2019年7月24日水曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (3)

シウダード・ロドリゴの攻囲戦
(1810年4月〜7月)
ナポレオンから「勝利の申し子」との格別の呼び名をつけられたエスリンク公は、1810年 、「ウェリントンを海に追い落とす」任務を命じられた。 彼はイベリア半島でのフランス軍の巻き返しを目的として、8万強の軍隊の指揮を執り、ポルトガルにある拠点の一つシウダード・ロドリゴ攻略に向けて戦役を開始した。 そこの守備隊は4,000人弱の兵力しかなかったが、それでも3ヶ月に及ぶ激しい包囲を持ちこたえ続けた。 わずかな兵力で守られた要塞に長いこと手こずっているのは、機嫌を損ねるに十分であったが、マッセナは抜け目ないことに本国に向けては敵の数を実際の3倍で報告していた。彼は自軍の損耗については何も報告していないが、スペイン軍の見積ったところの3,400兵はおそらく大げさな数ではなかろう。これ以外でも、マッセナは自分の名を汚しかねない出来事を報告せずにいた。マッセナは敵の守備隊に名誉ある撤退を約束していたにも関わらず、全員を捕虜にてしまった!彼は住民の自由と財産を保障すると約束していたが、地元の評議員たちを不潔な穴倉に閉じ込め、聖ファン教会の聖職者たちを拘束し、街全体に重い徴収金を課した。

ブサコの戦い(1810年9月27日)
ポルトガルの最重要拠点であるエルバスの隣にあるアルメイダが、次の攻略目標となった。 弾薬庫の爆発により街の守備隊に大ダメージを与えたことで、敵は即座に降伏した。アルメイダの守備隊(ほぼ地元民から構成されていた)がシウダード・ロドリゴのそれと同じくらいに雄々しく戦っていたならば、もっと時間がかかったと思われる。そしてマッセナはウェリントンの追撃にかかる。ウェリントンの兵力はマッセナより劣勢で、しかもその半数はポルトガル兵で、とても当てにできたものではなかった。ウェリントンは勝利の見込みの薄い戦いに兵を投じる余裕はなかった。たとえ勝利を確信したとしても同じ事だった。彼の補給線は遠く離れている一方で、マッセナは手の届く場所にそれを有していたからだ。それゆえウェリントンはゆっくりと、完璧に秩序を保ちつつ、トレス・ヴェドラスに向けて撤退した。一度だけ、マッセナは思い切って撤退するウェリントンを攻撃してきた。ブサコの高地での戦闘で、彼は2千兵を失い、さらに多くの兵を負傷させたが、敵のイギリス兵、ポルトガル兵にはさほどの損害を与えられなかった。撤退する敵軍を大いに勇気付ける戦績を作ってやった後で、マッセナは急いて同じ試みを繰り返すことはなかった。敵はひたすら撤退しているーマッセナは敵軍の船はテージョ川で待機していると予想を立てた。軍を進めていくと、脱落兵に遭遇した。そのポルトガル兵は彼が手に取れる物全て持って軍を離脱していた。マッセナはじきに首都は手に落ちるとの希望的観測に固執していたが、彼の予想を裏切って敵の連合国軍は行軍を停止すると、最悪の形で彼を待ち構えていたのだった!
トレス・ヴェドラス線と対峙するマッセナ
敵軍はマッセナが予想もしない位置に陣取っていた。だがその位置は、優勢の相手から攻撃を受けた場合に、いつでもウェリントンが撤退判断を可能な方向にあった。マッセナはその布陣を偵察すると、ここでの戦闘はブサコの時よりもさらに致命的であると即座に察した。マッセナは憤激した。事実、彼の状況は絶体絶命だった。連合国軍の精鋭部隊がマッセナの側面に張り付いているだけでなく、後方では農民たちが、マッセナが行軍中にした残虐行為に対して報復してやると気炎を上げていた。マッセナの行軍の後には、煙と廃墟が残された。これらは疑いもなく、愛国心に駆られた住民らが逃亡する際に、念入りに糧食がフランス軍の手に落ちないようにした事への報復措置だった。マッセナの手に落ちた脱落者は、殺されるか、死より辛い拷問にあった。フランス軍とスペインをつなぐ連絡線は遮断され、彼の眼の前には敵が隙を見せずに構えており、また小規模ながらも果敢なゲリラの群れが頻繁にフランス兵たちを悩ませた。戦術的な難局、物資の欠乏、病気の蔓延、そのうちウェリントンが補強を得て攻勢を仕掛けてくる恐れ、こうした要因にかられたマッセナは確実な打撃を敵に与えて、可能ならば、己の幸運の星を取り戻そうと切望した。彼はウェリントンを戦線からおびき出そうとしたが無駄に終わる。オポルトへの足がかりを得るため、テージョ川方面に軍を進める気配を見せたが、こうした陽動作戦は全て予測されており、未然にくじかれ成果をほとんどあげられなかった。言葉にならないほどの屈辱を味わいながら、マッセナはサンタレンへの退却を余儀なくされた。そこにて本国に要請した補強を得られるまで、自軍を保全しようとしていた。今や立場が逆転して、ウェリントンがマッセナを追撃していた。サンタレンに逗留して数日のうちに、もし病気の蔓延した生き残りの兵たちを救うならば、スペインまで撤退せねばなら無いと判断するに至る。ウォルター・スコット曰く、

