カルディエロの戦い(1805年) |
1806年、マッセナはジョゼフ・ボナパルトのナポリ行きに、軍を率いて随行した。しかし、カラブリアの堅牢な要塞の住民たちを除き、抵抗するものはほとんどおらず、現地住民らは侵略者に大人しく帰順した。この時の状況についてネルソン卿曰く、「住民らはさほど屈辱を感じていなかった。失うほどの名誉心をもとから持ち合わせていなかったのは誰もが知る話だが。だが、わずかばかりにある面目を失っていた。」
1807年、ナポリのマッセナはポーランドにてロシア軍に対抗するため大陸軍に召集された。アイラウの戦いが終わった直後にオスタオーデに到着すると、即座に右翼に配置され、これまで通り軍才と勇壮さでもって軍を指揮した。この戦役の終盤に、マッセナはリヴォリ公に叙爵され、その地位が格上感をもたらすための大金を与えられた。彼とナポレオンとの間の長きにわたる不仲を知る者らは、このような好意の証を幾分驚きつつ眺めていたが、ナポレオン本人は、彼が想像していた以上に敵対国がしぶといのを見て、優れた指揮官をうまいこと己に縛り付けておきたかった故のことだった。
新たに公爵になったことで、廷臣のうちに数えられるようになったが、マッセナは宮廷生活を唾棄していた。お作法なぞ彼の知ったことではないし、華燭の宴も退屈極まりない。お世辞や追従の類も彼は門外漢であった。ある日、ベルティエを始め大勢の軍人らと狩猟をしていた時、主任狩猟官の銃から放たれた弾丸が運悪くマッセナの左目に当たり、失明させてしまった。マッセナは50もの戦場で己の身を曝し、何頭もの乗馬を撃たれてきたが、これが彼にとって始めての負傷だった。
「悲運は足音もなく去来し、安穏のうちにこそ現れる。
地揺れが髪一本で首吊りし男を救うこともあろう。」
1809年の戦役中、マッセナはプファフェンハウゼンにてオーストリア軍の側面を陥落させるという輝かしい戦果を挙げた。 ランツフートとエックミュールでは、皇帝本軍を見事に支援した。 だが何よりも彼が持ち前の豪胆さを発揮したのは、単独で戦ったエーベルスベルクにおいてである。この強固な砦を備えた村は急峻で岩の多いトラウン川の縁に位置し、そこから川にかけては難攻不落であった。3万以上のオーストリア兵と強固な砲列で村は防衛されており、ただ一つある橋のみが村に通じていたため、フランス軍にとって攻略は一層困難かと思われた。だがしかし、この性急な元帥は 一気呵成に攻めたてると村を奪い取った。その模様はナポレオン本人さえも驚嘆させた。
エーベルスベルクの戦い(1809年) |
アスペルンとエスリンクの村は、ドナウ川の岸辺に広がる平野の両端に位置していた。5月21日にオーストリア軍が進軍してきた時には、両村ともフランス軍が押さえており、仏墺双方の間で日没まで続く血なまぐさい戦いが繰り広げられた。翌日、マッセナは小規模の兵力を率いてアスペルンの防衛にあたった。あっという間に村は燃え、あらゆる街路は屍体で埋め尽くされた。市場、教会、尖塔、家屋、街角、燃え盛る廃墟、何もかもが幾度となく奪い合いを繰り返された。マッセナの副官らはみな負傷するか命を落としたが、前線にいたにも関わらず銃撃も砲弾も刃も彼の身に掠ることはなかった。ドナウ川岸のフランス軍が多少なりとも自陣を保てたのは、マッセナの不屈の抗戦に依るところが大きい。彼に与えられた新しい称号エスリンク公(アスペルン公の方が相応しいのだが)は、ナポレオンがマッセナの傑出した働きに感じ入った様を見せつけた。「これぞ我が右腕よ!」マッセナの肩に寄りかかりつつ、ナポレオンはこう言ったものだった。
馬車に乗って指揮をするマッセナ |
このようにして、マッセナはエンゲルスドルフとワグラム、コルノイブルク、シュトッケラウ、シェーングラーバーン、そしてズノイモで連戦した。 ズノイモの戦いは膠着化し、勝利は難しいかと思われた。 ハンガリー人擲弾兵の部隊へ攻勢をかけると決めたマッセナは、馬に乗ると宣言した。 そして馬車を降りた直後、ひとつの砲弾がさっきまで腰掛けていた場所を直撃したのである。
パリに帰還したエスリンク公爵は、彼がとても懇意にしていたジョゼフィーヌが離婚の辱めを受けたことを不愉快に感じた。彼はジョゼフィーヌの優しい気性、才気、そして何よりも、ナポレオンがこの最良の部下に対してしばしば抱く猜疑心を、彼女が常に解きほぐしてくれた事に尊敬の念を抱いていた。以降、彼は以前にも増して、宮廷に姿を現さなくなった。
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