2019年8月1日木曜日

1-40-a アンドレ・マッセナ (1)




元帥の中で最も優れていたアンドレ・マッセナは1758年5月6日にニースに生誕した。幼くして孤児となり、財産も残されていなかった彼は十分な教育を得ることができなかった。少年だった彼は、商船の船長だった親族を介して船乗りになったが、すぐに海上生活にうんざりして、別の親族が大佐を務める連隊に兵卒として入隊した。

アンドレ・マッセナ
軍務を滞りなく果たしていたアンドレ青年は、そのうちに伍長に昇進した。これよりはるか先、フランス元帥に任命された際に、彼はこの時の昇進の方がずっと満足感を覚えたと述べている。数年のうちに軍曹を経て少尉に昇進したが、中尉には到達できなかった。この王国の軍事力を蝕む要素となっていた旧体制の下では、功労者とはいえ、出自にも後ろ盾にも恵まれていない者には将校の肩章は与えられなかったのである。1789年、14年もの軍隊生活ののちに、希望を失ったマッセナは、失意のうちに退役すると、結婚し、生まれ故郷に居を構えた。だが、精神を突き動かすような革命の波に誘われ、再び軍務へ戻った。 兵卒らは上官を選ぶことを許された。 そして彼は驚くほど急速に昇進を重ね、 1793年には中将に到達した。 またこの時点にて、勇敢さと高いスキルの持ち主だとの評判を確立していた。

これより、彼の軌跡はナポレオンと分かち難いものとなる。彼はイタリア方面での重要な軍事作戦に常に参加しており、この途方もない戦役の間ずっと司令官のナポレオンと上手く協働していたので、ある時ナポレオンは「貴官の軍は他の将軍の軍より強力で、また貴官ひとりの働きぶりは6千の兵士にも匹敵すると言っても差し支えないだろう」との手紙を送っている。オーストリア皇帝との和平締結についてパリへの伝達役に選ばれたマッセナに向けた総裁政府のもてなしぶりは、これ以上ない程であった。

表向きにはデュパ将軍暗殺への報復措置として、実際にはカトリック教会の力を削ぐ目的で、共和国軍はローマを占領した。現地政府はベルティエの監督下のもと数ヶ月の間はとどめ置かれたが、ローマ市民の反発を押さえつけるため、より強固な統制力が必要となり、マッセナが派遣されることになった。しかしながら彼の着任はローマに駐留している軍人たちとって、好ましいものではなかった。フランス軍の将帥の中で、彼以上に兵士たちから不人気な者はいなかった。彼は飽くなき貪欲さで、征服地の住民だけでなく、彼が指揮する兵士たちからも搾取していた。 彼の強欲を満たす対価なしに、衣服も、ワイン一杯も、一口分の食べ物でさえも兵卒たちは手にすることができなかった。 彼はあらゆる連隊に徴収のための手下を配置していた。手下どもが責務を忠実に果たすたびに、兵たちはマッセナへ呪詛の言葉を浴びせていた。不平不満の声は頻繁に上がったが、ほとんど聞き入られなかった。※ 事実、後にナポレオンは、ありていに言えば、マッセナがお気に入りの横領制度を放棄するのであれば二百万フランを払うと提案した。マッセナは金を受け取った上で、再び忌まわしい振る舞いを再開した。これが他の将軍であれば、言語道断であっただろうが、マッセナの軍才ゆえに完全にお咎めなしとなった。ローマへの途上、兵士たちがパンテオンに集結し、例の搾取構造の廃止を訴える宣言書にサインをしていることを知る。そしてマッセナがローマに入城するや否や、彼の鼻先にその宣言書が突きつけられた。この僭越行為に激怒したマッセナは、宣言書に署名した兵たちに翌日ローマを去るよう強制したが、従う者はいなかった。己の威勢がもはや通用しないと自覚したマッセナは、次席の将軍に全ての指揮権を委譲して退任すると、パリに帰還した。

第2次チューリッヒの戦い (1799年9月25日)
ボナパルトがエジプト遠征で不在の間、マッセナは主として東部戦線に駆り出された。彼はドナウ軍およびヘルヴェティア軍の二つの大軍の司令となり、よって彼の指揮範囲はイゼールからデュッセルドルフまでに及んだ。しかし戦況は一転しようとしていた。ロシアのスヴォーロフが他の将軍が指揮するフランス軍をイタリアから一掃せんとする傍らで、マッセナ自身もオーストリアのカール大公に手ひどくあしらわれたため、スイス側からフランスへの敵軍の侵略を許す瀬戸際に追い込まれた。幸運なことに、連合国軍の指揮官の間に意思疎通の齟齬が生じたことで、チューリッヒにてオーストリア=ロシア連合軍の片翼に大打撃を与えることができた。連合国軍の足並みがより揃っていれば、もしくはスヴォーロフの狙いが阻害されることがなければ、ロシアとオーストリアの軍隊はフォンテーヌブローの退位より15年も早くパリ入城を果たしていただろう。

オーストリア軍に投降するマッセナ
ナポレオンの帰還は戦局を様変わりさせる。ナポレオンがアルプス越えを行う一方でマッセナは、陸からはオーストリア軍に包囲され、海からはイギリス海軍によって封鎖されたジェノアの防衛を任じられた。彼は何度か決死の突撃を試み、うち一つは成功を収めたが、悲惨のうちに終わるものもあった。物資が枯渇し、住民の降伏を求める声が高まるに及んで、マッセナはついに投降した。だが、あと数時間持ちこたえれば、マレンゴの勝利者が救援にやってきたという事実を一層の屈辱とともに知ることになる。これより3、4年の間、彼はパリもしくはリュエルにある壮麗な居城で日々を過ごした。この城はかつてリシュリュー枢機卿が建設したもので、マッセナが購入できたのはひとえに略奪で得た富による。共和主義者であった彼は、第一統領の政権には好意を持っておらず、立法院議員となっても、政府の方針に対して賛同するよりも、反対する方が多かった。マッセナは間違いなくボナパルトを嫌悪しており、また彼からも嫌われていた。だが、政治的判断によって両者は互いに何食わぬ顔をしており、やがて自論も遠慮も打ちやったマッセナは、ナポレオンが皇帝即位を宣言した同日に、フランス元帥に任命された。

帝国元帥マッセナ
※しかしながら、ある時皇帝はマッセナを罰したことがあった。彼の指揮権を剥奪するのではなく、悪辣な方法で得た金を法的に取り立てるのでもなく、ナポレオンはマッセナが得た金の中から 2~300万フランを渡すよう、マッセナの金庫番に請求した。その金庫番は皇帝の命令に逆らいたくはなかったが、主人の許可なしにそれをする気になれなかった。かの独裁者は「金を払え。もしあいつがそのつもりなら、いくらでも悪あがきをさせておけ!」と言った。当然のごとくマッセナはみじんも抵抗することなくそれを許した。

=関連記事=


0 件のコメント:

コメントを投稿