2018年7月21日土曜日

1-33-a ジャン=アンドッシュ・ジュノー

















アンドッシュ・ジュノーは1771年10月23日、ブシー=ル=グランにて貧しい両親のもとに生まれた。

ジュノーとナポレオン
(トゥーロンにて)
ある話によれば、父親に対し不敬を働き、物を盗むなどの諍いを起こして、早々に軍隊生活を送るようになったという。トゥーロン攻囲戦まで彼のキャリアに特筆すべきものはなかったが、ここで彼は幸運にも、若き砲兵指揮官の目を引き付けることができた。激しい砲撃の中、ボナパルトは伝令を遣わそうと、身近な者に誰か文章を書くことができるか尋ねた。ジュノーが隊列から進み出て命令書を認めているその時、飛来した弾丸が地面をえぐり、両者を埃まみれにした。 「これはちょうどよかった、上官殿」と叫ぶと、「インクを乾かす砂が欲しいところでした」と笑った。 「肝の太い奴だ」とナポレオンは返した。 「何か望みはあるか?」 「昇進させてください。その名誉に泥を塗りません!」彼はすぐに軍曹に昇進した。その後間もないうちに士官となり 1796年には彼の恩人によってその副官に任命された。

イタリア戦役ではこの士官は豪胆さと、そして伝えられるところでは、比類なき強欲さの両方で名をはせた。彼は前者によって大佐の地位を獲得し、後者によって奢侈の限りを尽くしたのだった。

ジュノー
エジプトでも、彼は旅団長として活躍し、帰還直後に中将に任命された。当然の成り行きでレジオン・ド・ヌール勲章を授けられたが、ナポレオンからの寵遇の何に勝る証として、パリの知事職とポルトガル大使の任務を拝命することになった。後者は最も実入り良い地位であった。胆力に欠けたジョアン王太子に和平を高い値段で売りつけると、今後両国政府間に恒久的な合意がなされたと、大使の任務を完璧に達成した気分でパリに凱旋した。だが、ドイツ戦役が終わって間もないうちに、彼は再びリスボンに戻ると、死に体のポルトガル政府からさらに金を巻き上げ、全イギリス人居住者を逮捕し、イギリスに属する財産全てを没収すると高らかに宣言をした。ジョアン王太子は気弱で無力であったが、誠実な人物であり、彼は自国にとって最良の同盟国にそのような恩知らずの仕打ちをするのを拒んだ。彼はイギリス人に対し、有り金を持って、どんな手を使ってでもこの国を退去するよう助言した。この手際よい通知のおかげで、イギリス人の大部分は慌ただしい中でかき集めることのできた財産とともに上手いこと逃げおおせた。しかし、ナポレオンは手を引かなかった。当初の目論見の失敗を知るより先に、ナポレオンはスペイン政府内の姑息な連中とポルトガルを分割統治する密約を締結した。ポルトガル王族を捕虜とし、同国内の重要拠点を占領するために、ナポレオンはこうした企てに躊躇しない適任者として、ジュノーを大軍の長に据えた。

ポルトガルの守護者としての寓意画
(プロパガンダと思われる)
もしジュノーがまっとうな人間だったら、怒ってこの任務を放棄しただろう。 だが彼が道徳的な規範や人道性にまったく動かされないところは、盗賊の頭目同様と言ってよかった。 彼は1807年11月にこの不運な王国に足を踏み入れた。とっかかりとして自分はポルトガル国民の朋友であり、ジョアン王太子の盟友としてこの国に来たのだと宣言したが、彼の部下達は一様に極悪非道であった。 アルカンタラからリスボンまでの行進の途上で、彼の兵士たちは家畜、食糧、金銀、ありとあらゆる物を奪い取っていった。歴史家サウジー曰く、「兵士らは行く先々で略奪を働き、士官たちは宿営先を強奪して行った。オリーブ等の果樹は燃料のために、もしくは仮の兵舎を建てるために伐採され、民家や教会は略奪された。また兵士らは教会の宗教画を切り裂き、聖餐をまき散らして踏む付けるがままにした。」フランス軍はアブランテスに入城すると、その街にいる限りの家畜を徴集した。軍の需要を満たす以上の家畜が手に入ったので、余りを市場で売りはらった。彼らの司令官は、12,000人分のブーツを徴集しようとした。これは明らかに無理難題だった。貧しい住民にとってせいぜい2、3千人分を揃えるのがやっとだった。 「ポルトガル人にとってこうした要求よりも、フランス軍による侮辱や無作法の方がより耐え難いものだった。カプチン派修道院に宿営したある大佐は、守衛が履いていたブーツを奪い取り、修道院所蔵の貴重品を奪ったのに加え、金を持ってこなければお前らを射撃の的にするぞと脅した。僧侶らは素寒貧であったが、あたかも価値があるものを見つけて来ると装って逃亡した。聖アントニオの教会では、祭壇は飼葉桶として用いられた。」

このようにしてジュノーは首都を目指して行軍したが、彼が王家の面々を捕まえるより先に彼らはブラジルに逃亡していた。獲物が逃げおおせたことを知るとジュノーは烈火のごとく怒った。ジョアン王太子が任命した摂政を打ち捨てると、強制的に献金を徴収し、彼の措置に反対するすべての人を厳しく罰し、時折起きる反乱を血なまぐさい処刑によって抑えつけた。つまるところ、彼は際限なく放逸なやり方で、住民たちの生命と財産を支配していた。かつて花と栄えたリスボンの街がジュノーによって無残に衰退していった様は、前掲の歴史家の言葉以上に的確に説明できるものはないだろう。