「記憶に残る撤退戦が為されたのは、3月4日であった。マッセナの振る舞いには良い面と悪い面の極端に異なる2点の特徴があった。もし人道性という視点で考慮するならば、マッセナが部下の兵士にさせた悪行について詳らかに記載すると、読者は憤慨のあまり彼の名声を否定したくなるはずだ。俗間の迷信めいて、マッセナは撤退時には悪霊が化けて出ると言われた建物を破壊していた。あたかもフランス軍は、ポルトガルを去るにあたり、彼らが確かにそこにいた証として廃墟のみを後に残してやろうと決心したかのようだった。軍規は箍が外れ、軍隊は醜悪かつ恐ろしい集団と化していた。彼らによる犯罪行為は人類に与えうる恐怖全てを体現していた。だがこのような悪行に目を瞑り、マッセナを軍事指導者としてのみ評価するならば、彼の撤退戦は、彼の名を高めたそれまでの数々の成功と同じくらい、見事なものだったと言って良いだろう。もし彼が幸運の女神の申し子と正しく呼ばれていたとしても、この時の運勢は敵側を利していたことから、彼は女神の恩寵ではなく、自身の軍才によって名声を手にしたと言えよう。ポルトガル北部の荒々しい山間部を通って撤退する間、マッセナは休む間も無くウェリントン卿に追われ続けた。用兵について熟知しており、冷静にそれを行える両指揮官は、まるでチェスのゲームのように、相互に出方を見つつ自軍を動かした。」

マッセナの見事な撤退戦をウェリントン以上に間近に見て賞賛した人物はいなかった。 しかし、その栄光はネイ元帥と分かち合う物であったことを失念してはならない。この英雄は、フランス軍が危険を免れる場所にたどり着くまで、殿軍を指揮し続けた。 そしてフランス軍が完全な破壊を避けられたのは、大いに彼の働きに依る。 マッセナ自身は嫌気がさし、気落ちしていた。ネイと彼は始終諍いを起こしていたのだ。 そして、さほど成果の上がらなかった取るに足らない戦闘ののち、彼は自身の罷免を要求した。

彼の太々しいほど嘘にまみれた戦況報告にも関わらず、皇帝は彼が敵に損耗を少しも与えることなく、優秀な兵隊の半数を失ったことを知った。1812年の間、マッセナは第8師団長としてプロヴァンスに留め置かれた。皇帝の運勢は沈みつつあったが、彼が再出仕を求められることはなかった。 これほどまでにナポレオンはポルトガル戦役の悲惨な結果に立腹していたのである。

ルイ18世の復位により、マッセナは再び軍の指揮権を与えらた。ナポレオンがカンヌに上陸した時、彼はトゥーロンにいた。「公爵」とナポレオンは手紙で呼びかけた。「トゥーロンの城壁にエスリンクの幟を掲げ、我に続け!」マッセナはためらった。彼はボナパルトから受けた侮辱に憤慨しつつも、ブルボン朝からの冷遇に対しても不愉快に感じていた。彼は成り行きを素知らぬ顔で観察し、ボルドー、トゥールーズ、モンペリエ、そしてその他多くの街で三色旗が掲げられた模様を見て(つまりブルボンの旗色が悪くなったと見て)、それに倣った。

百日天下の間、公爵はナポレオンの軍事行動に何ら関与しなかった。ナポレオンの二度目の退位の後、ルイ18世が帰還するまでの間に、彼はパリの国民衛兵の指揮官に任命された。だがこの時の彼は気乗りしない、曖昧な態度を取っており、王族が再び戻ってくるのを見届けると、現役からの引退を決めた。マッセナは1817年4月4日に死去した。彼の葬儀には大勢が詰め寄せ、盛大なものになった。パリ東墓地[現ペール・ラシェーズ墓地]にある彼の墓石は白大理石で出来ており、『マッセナ』の文字が刻まれている。

セント・ヘレナ島でナポレオンはこう述懐している。「マッセナは卓越した人物だった。炎と戦場の混乱の中にいて、彼は抜きん出て堂々としており立派だった。銃声は彼の思考を研ぎ澄まし、知力と洞察力と 陽気さをもたらした。彼には滅多にない度胸と非凡なる粘り強さが備わっており、彼の才能は危険が最も差し迫った時にこそ発揮されるかと思われた。負けた時にさえ、あたかも勝者であったかのように、常に再度戦いに向かう構えが出来ていた。」ネイ、ランヌ、ミュラのようなヒーローめいた勇敢さを披露する機会はなかったとしても、戦いの趨勢を決する包括的な戦略眼と複雑な集団を組織する能力において、マッセナは彼らだけでなくフランス元帥全員よりも上回っていた。司令官としてのマッセナはナポレオンに次ぐ存在だった。彼の人となりを貶める欠陥は忌まわしいものだった。彼は貪欲にして強欲で、冷酷かつ卑劣だった。

エスリンク公は彼の資産と称号を引き継ぐ息子を残している。
マッセナの息子たち
プロスペロー(左)とフランソワ(右)

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