の一片を行使させる為に、フランスの全ての慈善団体の『万民の庇護者』とされたー実に君主の母に相応しき役職と言えよう。
同年、リュシアンがフランスを去った際に、彼女は彼の豪奢な居館を引き継いだ。そこでは、彼女の息子が採用した王侯貴族のような生活スタイルは、揺るぎない倹約主義にとって代わられた。彼女の元に倹約の指南を求めて集まってくる人々に、彼女は必ずこう答えていた。「リュシアンは身を落ち着かせていないのよ。あの子は自分の子ども達に財産を残してあげられないから、私は代わりを務めないといけない。そうじゃなくても、倹約するのは正しいことよ。だって何が起きるか分からないからね」。ただ一人を除いて彼女の息子達がみな玉座に着いても、彼女はリュシアンの為ならば、その中で最も権力を有する息子に対し口出しするのを厭わなかった。ある日、とある人物はナポレオンから「母は家族の中の誰よりもリュシアンを愛しているのだ」と告げられたという。「私が一番大好きなあの子はいつも一番不幸に見舞われている」と彼女は口にした。この言葉の真実の如何は、ナポレオンが数年後に周到かつ不足なく証明する。
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