2020年5月20日水曜日

プロイセン 軍人(10)ヨハン・アドルフ・ティールマン(1765-1824)

ヨハン・アドルフ・ティールマン(Johann Adolf Thielmann )は、ザクセン王国の首都ドレスデン生まれのプロイセン軍人である。1782年にザクセン連隊に入隊し、ライン方面の戦いで活躍し、1806年のイエナの戦いではプロイセン側についた。その後、ザクセンからナポレオン1世の大使として派遣され、ナポレオン1世の熱烈なファンとなり、フランコ・サクソン同盟の実現に尽力した。1807年にはフランス軍に少佐として仕え、同年にはフリードランドで戦い、少将としてザクセンでオーストリア軍と戦った。1812年のロシア遠征では騎兵旅団を指揮し、ボロディノの戦いでの並外れた勇敢さが評価されて男爵に任命された。1813年初頭にトルガウの司令官だった際、対仏連合側と連絡を持ち、ザクセン王からフランスに町を明け渡すよう命じられたとき、司令官を辞任して対仏連合側についた。彼は1814年のフランス侵攻に参加したサクソン軍団の指揮を任された。続いてプロイセン軍に入隊(1815年)し、リニーとヴァーブルの戦いで第三軍団を率い、ワーテルローの勝利に大きく貢献した。

=参考文献=
The New International Encyclopædia(1905)

2020年5月19日火曜日

プロイセン軍人(9)フリードリヒ・ルートヴィヒ、ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯 (1746–1818)


ホーエンローエ侯(Friedrich Ludwig Fürst zu Hohenlohe-Ingelfingen) は1746年に生まれ、1806年のプロイセン戦役において、プロイセン軍の司令官としてナポレオン率いるフランス軍に対抗したことで知られる。 1792年の対仏戦争では師団を指揮し、1793年にはオッペンハイム、ピルマーゼンツ、ホルンバッハの戦いで優秀な成績を収めた。1794年にはカイザースラウテルンで勝利を収め、エムズ川中立線の指揮を執り、1804年にはフランケン公国の総督、ブレスラウの総司令官となった。1805年にプロイセン軍がフランケン地方に接近すると、サーレとトゥリンジアの森の間で軍団を指揮し、1806年の戦争では、ルイ・フェルディナンド王子の指揮下にあった先衛軍を率いてサーフェルトで敗北した。イエナの戦いでフランス軍に負けた後、彼は退却を指揮し、マグデブルクで彼の下に集結したプロイセンの大軍の残党をオーデル川に導いた。しかし、ブリュッヒャー将軍の陣地から遠く離れていたため、両軍は合流できなかった。騎馬隊もなく、歩兵も疲労困憊していたため、1806年10月28日、プレンツラウで17,000人の兵力で降伏することを決意した。 その後1818年2月に死去した。

2020年5月18日月曜日

プロイセン軍人(8)クライスト・フォン・ノレンドルフ(1762 – 1823)


フリードリヒ・エミール・フェルディナンド・ハインリッヒ・グラフ・クライスト・フォン・ノレンドルフ(Friedrich Emil Ferdinand Heinrich Graf Kleist von Nollendorf )は、1762年にベルリンで生まれ、1778年の戦いに従軍し、その勇気と軍事的才能によって出世し、1803年にはプロイセン国王への報告役を務める副将に任命された。シルの蜂起の後、ベルリンの司令官に任命されたが、これは当時は才能と技術が必要なポストと見なされていた。1812年のロシア遠征では、クライストはナポレオンの大陸軍の予備軍であるプロイセンの軍団の一つ指揮した。1813年5月20日のバウツェンの戦いでは傑出した活躍を見せ、その後の休戦協定を締結した全権交渉者の一人となった。ドレスデンの戦い(8月26日)でナポレオンに負けて、対仏連合国軍がドレスデンからボヘミアへの撤退を余儀なくされると、クライストは撤退に従ったが、フランス軍のヴァンダム将軍率いる4万の兵力にクルムで追いつかれた。クライストは軍を降伏させるか、生死を賭けた戦いをするしかなかった。彼は大胆な策を取ることにして、山からヴァンダムの背面に身を投じ(8月30日)、ノレンドルフの村で勝利を収めた。彼の成功により、ナポレオンに押されていた連合国軍を救うことができた。その後、クライストはノレンドルフの名で知られるようになった。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収めた。1814年2月14日、フランスのジョインヴィリエで勝利を収め、3月29日のクレーでの交戦では、旅団を率いて自ら直接攻撃を行った。1821年に死去。

The British Cyclopedia of Biography: Containing the Lives of Distinguished Men of All Ages and Countries, with Portraits, Residences, Autographs, and Monuments, 第 2 巻

