革命期で最も優秀な将軍のひとりであったジャン=バティスト・クレベールは1753年にストラスブールに生まれた。
若い頃の彼は地元の街とパリで建築を学んだが、やがてその仕事に不満を感じると、どのようなキャリアを追い求めるべきか分からないまま実家に戻った。 偶然の出来事が彼の行く末を決定する。ある日、彼が居酒屋で飲んでいる時、静かに寛いでいただけのバイエルン人たちが、地元の若者の集団に絡まれているのに気がついた。クレベールは異国人達の方に味方して、同郷人らの心無い振る舞いを厳しく咎めた。若者らは苦言を意に介さず、より荒っぽくクレベールに向かってきた。クレベールは激高した。3、4人を相手にすると完膚なきまでに叩きのめした。感謝したバイエルン人達は、彼らにとって英雄に違いない人物が、その長所がちゃんと認められて報われる職業に就いていないことを残念がった。 彼らは軍隊生活の面白さをクレベールに話して見せると、ミュンヘンにある軍事学校への入学を薦めた。 クレベールはその提案を受け入れ、その学校で最優秀の生徒の一人となった。 1772年、彼は軍人として就役したが、その昇進は期待していたより遅かった。1783年の時点でただの少尉でしかなかった。気分を害した彼は休職を願い出ると、故郷のストラスブールに戻った。友人達は退役して、もともとの建築の道を志すよう薦めた。それから6年間、彼は上アルザス地方の公共建築監督官を務めていた。しかし革命の呼び声に応じ、再び武器を手に取るようになった。
その後開幕した戦役に従軍すると、クレベールの才能は当然ながら注目される。キュスティーヌ将軍の下では、あっという間に副参謀まで昇進をした。そしてヴァンデの内戦では師団を率いるまでになった。
その後クレベールがドイツ方面戦役で獲得した名声は、ボナパルトがエジプト遠征に彼を同行させたいと思うきっかけとなった。ナポレオンの戦歴に詳しい者ならば、クレベールがパレスチナ、シリアにおけるフランス軍の勝利に大いに貢献したことを知っていよう。ナポレオンがフランスに帰国する際、彼は信頼でき、また何よりも望ましい人物であるとして、軍隊の指揮権をクレベールに譲り渡した。 彼は15,000人もの兵を擁していたものの、トルコ人はあらゆる場所から兵力を募っていた。しかし、フランスから補強部隊が到着するまで、持ちこたえる以外に選択肢はなかった。 彼はダミエッタのトルコ人を打ち負かした。1800年3月の、ヘリオポリスの遺跡の近くの戦いでは敵を凌駕した。 そして彼の不在時に反乱を起こしたカイロを攻略するため帰還した。彼は不幸な住民に無慈悲な仕打ちをしたとの説があるが、おそらく真実だと思われる。 だが彼の落日はすでに迫っていた。
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ヘリオポリスの戦い(1800年3月20日)
クレベール率いるフランス軍が、
兵力で圧倒するオスマン帝国軍を破った |
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クレベールの暗殺 |
1800年6月14日、ギザへの行軍から戻ったばかりのクレベールは、ダマ将軍との朝食に招待された。午後2時頃、彼の帰還を待っていた他の客人に応対した後、彼は自分の営舎とダマの住居の間にある長いテラスを歩いていた。彼は建築家のプロタンを伴っていた。両者はゆっくりと歩みを進め、互いの会話に耳を傾けていた。テラスの端にある水槽の中に隠れていた男が隠れ場所を離れ、慎重に二人の後をつけると、どちらにも気づかれることなく、クレベールの左側の鼠径部に短剣を突き刺した。クレベールは手すりにもたれかかると、叫び声をあげた。「何てことだ、やられたぞ!」そして血まみれになって崩れ落ちた。真っ先に暗殺者の存在に気づいたプロタンは、血にぬれた抜き身の刃を持って自分に向かって来る相手から自分の杖で身を守ろうとしたが、6つの刺傷を受け、すぐにクレベールの足下に崩れ落ちた。暗殺者はその後もクレベールを三回刺したが、その手間をかけるまでもなく、最初の一撃で効果は十分だった。その時、クレベールの最後の言葉を聞いたある兵士が、警報を発した。すぐにフランス兵がテラスに集結し、暗殺者は捕えられた。
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スレイマン・アル=ハラビ |
アレッポ生まれのスレイマンは、非常に狂信的な若者だった。彼は何度かメッカへ巡礼を行っていた。彼の悲願はモスクのいずれかでコーランの説教師として認められることだった。彼はシリアとエジプトの地に異教徒が跋扈するのを屈辱的な思いで見ていた。この狂信者はまた愛国者でもあった。彼は侵略者による同胞への残虐行為に怒りで燃え上がっていた。彼は声を大にして、真の教えの伝統がかくも荒廃させられて良いものかとイスラム教徒に向かって宣言した。戦場では敵に対抗できなくとも、家族や信仰のために、神と預言者への犠牲として捧げるべき者に狙いをつけよと主張した。彼の熱意はアフマド・アガの知るとことになった。すぐにアフマド・アガは彼をクレベール暗殺の道具としようと決めた。このアフマドはオスマン帝国の大宰相のお気に入りだったが、最近は不興を買っていた。しかし、オスマン帝国軍が心血注いで抗戦している名将に死をもたらせば、彼は彼の主人の信頼を取り戻すことが出来ると考えたのだ。甚だしく高揚しているスレイマンを突き動かそうと、アフマドは彼に対して、国と信仰にとって仇敵である男を暗殺することは、この上ない国と神の預言者へのご奉仕になると説得した。あわれな男はそれを頭から信じ、恐ろしい任務を引き受けた。彼は5月の頭にカイロに着くと、まずはモスクの中に一時的に身を潜めた。まるひと月クレベールがギザから戻ってくるのを待っているうちに、じれったくなった彼は自らギザの街に足を運んだ。だが彼がギザに到着したまさにその日、クレベールはカイロに向けて出立していた。こうした妨げはむしろ更に彼のやり通そうとする意思を強めた。彼はクレベールの後を急いで追いかけると、上述のやり方で死をもたらしたのだった。彼の同胞のうち最も血に飢えた連中と引けを取らないぐらい凶悪なフランス軍人らから慈悲をもらおうとはスレイマン自身も期待してなかった。だが人の心がある者ならば身震いするような惨たらしい死が与えられるとは、彼自身も世の人も予想しなかった。彼は生きたまま串刺しにされたのだった。その苦痛は無慈悲にも三日三晩続いた!スレイマンの死骸は防腐処理が施されてパリに運ばれ、自然史博物館に収蔵された。
軍人としてのクレベールは大いに賞賛するに価する人物だった。彼はランヌのようなヒロイックな勇敢さと、ベルナドットのような冷静な判断力を備えていた。
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