ブラジルへ亡命するポルトガル宮廷


「この時のリスボンの苦境は、歴史上ほかに類を見ない程であった。戦火や疫病、飢饉を被ったわけではないのに、それ以上の災厄を街にもたらしていた。この苦境をどうしようにも望み薄で、当時のポルトガルが救援を求める先はなかった。行政機関は強圧的な軍事政権に掌握されたことで、そのサービスはより単純化され、内政部門に雇用されていた人々の大部分は職を失った。 ある者はひとまず転業し、ある者は空席に応募するための書類を渡され、またわずかな者はささやかな年金を約束された。貿易業に従事していた者や、それに近い業種にいた者らはみな窮地に陥った。多くの家庭は貧窮へと急転落していった。人々は些細なものから手放していき、次いで売れるものは皆売り払うようになった。このような状況下では、そうした物は半額でしか売れず、一方で食料品は日々高騰していった。かつては素晴らしい食器棚に置かれていた皿や、めでたい日にはその身を飾っていた装飾品を持った人々が、それらを金に変えようと殺到している様を見るのは気鬱であった。男たちが不安に青ざめた顔で、同じ境遇に置かれた群衆の間をかき分けてる様、女たちが僅かばかりの貴重品を秤売りにして嘆いている様を見るのも同様だった。人士とみられていた人物は施しを求めるようになり、何千もの人が追い詰められたあげく、乞食や盗みを働くようになった。このような窮状に陥るまで、非の打ち所のないと知られた淑女らは辻に立って春をひさいでいた。母親たちは 空腹の子供たちのパンを得るために、娘たちは飢えた両親のために。ヨーロッパで最も繁栄していた街が何と無残に衰退したことか!」

ヴィメイロの戦い(1808年)
ジュノーはポルトガル全土に渡って軍隊を派遣し要塞を占領させ、王国は一瞬のうちに彼の支配下に置かれた。皇帝によってアブランテス公爵に叙爵された彼の野心は天井知らずに見えた。彼はルシタニアの王冠がもうじき手に入ると思っていた。ある説では、彼は主君の口からそのような高位につく事への十分な了承を得ていると言ったそうだが、自ら王になる目的でポルトガルの貴族や聖職者を足元にひれふさせようとしたのは確かであろう。しかし、王位を手にする夢はあっさりと打ち破られた。各都市に配置していた彼の部下は、彼と同じくらい凶悪かつ残酷だったが、毎日のように絶え間なく勃発する暴動を鎮めることができなかった。一方、アーサー・ウェルズリー卿指揮下のイギリス軍はポルトガル西岸に上陸し、フランス軍を同国から追い出すために進軍を開始した。ジュノーは配下の将軍らとそれぞれの師団を収集すると、大急ぎで敵に対抗しようとした。ヴィメイロの戦いが決定打となって、彼はポルトガルから兵を引き上げることに同意させられた。しかし、彼がリスボンを発つ前に、彼と彼の兵士らは大々的に略奪し、それによる荷物の運搬のために5つの船を用意するよう命令した。 貴重な絵画、藍染料の樽53本、優良馬、国立博物館所蔵の多数の写本と珍品、そして驚くべき量の金が積まれていた。屈辱的にもジュノーはこの戦利品の大部分を手放すよう強制されたが、彼は残りの人生を送るのに十分な量を奪われるのをかろうじて免れた。 ポルトガル人の呪詛を背にしながらフランスに戻ると、部下の将軍の失態を微塵も許す気のない、激高した主君と対面する。この時から1812年まで、彼は完全に不興を被っていた。

ロシア遠征ではジュノーは師団を率いたが、戦勝を得られなかったので、元帥杖を手に入れることができなかった。 彼は帰国後、オーストリア軍の侵攻に対するためイリリヤに派遣された。 しかし、今や彼は心も体も壊れかけていた。長きに渡る発熱ののち錯乱状態になった。彼の狂気は召使たちの物笑いとなったが、しまいには全くの心神喪失となり、モンバルの父親の家へと移り、そこに1813年7月22日に到着した。家に着いて2時間もったないうちに立ち上がると、高窓を飛び越えて落下し、それによって腿が砕かれた。 足は切断されたが炎症が重くなり、到着から6日後、彼は息を引き取った。

人となりとして、ジュノーは際立った美男子だった。 彼の振る舞いは荒々しく容赦なかった。 性格は不公平で、貪欲で、残酷であった。 しかし、彼には相当な心身の強靭さが備わっていて、彼以上に命令を遂行しよう努める人物は他にいなかった。 この賞賛は、彼のキャリア初期に当てはまるだろう。 不興を被った後の彼は、まるで別の人間のようだった。 しかしながら、あらゆる人間のうち、彼ほど全軍を指揮するのに不適合な者はいなかったのだが、ではなぜ彼が司令官に任命されたのか、それを思うと首をひねる。悪くばかり言ってはなんなので、彼を持ち上げる逸話を引用して、人物評を切り上げることにする。

エジプト遠征から戻ると、ジュノーは彼の親戚や友人と会うためにブルゴーニュに行き、立身出世しても昔と変わらない親愛の情を抱いていることを示した。彼はわずかばかりの教育を受けたモンバルに向かうと、かつての同級生たちと心からの挨拶を交わした。何よりも彼の感情を揺さぶったのは、死去したと思っていたかつての恩師と再会したことだった。 彼はその老人の首に腕を回すと接吻した。 金回りの良さそうな身なりをした見知らぬ男からこのような親愛の証を受け取った校長は、惚けたようになって、ほとんど言葉を発することができなかった。 「僕が分かりませんか?」「残念ながら」「何と!あなたの生徒の中で、最も怠け者で、素行が悪く、いいところのなかった奴が分からないなんて」「目の前にいるのはジュノー君かね」とその老人は恐る恐る尋ねた。 ジュノーは笑うと再度恩師を抱きしめ、やがて彼に年金を付与したとのことだ。




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