2020年5月17日日曜日

プロイセン軍人(7)カール・フォン・グロルマン(1777-1843)



カール・ウィルヘルム・ゲオルグ・フォン・グロルマン(KARL WILHELM GEORG VON GROLMANN)はプロイセンの軍人で、1777年7月30日にベルリンで生まれた。13歳で歩兵連隊に入隊し、1795年には旗手、1797年には少尉、1804年には中尉、1805年には大尉補となった。下士官としてシャルンホルストの側近となった彼は、1806年のドイツ戦役以前より、その精力的で大胆不敵な性格で知られ、イエナの戦いからティルシットの和平に至るまで参謀として従軍し、戦功により少佐の称号を得た。ティルジットの和約とプロイセンの崩壊後は、軍の再編成(1809年)でシャルンホルストの助手の一人として活躍し、トゥゲントブント(※1)に参加し、フェルディナント・フォン・シルの失敗に終わった蜂起(※2)に参加した後、オーストリア軍に参謀少佐として入隊した。その後、ナポレオンとの戦いでスペイン軍を助けるためにカディスに渡り、1810年にはヴィクトル元帥との戦いで義勇兵を率いて同港を防衛した。アルブエラの戦い、サグントゥムの戦い、バレンシアの戦いに参加し、そこで降伏して捕虜となった。しかし、すぐにスイスに逃れ、1813年の初めに参謀本部の少佐としてプロイセンに戻った。1813年の戦役では、ドルフス大佐とクライスト将軍の下でよい働きをし、またロシア軍のバラクライ・ド・トーリー将軍の司令部付として派遣された。クルムの戦いではクラインストとともに勝利に貢献し、ライプツィヒの戦いでは重傷から回復して出陣した。1814年のフランスでの戦いでは目立った活躍をし、その後少将に任命された。そして、ブリュッヒャー元帥の補給担当将軍となり、1815年のワーテルローの戦いでのプロイセン軍の指揮において、ブリュッヒャー、グナイゼナウに次いで、グロルマンは最も大きな役割を果たした。1815年6 月18 日のワーテルローの戦いの最終局面、プロイセン軍内でウェリントン軍の支援に向かうべきか意見が割れた際、グロルマンは積極的に同意した。プロイセン軍がワーテルローに近づくにつれ、ブリュッヒャーとグナイゼナウは一瞬ためらいを見せたものの、グロルマンが自ら前進命令を出すことで戦況を変えたと言われる。1815年の和平後、グロルマンは陸軍省と参謀本部で重要な地位を得た。彼の最後の公務はポーランドでの総司令官職で、実質的にはポーゼン県の行政管理だった。1837年に歩兵大将に昇進し、1843年6月1日にポーゼンで死去した。彼の二人の息子はプロイセン軍の将軍となった。プロイセン第18歩兵連隊は彼の名を冠している。
フォン・グロルマン将軍は、フォン・ダミッツの『Gesch. des Feldzugs 1815』(ベルリン、1837-1838刊)や『Gesch. des Feldzugs 1814 in Frankreich』(ベルリン、1842-1843刊)などの多くの書物を監修し、世に出した。

※1ナポレオンに敗北したプロイセンの国民精神を復活させるために、1808年6月に設立された準フリーメーソンの秘密結社
※2プロイセン軍のシル少佐率いる義勇軍「シル猟兵団」らによる、シュトラールズンドにおけるナポレオンの支配に対する武装蜂起。鎮圧されシルは戦死し、また部下の士官らは処刑された。

=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 12巻(1911)

2020年5月16日土曜日

プロイセン軍人(6)ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(1759–1830)


ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(Johan DAVID LUDWIG YORCK VON WARTENBURG)は、1772年にプロイセン軍に入隊したが、7年間の務めたのちに、不服従のため罷免された。3年後にネーデルラント軍に入隊し、1783年から84年にかけての東インド諸島に向けた遠征に大尉として参加した。1785年にプロイセンに戻ったヨルクは、フリードリヒ大王の死後、ようやく軍務に復帰し、1794年にはポーランド戦役に参加し、特にシュチェコチニの戦いで活躍した。その5年後、ヨルクは軽歩兵連隊の指揮官として名を馳せ始め、散兵の訓練に力を入れた最初の一人となった。 1805年には歩兵旅団の指揮官に任命され、悲惨に終わったイエナの戦いでは、後衛の指揮官として特にアルテンザウンで目立った活躍をした。 彼はリューベックにおけるブルヒャー軍団の最後の戦いで重傷を負い、捕虜となった。ティルジットの和約後に始まったプロイセン軍の再編成では、ヨルクはその中心人物の一人となった。最初は西プロイセン旅団長、後に軽歩兵総監を務め、最終的にはグラーヴェルト将軍の副官に任命された。彼は1812年のロシア遠征にてフランスによりプロイセンが派遣させられた予備軍団の指揮官に任じられていた。グラーヴェルトはフランスとの同盟を公然と支持し、ヨルクは熱烈な愛国者であったため両者は衝突したが、間もなくグラーヴェルトは引退し、ヨルクが指揮を執ることになった。リガへの進撃では、ロシアのシュテインゲル将軍に対抗して、彼は一連の戦闘で優れた技術を発揮し、敵軍をリガへの撤退に追い込んだ。この戦役を通して、彼はロシア側の将軍たちから何度も誘いを受けた。ずっと拒否していたが、やがてフランス軍が劣勢にあると気づく。彼の直属のフランス軍上官であるマクドナルド元帥は、ロシアのディーピッチュ軍団の前から退却し、ヨルクは孤立していた。軍人としての彼の義務は包囲を突破することにあったが、プロイセン愛国者としての彼の立場はより複雑だった。ドイツ解放戦争を引き起こすに有利なタイミングを見計らわねばならず、下士官たちの熱意がどうであれ、ヨルクは勝手なことをしては自分の首が無事で済むと思っていなかった。12月30日、将軍は決心した。タウロゲン条約をロシア軍と締結してプロイセン軍を「中立化」したのである。このニュースはプロイセン国内で熱狂を引き起こしたが、プロイセン政府はまだ表面的には素知らぬ風で、ヨルクを指揮官から停職処分とし軍法会議を待つ旨命令を発した。ロシアのディーピッチュはヨルクを自分の陣地を通過させることを拒否したが、カリシュ条約によってプロイセンが対仏連合側につくことが確定したため、ヨルクは最終的に無罪放免となった。 ヨルクのこの行動はプロイセンの歴史の転換点となった。彼の元に古参兵たちが東プロイセン軍の核となり、ヨルク自身が公にの軍の司令官として宣言することで決定的な解放戦争への一歩を踏み出したのである。1813年3月17日、ヨルクは愛国心に溢れた歓喜の中、ベルリンに入国した。同じ日にプロイセン国王はフランスに宣戦布告した。1813年から14年の間、ヨルクは古参兵を率いて大成功を収めた。バウツェンの戦いの後のブリュッヒャーの退却を援護し、カツバッハの戦いでは決定的な役割を果たした。ライプツィヒに向けて進軍する間、10月4日のワルテンブルクの戦いで勝利し、10月18日の大決戦にも参加した。フランス戦役では、ヨルクはモンミライユの戦いでロシアのサッケン軍団を壊滅から救い、ランの戦いで勝利に決定的な役割を果たした。パリ攻撃が彼の最後の戦いだった。 1815年の戦いでは、ブリュッヒャー軍には年長者は一人も採用されなかった。これは、プロイセンの将軍の中で最も優秀なグナイゼナウが、ブリュッヒャーが戦死した際に、気兼ねすることなく指揮を執ることができるようにするための措置であった。ヨルクはプロイセンの予備軍に任命されたが、自分が必要とされなくなったと感じ、軍を退役した。プロイセン国王はしばらく辞表を受け取らず、1821年にヨルクを陸軍元帥に任命した。彼は1814年にヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵になっていた。彼の人生の残りを、国王から贈られたクラインエールズの所有地で過ごした。彼は1830年10月4日にそこで死亡した。1855年にベルリンで彼の像(ラウチ作)が建立される。

2020年5月15日金曜日

プロイセン軍人(5)カール・フライヘル・フォン・ミュフリング(1775-1851)



フリードリヒ・カール・フェルディナンド・フライヘル・フォン・ミュフリング( FRIEDRICH KARL FERDINAND Freiherr von MÜFFLING)は1775年6月12日に生まれ、1790年にプロイセン軍に入隊する。1799年にはライプツィガー中尉が編集した軍事辞典に寄稿し、1802年から1803年の冬には下士官として、新たに結成された参謀本部の 「主計大尉」に任命された。ミュフリングは天文学者F.X.フォン・ザッハ(1754-1832)の下で測量を任されることになった。1805年、フランスとの戦争に備えて軍隊が戦時体制に入ると、ミュフリングは大尉に昇進し、フォン・ワルテンスレーベン将軍、ホーエンローエ公、ブリュッヒャー将軍の参謀に相次いで任命された。1806年には、ザクセン・ワイマール公、ホーエンローエとブリュッヒャーに仕え、ブリュッヒャー軍団と共にフランス軍の捕虜となった後、ワイマール公の下で民政官となった。1813年に解放戦争が勃発すると軍に復帰し、シレジア軍の司令部に配属された。ミュフリングの仕事ぶりと堅実な判断力は高く評価された。とはいえ彼とグナイゼナウの間には性格の違いからしばしば摩擦が生じた。とりわけ彼がイエナの戦いの大敗北の原因となった古風な「地形学」的アプローチを行なう戦略家の代表であったことも摩擦の要因となった。パリ占領から百日戦争までの間、ミュフリングはロシアのバークレイ・ド・トーリー将軍とクライスト・フォン・ノレンドルフ将軍の参謀長を務めた。ワーテルローの戦いではウェリントン公爵の司令部付として派遣され、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍との連絡役となった。ナポレオンの再退位後は、フランス占領軍の参謀を務め、数ヶ月間はパリの軍事総督を務めた。ライン川では測量の仕事に従事し、フリードリヒ・ウィルヘルム3世の外交使節団にも採用された。1821年にはベルリンの参謀長に就任した。彼は軍事訓練を脇に置いて地形学の仕事に没頭していたと非難されたが、参謀システムの組織化をやりとげ、かつ精緻で実用的な測量成果をあげたので、無駄にはならなかった。1829年、ロシアとトルコの和平交渉に関連して、コンスタンチノープルとサンクトペテルブルクを訪問した。その後もプロイセンの民政と軍事両方で功績を残した。1838年から1847年まではベルリンの総督を務めたが、健康を害して引退し、1851年1月16日にベルリン近郊のリングホーフェンの自宅で亡くなった。

彼は、以下のような、軍事や歴史に関する重要な作品を執筆した。

・『軍隊 1806年』(ワイマール、1807年)
・『オーストリアの将軍たちのための、カール公の高等戦争術の原則』
・『軍隊および1806 年のホーエンローエ軍の出来事についてのリューレ・フォン・リリエンシュテルンの報告書について』
・『1813年の休戦までのプロイセン・ロシア戦線』(ベルリン、1813年)
・『1815 年のウェリントンとブリュヒャーの下での従軍記』(シュトゥットガルト、1817 年)
・『1813 年から 1814 年の軍事的展開:休戦終了からパリ征服までのシレジア軍の戦役』(ベルリン、1824 年)
・『1813 年から 1815 年の主要な作戦と戦闘についての考察』(ベルリン、1825 年)(原題:Armee 1806)
・『ナポレオンの戦略 1813 年』(ベルリン、1827 年)
・『ライン川下流のローマ街道に関する小稿(』ベルリン、1834年)

ミュフリングは、地図の暈おうの発明者でもある。彼の回想録『我が人生より』は1851年にベルリンで出版された。

=参考文献=
The Encyclopaedia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 第 18 巻(1911)

2020年5月12日火曜日

プロイセン軍人(4)ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(1757-1807)

ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(Heinrich von Bülow)は1770年にブランデンベルクのファルケンベルクで生まれた。彼の兄はプロイセン軍人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ビューローである。彼はベルリンの陸軍士官学校で学び、その後プロイセン軍に入隊する。だがすぐに退役し、ポリビウス、タキトゥス、J.J.ルソーの研究に没頭し、その後、ネーデルラントに短期間赴任した。その後、劇場の設立に着手したが、すぐにその計画を断念し、アメリカを訪問した。金欠ながらも経験を蓄えた彼は帰国すると著作に取り掛かる。彼の最初の仕事は「戦争術」に関するもので、その中で彼は並々ならぬ才能を発揮した。貨幣に関する本を書き、ムンゴ・パークの旅行記を翻訳し、1801年には1800年の戦役についての本を出版した。1804年には『近代戦争論』(Lehrsätze des neuern Krieges)を書き、他にもいくつかの兵学書を書いているが、その中に『あるべき近代の戦術』がある。前者では、彼は戦略と戦術の区別を指摘し、三角形をすべての軍事作戦の基礎としている。彼のこの原則は、ジョミニをはじめとするフランスの著者たちによって反論されている。1805年の戦争史を書いたことで、ロシアとオーストリア政府の要請でプロイセンにて投獄された。1807年、神経性の熱病でリガの牢獄で死去。スヴェーデンボリの信奉者であった。

=参考文献=
Encyclopædia Americana: A Popular Dictionary of Arts, Sciences, Literature, History, Politics, and Biography, Brought Down to the Present Time; Including a Copious Collection of Original Articles in American Biography; on the Basis of the Seventh Edition of the German Conversations-Lexicon, 第 2 巻